伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

おくのほそ道

2017年02月07日 | エッセー

 教師のひと言が決定打になることがある。わたしの場合、小学校高学年の時だった。作文の課題に、家族で松茸狩りに行った模様を書いた。文章のあわいに幼稚な俳句を二、三首入れた。一瞥した先生が、「お、松尾芭蕉みたいだね」と呟いて受け取ってくれた。知らないままの意匠だった。爾来、理科好きから文系に軌道が急転回した。なんとも他愛のない話だが、志向は今に至るまでそのままだ。ただし、功成り名を遂げたわけではない。ぶれないディレッタントであり続けいる。。
 受験期に及んで芭蕉を学び、「おくのほそ道」を読み、そして何度も意表を突かれた。

   夏草や兵どもが夢の跡
 素朴にも、勝手に関ヶ原をイメージしていた。ところが、「おくのほそ道」に出てくる。ルートは深川を起点に陸奥、出羽、北陸と周り伊勢を終点とする。当然、関ヶ原は入らない。奥州平泉で、詠んだ句だ。
 〈さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ。〉
 この後につづく句である。義経を護って討ち死にした「義臣」を偲び、悲涙を零したと。五百年も前の話だが、芭蕉の涙から三百三十年を隔つ当今、はたして同等の創造力を駆使し得るか。身辺の長足の進歩に比して、甚だ心許ない。

 行程は前後するが、松島については他の作品と共に十年九月の拙稿『司馬遼太郎の怒り』で触れた。「松島やああ松島や松島や」は、近代に偽造された観光用のキャッチコピーである。「おくのほそ道」では
 〈その気色窅然として、美人の顔を装ふ。ちはやぶる神の昔、大山祇のなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽くさむ。〉
 と、「美人の顔」を前に失語している。その顔(カンバセ)が須臾にして老残を晒す業果を受けたのが六年前の三月。愚稿のちょうど半年後だった。まことに自然は容赦がない。

 随行した弟子曾良の献身と師弟の情愛は夙に知られるが、金沢で早逝した愛弟子を鎮魂した句がある。
   塚も動けわが泣く声は秋の風
 「塚も動け」が壮絶だ。血を吐かんばかりの慟哭である。塚とは墓の謂だ。「軽み」を旨とした俳聖にこれほどまでの熱いものがあったとは。
「情熱なくして偉業が達成されたことはない」
 エマーソンの箴言が浮かぶ。十七世紀中葉、連歌から派生した俳諧をいかに根付かせるか。いわば新興のポップカルチャーである。開拓者としての文化的使命を自覚していたにちがいない。先ずは後継の流れだ。それが滞ることは、哀惜も当然ながら肺腑を抉られるほど辛かっただろう。

 景勝を縫いながら句境が湧き、作品が生まれる。俳句を捻りながらの諸国漫遊。そういう先入主は「おくのほそ道」冒頭で微塵に砕かれる。まるで死出の旅だ。
 〈月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり。〉
 持病もあり体調も優れない中、居宅をも売り払い、憑かれたように旅に出る。ただし旅程は曾良が管理し巨細に師匠を支援し、かつ記録する。驚くのはその速さだ。旅費の関係もあり、ひたすら急ぐ。山賊に怯え、急峻を登り深淵を下り、浜辺を踏破する。「おくのほそ道」以外にも都合六回旅をしている。
 書名は仙台市と多賀城市が接する辺りの小道から採ったものだ。もちろん通過点にすぎないが、その名が醸す情景が旅のすべてを括るにふさわしかったのであろう。これも一驚であり、一興でもあった。
 雪深き受験シーズンの渦中に、ふと自らのあの頃が明滅し、愚案が一連(ヒトツラ)に芭蕉に及んだ。「おくのほそ道」に誘(イザナ)ってくれた恩師は逝いて久しく、面影は幽く遠い。□