『ウォーレスの人魚』(岩井俊二)、勧められて読んでみました。
「ウォーレス」というのが、あの「ダーウィンに消された男」ウォーレスだということは、読み始めてからわかった次第。ウォーレスが著した『香港人魚録』という1冊の本を発端として、近未来のオーストラリア、フロリダ、沖縄、そして広大な海洋を舞台に「人魚」をめぐる研究者たちのバトルが繰り広げられます。
イギリスの地質学者・博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォーレス(1823-1913)。彼の名前は、ほとんどの場合、「進化論」のダーウィン(1809-1882)の名前とともに語られます。実は彼はダーウィンの進化論とほぼ同じことを考えていたのです。それなのに、ダーウィンの名前は歴史に残り、彼の名は忘れ去られてしまいます。「ダーウィンに消された男」というのは、彼の生涯を(同情的に)描いた本のタイトル(アーノルド・C・ブラックマン著、羽田節子・新妻昭夫訳、朝日選書)ですが、この本では、ウォーレスの名が残らなかったのは、ダーウィンとその取り巻きたちの画策があったからだ、としています。
ダーウィンが考えていた「進化論」、つまり人間はサルから進化したものであるという説は、キリスト教的世界観と相容れないものでした。彼は進化論の考えを記した『種の起源』をずっと前から書き進めていたのですが、世間から受ける反発を考え、出版に踏み切れないでいました。ところが、当時マレー半島で調査に当たっていたウォーレスから届いた一編の論文がダーウィンを驚愕させます。それは、彼が考えていた進化論とほとんど同じ内容だったからです。「先を越される」ことを恐れた彼は友人たちの助言も受けながら、ウォーレスの論文に自分の論文を加えて学会に発表しました(自分の名前を先にして)。ダーウィンが『種の起源』(1859年)を発表することになったのは、ウォーレスのおかげといっていいのです。
「誰が最初に」というのは、世界史上でもある意味で重要なポイントかもしれません。「最初に」言った人、発明した人、成し遂げた人だけが歴史に名前を残せるからです。電話の発明者をめぐってベルとグレイが争ったように、また南極点への到達をアムンゼンとスコットが競い合ったように、一番乗りをめぐる数々の醜い争いや名?勝負が語り継がれています。ダーウィンとウォーレスの場合、共同論文として発表したダーウィンは偉いとか、ダーウィンがウォーレスを蹴落としたのだとか、ウォーレスはお人よしすぎた、とかいろいろな見方がされていますが、ウォーレスがダーウィンを生涯にわたって尊敬し、進化論を世に発表するきっかけを自分が作ったことに誇りを感じていたことは確かなようです。
上流階級に生まれたダーウィンと違って、ウォーレスはウェールズの片田舎の出身で、学問もほとんど独学で修めたのだそうです。東南アジアで、彼の興味は専門の地質学のみならず、昆虫や植物、動物、民俗といった幅広い領域にわたって注がれました。彼はジャングルで世にも美しい極楽鳥を目にして、こんなに美しい鳥が誰の目にも触れずに何万年も生き、死んでいったことを嘆くのですが、そこではたと気づくのです。すべてを人間中心に考えることの愚かさを。人間も、結局、自然淘汰により生き延びた「種」の一つにすぎないのに、そのことを忘れて浅ましい欲望に身をやつしている…。
彼にとっては、イギリスの学会でのレースなどまったく興味のないことだったのかもしれません。ただ、自然界における人間の存在を静かに考えていたかっただけなのかも知れません。
『ウォーレスの人魚』>>Amazon.co.jp
「ウォーレス」というのが、あの「ダーウィンに消された男」ウォーレスだということは、読み始めてからわかった次第。ウォーレスが著した『香港人魚録』という1冊の本を発端として、近未来のオーストラリア、フロリダ、沖縄、そして広大な海洋を舞台に「人魚」をめぐる研究者たちのバトルが繰り広げられます。
イギリスの地質学者・博物学者アルフレッド・ラッセル・ウォーレス(1823-1913)。彼の名前は、ほとんどの場合、「進化論」のダーウィン(1809-1882)の名前とともに語られます。実は彼はダーウィンの進化論とほぼ同じことを考えていたのです。それなのに、ダーウィンの名前は歴史に残り、彼の名は忘れ去られてしまいます。「ダーウィンに消された男」というのは、彼の生涯を(同情的に)描いた本のタイトル(アーノルド・C・ブラックマン著、羽田節子・新妻昭夫訳、朝日選書)ですが、この本では、ウォーレスの名が残らなかったのは、ダーウィンとその取り巻きたちの画策があったからだ、としています。
ダーウィンが考えていた「進化論」、つまり人間はサルから進化したものであるという説は、キリスト教的世界観と相容れないものでした。彼は進化論の考えを記した『種の起源』をずっと前から書き進めていたのですが、世間から受ける反発を考え、出版に踏み切れないでいました。ところが、当時マレー半島で調査に当たっていたウォーレスから届いた一編の論文がダーウィンを驚愕させます。それは、彼が考えていた進化論とほとんど同じ内容だったからです。「先を越される」ことを恐れた彼は友人たちの助言も受けながら、ウォーレスの論文に自分の論文を加えて学会に発表しました(自分の名前を先にして)。ダーウィンが『種の起源』(1859年)を発表することになったのは、ウォーレスのおかげといっていいのです。
「誰が最初に」というのは、世界史上でもある意味で重要なポイントかもしれません。「最初に」言った人、発明した人、成し遂げた人だけが歴史に名前を残せるからです。電話の発明者をめぐってベルとグレイが争ったように、また南極点への到達をアムンゼンとスコットが競い合ったように、一番乗りをめぐる数々の醜い争いや名?勝負が語り継がれています。ダーウィンとウォーレスの場合、共同論文として発表したダーウィンは偉いとか、ダーウィンがウォーレスを蹴落としたのだとか、ウォーレスはお人よしすぎた、とかいろいろな見方がされていますが、ウォーレスがダーウィンを生涯にわたって尊敬し、進化論を世に発表するきっかけを自分が作ったことに誇りを感じていたことは確かなようです。
上流階級に生まれたダーウィンと違って、ウォーレスはウェールズの片田舎の出身で、学問もほとんど独学で修めたのだそうです。東南アジアで、彼の興味は専門の地質学のみならず、昆虫や植物、動物、民俗といった幅広い領域にわたって注がれました。彼はジャングルで世にも美しい極楽鳥を目にして、こんなに美しい鳥が誰の目にも触れずに何万年も生き、死んでいったことを嘆くのですが、そこではたと気づくのです。すべてを人間中心に考えることの愚かさを。人間も、結局、自然淘汰により生き延びた「種」の一つにすぎないのに、そのことを忘れて浅ましい欲望に身をやつしている…。
彼にとっては、イギリスの学会でのレースなどまったく興味のないことだったのかもしれません。ただ、自然界における人間の存在を静かに考えていたかっただけなのかも知れません。
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