伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代 …… その一人が綴る偶感録

辺境のボブ・ディラン

2016年10月17日 | Weblog

 ボブ・ディランへの授章を日本の文脈で愚考してみた。15日の朝日新聞は、
〓吉田拓郎さんは「もし、あの時にボブ・ディランがいなかったら、と考える。ボブ・ディランがいたから今日があるような気もする」とのコメントを発表。また、泉谷しげるさんは「ボブ・ディランがノーベル文学賞、この違和感がたまらない。不思議な感じがする。それも含めて楽しめばいいじゃねぇか」とコメント。〓(抜粋)
 と報じている。
 「気もする」とは向こうを張っているようでもあるが、外形的(動機、スタイル)にはディラン以外にあり得ない。しかし実質的にはBEATLESのポピュラリティを準ったという以外ない(『結婚しようよ』の帰れコールを想起すれば足りる)。曲想には似たものがあったが、後の展開は明らかにBEATLES張りだ。双方の間(アワイ)を跨げばこういう物言いになるのだろう。ディランの日本公演でオーディエンスの一人として拓郎は滂沱の涙を流したと聞く。だから鼻っ柱でこう言ったのではあるまい。
 片や泉谷の発言は異色のようではあるが、ディランの本質を捉えている。数多のコメントの中で出色だった。発表直後のコンサートでディランは賞には一言も触れなかったらしいし、スウェーデン・アカデミーもコンタクトが未だ(14日現在)取れないそうだ。稿者も一報に接した時、受けるかな、が第一印象だった。
 碩学 内田 樹氏の炯眼を徴したい。代表作『日本辺境論』で、日本の侵略戦争について以下のように述べる。
<日露戦争後、満韓で日本がしたことは「ロシアが日露戦争に勝った場合にしそうなこと」を想像的に再演したものです。本質的には「キャッチアップ」なのです。
 日本のナショナリストたちが提言しているのは「他の国が『こんなこと』をしているのだから、うちも対抗上同じことをすべきである」という提言だけです。それだけです。他国がしていることにシステマティックに遅れることだけをわが国の外交戦略の機軸として提案している。
 事情は左翼でも変わりません。日本が彼らの求める「世界標準」に準拠していないことに不満なのです。すでに存在する「模範」と比したときの相対的劣位だけが彼らの思念を占めている。>(縮約)
 戦争に限らない。辺境ゆえの「本質的には『キャッチアップ』」は本邦太古よりの宿命的軌跡ではないか。どう抗弁しようとも2千年近い間、常に中華にキャッチアップしてきた。国づくりも文明の享受も光源は中華にありつづけた。文化はその後の意匠でしかない。辺境である日本はずっとそのような位相にあった。早い話、未だ嘗てこの国は文化は生んでも、文明を発出したためしがない。辺境であるゆえだ。
 維新後、中華は文字通りの中華から欧米、別けてもアメリカに変わる。東端から西端に変位しても辺境に違いはない。キャッチアップの対象は変わってもキャッチアップという宿命的軌跡は同等だ。俗にパラフレーズすると、中心・先端のエミュレーションである。後塵を拝する。「知らずば人真似」だ。ただ、それが「顰みに倣う」うちにやがて「鵜の真似をする烏」になると奈落が待つ。内田氏が明察する通りだ。
 戦後、キャッチアップの客体としてアメリカは劇的に存在感を増した。『属国』のゆえであろうか。「『世界標準』に準拠」は闡明に“アメリカがスタンダード”となり、市井の文化レベルに及ぶ。石原裕次郎の登場は“和製プレスリー”としての安っぽいキャッチアップであったし、ロカビリーやアメリカンポップスも同じ文脈であった。しかし戦前からの反米・嫌米感情は消しがたく伏流していた。60年・70年安保闘争の激しさは牢固たる反米感情を抜きにしては説明しがたい。さらに、70年代後半に事況は輻輳してくる。再度、内田氏の洞察を引きたい。
<日本はベトナム戦争の後方基地として、侵略に加担し、特需で経済成長の恩恵に浴していた。その受益者であることについての疾しさがあって、それが激しいベトナム反戦・反米闘争というかたちをとった。ところが、七五年にベトナム戦争が終わると、その反米気運が一気にしぼんで、たちまち親米的な空気が日本社会に拡がっていった。
 ベトナム戦争で悪化したアジア一円におけるアメリカのイメージの転換戦略において、最大限に活用されたのが、アメリカのカウンターカルチャーだった。もともとアメリカの中においても、ベトナム反戦を唱えるリベラルの運動は根強かった。キング牧師の公民権運動、マルコムXやモハメド・アリのブラック・ムスリム、ヒッピームーブメント、アメリカン・ニュー・シネマ、反戦フォークといった政治的・文化的な“カウンター”がホワイトハウスと軍産複合体をはげしく批判していた。ベトナム戦争が終わるとそれまで“カウンター”だったものがメインカルチャーに取って代わって、「自由と反抗の精神こそがアメリカだ」ということになった。若者たちは掌を返したように親米的な消費活動に熱中した。>(内田 樹×白井 聡『属国民主主義論』から縮約)
 新しい“中華”としてのアメリカがベトナム戦後、イメージ一新のため戦略的に活用したものが「カウンターカルチャー」であり、西端の辺境である日本はそれを生得的にキャッチアップした──括ればこうなるか。ならば、フォークソングの受容も同じ文脈といえる。“和製プレスリー”と違いはない。外形的にはそうだ。“和製ディラン”だ。しかし不可避な違いがあった。それが“カウンター”だ。同じホットドッグでも、こちらには毒が入っていた。プロテスト性である。プレスリーのやんちゃではなく、ディランのプロテストだ。反戦・反体制へ向かう毒だ。70年代の若者たちに共振を起こした音源はこの毒にちがいない。少なくとも「ベトナム戦争が終わる」まではそうだった。ところが少しのタイムラグで梯子を外された。「メインカルチャーに取って代わ」る戦略に搦め取られる。“和製ディラン”たちは舞台を去り、「BEATLESのポピュラリティを準った」者たちだけが残った。その意味ではディランから乖離する。そういういきさつを一絡げに「気もする」と、拓郎は言ったのではないか。
 ただし、拓郎のプロテスト性はミュージックシーンで弾けた。「テレビの歌はインチキではないか」とのプロテストがそれだ(先月の拙稿『70歳のラブソング』で触れた)。ステロタイプな中身のお仕着せ。サイジングされた一方的な充行。それらを“インチキ”と彼は斬り捨てた。十全に“カウンター”ではないか。たかが業界という勿れ。スチューデントパワーは潰えても、ミュージックシーンはドラスティックに変貌した。「時代を変える」とは手垢の付いたフレーズだが、その名に値する実例は極めて少ない。
 さてキャッチアップだが、ロックには曲が音楽であるための十分条件だ。詞は必要条件に止(トド)まる。ディープ・パープルにはインストゥルメンタルの名曲が多い。だが詞のないフォークはあり得ない。詞が必須だ。ロックはそのままエミュレートできるが、フォークはそうはいかない。原語のままだと、非ネイティブにはメッセージが届かない。プロテスト性は詞に託されるからだ。ところがこれは意訳であっても至難だ。言語の壁が立ちはだかる。原曲をコピーするか、外形は纏いつつ邦語で創作する以外ない。その中で、邦語をデフォルメしてロックに乗せ、メッセージ性を持たせるという離れ業をしてみせたのが桑田である。奏功した折衷策ともいえよう。だが、フォークには通用しない。詞を属性とするからだ。
 “カウンター”に話を戻そう。泉谷の「違和感」はこれに発する。プロテストが権威にオーソライズされるちぐはぐを語っている。フォークの「舞台を去り」俳優への華麗なる転進を果たした泉谷が言うのも違和感はあるが、確かに平仄が合わない。かつて受けたアカデミー賞はミュージックシーンの栄誉であり、ノーベル賞とは次元が異なる。人類網羅的な権威だ。平和賞ではなく、文学賞であるのは救いではあるが。政治的配慮に満ちた平和賞ではイグノーベル賞になってしまう。
 むかしボブ・ディランの真似をして広島から山陰へ放浪の旅に出たと、今月3日のライブで拓郎は語った。お小遣いを貰い、旅先から安否を電話する。なんとも妙ちくりんな旅だった、と。「あの時にボブ・ディランがいなかったら」、きっと放浪の旅を真似たりはしなかったであろう。だが、「ボブ・ディランがいたから」音楽の旅は確かに始まり、いま半世紀を越えている。キャッチアップは成ったといえなくもない。 □

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