やおよろずの神々の棲む国でⅡ

〝世界に貢献する誇りある日本″の実現を願いつつ、生きること、ことば、子育て、政治・経済などについて考えつづけます。

【中学歴史教科書8社を比べる】258 ⒅ 日朝関係(戦後)の描き方 53 <ⅵ 現在の課題:在日朝鮮人 :ある永住韓国人のブログから見えること -2->

2017年08月01日 | 中学歴史教科書8社を比べる(h28-令和2年度使用)

ⅱ 現在の「差別」の実態を調べる -10-  ⅱ-2 在留韓国・朝鮮人はどう思っているのか? 

ⅱ-2-2 ある在留韓国人(特別永住者:3世/関西学院大学社会学部教授のブログから見えること -2- 

 以下の記事はすべて、<「金明秀の公式ブログ」:Whoso is not expressly included>の内容に基づいている。※引用は「青字」で示す。

 

<1> <差別は客観的に定義できるか>より引用 2/3  ※全文を3つに分けて考えていく。

「ある学問分野において、もっとも基本的な事物を指し示す言葉を「基礎概念」といいます。基礎概念を組み合わせることによって、他の抽象度の高い概念を説明する、という形で学問という論理の体系が構築されていきます。したがって、基礎概念を定義することは、通常、その学問の入り口ということになります。ところが、差別論において、「差別」という概念を定義することは、学問の入り口どころか、むしろ究極のゴールの一つとされています。なかなか上手に定義できないんですね
 
例えば、2009年末に出たばかりの差別論の教科書を見てみましょう。好井裕明編『排除と差別の社会学』 (有斐閣選書)です。いい本ですよ。おまけに、この分野には授業でそのまま使える教科書は少なかったから、貴重な本でもあります。この本の中で差別の定義というと、冒頭でアルベール・メンミ『差別の構造』 という古典からさらっと差別主義の記述が紹介されているだけです。それも、解説らしい解説は付いていません。つまり、同書には、差別の定義について概念的に検討した箇所が、実質的には一つもないのです! 批判してるんじゃありませんよ。むしろ、中途半端に理論を紹介するより立派なスタンスだと思います。初学者向けの教科書では、差別の定義をめぐる難解な隘路に入り込むより、具体的な事例に触れながら他の重要な基礎概念を学んだり、《差別を見抜く目》を養ったりするべきだ、という考え方でしょう。ともかく、差別の定義(差別とは何か)は、差別論の教科書が避けてしまうほどの難問なのだ、ということをあらかじめ知っておいてください。」

 

※冒頭のこの部分は、《差別の定義は、哲学の素養がある人にとっても、とてもむずかしい》ということ。まったく同感。

 (むずかしい原因は、①「区別」と「差別」の論理的・合理的な区別がむずかしいから、②「差別」には、感情や価値観など、他者からは”みえない”「内心」が基本要素として入っているから、なのだということは、独立項:「区別・差別・人権」に書いている。)

 

 さ、それでは、オーソドックスな差別の定義例を3つ紹介しましょう。
「ある集団ないしそこに属する個人が、他の主要な集団から社会的に忌避・排除されて不平等、不利益な取扱いをうけること」(三橋修
「個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、普遍的な価値・規範(基本的人権)に反するしかたで、もしくは合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて、異なった(不利益な)取り扱いをすること」(野口道彦
「本人の選択や責任とは関りのないような個人の能力、業績ないし個人の行動と無関係に作られた自然的・社会的区分に属していることを理由にされて、集団ないし個人が不利益を被るか人権を侵されるか、不愉快な思いをさせられる行為」(鈴木二郎)」

 

※ここは差別の定義:3例の紹介。

 ちなみに、私の定義は、【中学歴史教科書8社を比べる】246 「区別と差別」、「人権」について考える -23- ■総まとめ 1/2(区別と差別)  にあるように、

・差別1=区別 + 仲間はずし行為 

・差別2=特定の集団AまたはAに属する個人A´が、特定の属性をもつ集団Bとそれに属する個人B´に対する差別心をもち、B・B´が内心で不利益だと思っている、仲間はずし行為をすること。

 

 【差別1】は、意図的に「内心」を除いてみて、客観的に認識できる(=”みえる”、”証明できる”)要素だけを使った、もっともシンプルな定義。(※「内心」そのものは他者には直接には知りえず、本人の言で間接的に推理するしかないので。) 

 《「区別」とは、ものごとを分けるための認識行為》であり、《「仲間はずし(行為)」とは、区別した後、人々を実際に分けるという実行行為》。

 この定義1の利点は、日本語を使える人々のほとんど(=9割以上)が納得する証明・説明ができるだろうこと。

 

 しかし、重大な欠点がある。それは、

① その「差別」の善悪は説明できないこと、

② 日本人のほとんどが、《「差別」は、「内心」の問題、つまり、人々の「好き嫌い」などの「感情や、「善い・悪い」などの「価値観」によって起こされている「差別行為」だ!》と思っている(だろう)ということ。

 (なお、完璧な法治だけの国家では、法で定義された「差別行為」だけが差別になる。~そんな無機質的な社会生活は願い下げだが~ ちなみに、日本は、徳治と法治がほどよく調和した、とても治安の良い国。)


※外部事象(ものごと)ではなく、他者にはみえない内部事象(脳内のできごと)ではあっても、《ほとんどの人々が、ほぼ同じように「感じていること」や「考えていること」》は、その「共通性・共有性」ゆえに「言葉」になる。

 例えば、「楽しい」や「悲しい」、「好き」や「嫌い」、「良い」や「悪い」のように。

 

 したがって、「内心の問題」を要素として入れていない定義は、実際的ではないということになる。それを採り入れたのが【定義2】。

 

 【定義2】は、おおまかに6つの要素で成り立っている・・・「差別する集団A」、「Aの差別心」、「特定の属性」、「差別される集団B」、「Bが自分にとって不利益だと思うこと仲間はずし行為」。

 「差別心」と「自分にとって不利益と思う」の部分が、”みえない”ので原理的に証明不可能な「内心」(※人はがつけるので)。

 すでに2度ほどこの定義を適用したが、とてもわかりやすく説明できることがわかった。そこで、この6要素を使って、金氏紹介の3つの定義を分析してみる。

 便宜上、「差別集団A」「差別心」「属性」「被差別集団B]「不利益」「仲間はずし」という略語を使う。

 

●三橋修氏 

「ある集団ないしそこに属する個人が、他の主要な集団から社会的に忌避・排除されて不平等、不利益な取扱いをうけること」

 =差別集団A + 差別心 忌避 + 被差別集団B + 不利益 不平等、不利益 + 仲間はずし :排除。 

※私の定義によく似ている。属性だけが無い属性はいろいろあってめんどうなので採り上げなかったのかな?。(私は「特定の」というあいまいな用語を用いて採り上げている。)

 

野口道彦氏

 「個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、普遍的な価値・規範(基本的人権)に反するしかたで、もしくは合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて、異なった(不利益な)取り扱いをすること」

 =属性 ある社会的カテゴリー /合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて + 不利益 + 仲間はずし 異なった取り扱い

 

※1 無いのは、「差別集団A」「差別心」「被差別集団B」

※2 特徴は、「普遍的な価値・規範(基本的人権)に反するしかたで」の部分。憲法規定の「基本的人権」を差別認定基準として採り上げていること。

 

※3 もう一つの特徴は、文意がよくわからないこと。

・「合理的に考えて状況に無関係な事柄

 これは「ある社会的カテゴリー」と同じ意味だろう。

 だれが「合理的に考え」るのか、だれが「状況に無関係」と認定するのか? すでに「ⅱ-1-2 民間企業の採用について」で書いているように、《採用に関してどんな「事柄」が必要か》については、《採用者と応募者ではちがう》ことを明らかにした。《ほとんどの人々が納得するかたちで、合理的」に無関係と認定する》 のは不可能なことだろう。 

 ・ほかの要素を付け加えずに、この定義をかってに整理すると、「日本国憲法の基本的人権の規定にした取り扱いをしたり特定の属性をもっているという理由で不利益な取り扱いをしたりすること。」となる。

 

※4 この定義の最大の欠点は、経済関係においては、一般的に、《だれかの不利益はだれかの利益》 という関係が存在することを考えていないことだと思う。

 だから、現実の「差別の可能性がある事象」にこの定義を適用するときは、必然的に、一方的に、「不利益だと主張する人々」に同調するしかないだろう。

 

鈴木二郎氏 

「本人の選択や責任とは関りのないような個人の能力、業績ないし個人の行動と無関係に作られた自然的・社会的区分に属していることを理由にされて、集団ないし個人が不利益を被るか人権を侵されるか、不愉快な思いをさせられる行為」

 =属性:本人の選択や責任とは関りのないような個人の能力、業績ないし個人の行動と無関係に作られた自然的・社会的区分に属していること + 被差別集団B + 不利益:不利益を被るか人権を侵されるか、不愉快な思いをさせられる。

 

※1 無いのは、「差別集団A」「差別心」「「仲間はずし」。

※2 特徴は、「属性」の種類をいくつか例示してあること。 「属性」=「個人の能力」、「個人の業績」、「自然的・社会的区分に属していること」

※3 欠点

① 「人権」という極めて抽象的でかつ多様な意味を持つ言葉の定義がないこと、

② 差別の判断基準が、「不愉快な思い」という、(被差別主張者の)主観的な感情があれば、差別だと認定されること。

 要するに、ある集団や個人が、いろんな理由をつけて、《 その行為は、「自分に不利益だ」とか、「自分の人権を侵している」とか、「自分は不愉快だ」と主張すれば、ほとんどの「区別・分類」行為が「差別」と認定されることになる。

 なぜなら、鈴木氏の挙げている「属性」を具体化・想像してみるといい。

・「自然的区分」=「区分」とは「区別・分類」のこと。

 ある個人 ⊂  動物、ヒト、特定の性別、特定の肉体的特徴(=肌色、身長、体重、体毛、病気などの症状、などありとあらゆること)、特定の心理的特徴(=優しい人、怒りっぽい人、ひがみっぽい人、などあらゆること)。 これらがすべて「差別される理由」になれる。

・「社会的区分」=社員、社長、非正規雇用者、公務員、上司、部下、夫、妻、子、○○県民、○○国民、○○人、など人間社会のありとあらゆる区分(=属性)

・「能力」「業績」・・・もうやめましょう。これら以外の「人の属性」はすぐには思いつかない。

 

 要するに、この定義を別の表現で言えば、

《ある集団・個人Aがなんらかの属性で「区別」されたとき、Aが、不利益を被った、または、人権を侵された、または、不愉快な思いをさせられた、と主張した行為は、すべて差別行為と認定される。》 ということになる。

 これを日常生活語レベルの言葉に言い換えれば、《自分(たち)が差別されたと思ったら、それは差別行為だ》 となる。

 笑ってはいけません。

 この非論理的(=主観的・感情的)な「差別認定理論」は、私が小学校の現役教員時代に、教育現場でいつも聞かされていた「差別事象の実際的定義」でした。主唱していたのは、日本でもっとも有名な「人権団体」。

 

 その気持ちはそれなりに理解できました。なぜなら、「差別」を定義すること(≒認定基準を作ること)は、それこそ哲学者も逃げるくらいにむずかしいことなのだから。しかも、定義しても、《差別はすべて倫理・道徳的に「悪」だ》 とはならないのです。そもそも「悪」の定義がとてもむずかしいのだから(※「絶対悪」と言いたい「殺人:同類殺し」でさえ、戦争や死刑執行などの場合には「善」扱い)。

 今のところ、「基本的人権」の定義は憲法に示してあるが、「差別」の公的定義は無い、というのが実情だと思います。

 

~つづく~

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