エホバの証人再考

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エホバの証人の輸血拒否問題を検証する:自己血は自らの命の一部

2017-05-14 10:20:23 | 知恵ノートより

 

結論:神の意図を踏まえて、それを現代医学に適用すると、他者からの血液・臓器などは使用できないが、自分の血液は使用できる。

※最下段の<疑問に答える>も参照のこと。


エホバの証人が輸血拒否をする理由は、聖書に「血を避けなさい」と書かれているからです。しかし、神はなぜそのように命令されたのでしょうか? それに関する神の意図とは何でしょうか?


創世記9:4やレビ記17:11、申命記12:23などは血が魂、つまり命、生命力を表わすからだ、と説明しています。


◎「ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない。」創世記9:4。


◎「肉の魂は血にあるからであり,わたしは,あなた方が自分の魂のために贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。血が,その内にある魂によって贖罪を行なうからである。」レビ記17:11。


◎「ただ,血を食べることはしないように堅く思い定めていなさい。血は魂であり,魂を肉と共に食べてはならないからである。」申命記12:23。


命はその命が与えられた生き物(人・動物)に使用が限定されており、その生き物専用、つまり取り分けられたものであって、つまり「神聖なもの」ということができます。ゆえに、その命が与えられた生き物以外の他者が勝手にその命を奪って用いることは許されていないのです。


※神聖=取り分けられたもの http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2006804 の2節を参照。「聖書のヘブライ語で「聖なる」という語には,取り分けられたという概念があります。崇拝に関して「聖なる」という語は,一般的な用途からは取り分けられたもの,もしくは神聖とみなされたものについて用いられます。」

ただ、大洪水以降、命を表わす血を注ぎ出して、その命を神に返還した後に、残った、つまり生命力の伴わない、物体としての肉を食べることが許されるようになりました。(創世記9:3,4)。


では、血を食べてはならないという神のご命令の意図は何でしたか? 血=命を他者が用いてはならないということでした。では、その命が与えられている本人についてはどうでしょうか? 当然、それは用いることが許されています。現に私たちは自分の血液を使用して自分の命を維持しています。


では、自らの血液を用いることが許されているのであれば、自己血輸血については、どう考えるべきでしょうか? 自分の血液は自分の命の一部とみなせます。たとえ、それが一時的に隔離されたとしてもです。例えば、指を切断して、一時隔離されたとしても、それを再び接合することは不義ではないでしょう。それと同じように、自分の血液であれば、一時隔離した後に、自分の命を維持するために再び体内に戻すことは許されるはずです。


しかし、他者からの臓器移植についてはどうでしょうか? 創世記9:4には、「血を伴う肉」を食べてはならない、とありました。「血を伴う肉」とは、生命力(=血)がまだある肉(臓器を含む)なので、まさに他者からの臓器はそれに当たります。その臓器の細胞はまだ生きており、つまり生命力がまだ伴っているはずだからです。その生命力、命を他者が使用することは許されていません。


このように、血を食べてはならないという神のご命令の意図を考察することは大変重要です。さもなければ、私たちは容易にパリサイ人的な解釈に陥ってしまいます。例えば、彼らは安息日に関する神のご命令について神の意図を度外視した勝手な解釈をし、民に重荷を負わせていました。(マタイ12:1-13)

まとめると、神の意図を踏まえて、それを現代医学に適用すると、他者からの血液・臓器などは使用できないが、自分の血液は使用できるということになります。命は神聖なものであり、他者がそれを使用することは許されていないからです。

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ここでの見解は、飽くまで聖書に基づく神の意図を踏まえた理解を説明したものに過ぎません。たとえ、自己血輸血が許容できるとしても、緊急手術の場合には使用できないでしょう。ゆえに、引き続き、無輸血医療の必要はあり、それが普及・一般化することが望まれます。それについては、知恵ノート http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n125417 をご参照ください。


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<疑問に答える>
「イエスのあがないにおいてもイエスが血を流したその意味も考慮すれば、血を流す事の意味を考える事が自然ではないでしょうか?」というご指摘がありました。

確かに、イエスはご自分の血と肉を与え、その象徴として記念式の時にパンとぶどう酒にあずかるわけですからね。では、やはり、救命のためであれば、血液(血)や臓器(肉)を他者に与えることは許されているのか?

しかし、結論は「いいえ」です。というのも、今回、私が示したように、血に関する神の律法の意図は「命は神聖なもの。他者が使用することは許されていない」ということでしたね。では、イエスの犠牲の死の場合、イエスの命を使用したのは誰か? それは、イエスご自身、本人に他なりません。イエスご自身がご自身の命を使用して自ら犠牲となり、こうして人類を救出するための道を開いたのです。

イエスの場合、イエスの命、また命の一部を、本人に代わって他者が使用できるようにした、という事実はありませんでした。ゆえに、血と肉を与えたイエスの例は、血液と臓器を他者に提供してもよいという前例とはなりません。識別力が必要ですね。

このように、聖書には、一見すると、不可解な、あるいは誤解を招きかねないような物事がたくさんあります。しかし、これは神の意図、目的があってのことです。これはフィルターです。知能が高くても、心がよこしまな人たちから真理を隠すためのものです。心がよこしまな人たちはそのフィルターにひっかかり、自分勝手な解釈をして、決して真理の神聖な奥義、つまり真理の真髄、核心を極めることができないようになっているのです。聖書は心が正直で神の聖霊を受けられる人しか理解できないような仕組みになっています。

「しかし,彼(使徒パウロ)の手紙の中には理解しにくいところもあって,教えを受けていない不安定な者たちは,聖書の残りの部分についてもしているように,これを曲解して自らの滅びを招いています。」ペテロ第二3:16。

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新約聖書において病を癒し、命を救うのは本質的に「善い事」であり、キリストの幾多の奇跡によってそれが示されています。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と問われたキリストは「安息日に善いことをするのは許されている」と答えています。つまり、善いことの為であるならば律法の文言に囚われることはなく、自らの良心に従うのがよいと教えているのです。もしあなたがキリストと対話する機会を得て、「血を用いて病気を治すのは、律法で許されていますか」と問うたら、彼は何と答えるでしょう?

これは違います。イエスが言わんとしていたは、神がなぜ安息日を定めたのか? その意図は? それを踏まえて考えると、安息日に他の人を助けることは神の意図にかなっているということでした。パリサイ人たちは、神の意図からは逸脱して、律法の文言にこだわり、つまり、自分勝手に律法を解釈して、不必要な重荷を民に負わせていたのです。

重要な点は「自らの良心に従うこと」ではなく、「神のご命令の意図(真意)を正しく理解すること」です。実際、重要視されるべきなのは、私たちの義(良心)の基準でしょうか、それとも神の義の基準(意図)でしょうか?

それで、血に関する神のご命令にはどのような意味があるのか? それが今回の本題です。その意味は求める者にしか開示されません。というのも、例え話で多くの教えをされていた時、イエスはこう言われたからです。

「わたしが例えを使って彼らに話すのはこのためです。すなわち,彼らは見ていてもむだに見,聞いていてもむだに聞き,その意味を悟ることもないからです。」マタイ13:13。

「その意味」を悟らず、つまりその意図、本意に関心がなく、質問せずに立ち去った人たちもいましたが、残ってイエスに質問した弟子たちに対してのみ、イエスはその意味を説明されました。同じように、神のご命令の意図、本意、本音、意義、意味に関心を払い、尋ね求める人に対してのみ、神はそれを開示されます。つまり、教えます。それ以外の人たちにはそれが理解できません。

その意図については、今回の知恵ノートで説明しました。
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(上の質問の続きとして)
物事には優先順位というものがあります。汚れは清めることができるし、罪は償うことができます。しかし死んだ人間を蘇らせるのは奇跡を待つ他ありません。それでもあなた方は「血を口にしてはならない」というたった一言を守らんがために、助けられる命を投げ出す事を奨励されるのですか?あなた方はそんな狭量な神に仕えているのですか?

確かに。しかし、命を懸けてでも神のご命令を守り通すという信仰、これが彼らが認識している優先順位でしょう。それは、かつてアブラハムが神のご命令に基づいて息子イサクを捧げようとしたのと同じでした。「しかし彼は,神は死人の中からでもこれをよみがえらせることができると考えました。」(ヘブライ11:9)。

アブラハムと同じように、彼らはたとえ死んだとしても必ず神が復活させてくださると信じており、そして、神に逆らって現状の命を維持するよりも、命を回復させる神との関係を優先することこそが、永続的な命(復活して)につながると考えているのです。要するに、今の限られた命(いずれ死ぬ)? それとも(永遠の)命を与える神との関係? どちらを優先するかということです。

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「生物にシリアルナンバーが通されていて、血にもそれが通ってたと仮定します。食べ物を食べたり、意見交換しても、シリアルナンバーに変化はありませんが、血を混ぜると、シリアルナンバー自体が真新しいものに変化してしまうとしたら、輸血された人は輸血された時点から、別のシリアルナンバーを持った生物に変化します。血は新しく作られるので、そのうちシリアルナンバーは元に戻ることになるのでしょうが、いつ戻るかも、そもそも戻るかもわからない人にとっては、シリアルナンバーが変化したまま残りの一生を送ることになると感じる可能性があります。シリアルナンバーこそ自分自身をあらわすものなのに、それがなくなってしまったら、その人は生きながら自分が死んだことを認識するのだと思います。それを死と認識するかどうかが、輸血の賛否に影響するのだと思いました。」というご意見がありました。

骨髄バンクなどで知られる骨髄移植について、Wikiではこうありました。

「白血球の血液型であるHLA型が、ドナーと移植対象患者との間で適合しないと拒絶反応、GVHD(移植片対宿主病)が起きるため、骨髄移植はできない。HLA型が適合して移植が可能になる確率は、同父母の兄弟姉妹間で25%、非血縁者間では数百~数万分の1といわれている。HLA型は両親から半分ずつ遺伝する為、通常親子間では適合しないが、全くの非血縁者よりは適合の可能性は高いとされる。」

さらに移植後について、こうありました。

「ABO式血液型が異なるドナーから骨髄移植を受けた場合、移植された造血幹細胞が血液を造り出すようになるため、最終的にはドナーと同じABO式血液型になる。また、血液細胞の染色体、DNAもドナー由来のものに変わる。」

つまり、例えば、血液型がA型の人(患者)がB型の人(提供者)から移植した場合、最終的には患者の血液型はA型からB型に変わるということですね。以前、実例が、NHKスペシャルで放送されていました。「驚異の小宇宙 人体 第6回」にて。Wikiにもあり。

これは、血液ではなく、血液を作り出す元の骨髄細胞についてですが、確かに、go96o03さんがいうような個人の持つ固有のシリアルナンバーはあると言えるのかもしれません。命と人体を創造した神はそれを踏まえて命、血は神聖なもの、その生き物のみが使用でき、他者が使用できないもの、と定めたのかもしれませんね。参考までに。

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「勝手にその命を奪って用いることは許されていない」と書いておられますが、それが神の意図だとしたら、他人の命を救うという尊い意志で捧げられた血を医療行為に使うのがなぜいけないのですか?勝手でも奪ってもいないのですから。意図の勝手な解釈で周囲に負担をかけているのはあなた方でしょう。

「>他人の命を救うという尊い意志で捧げられた血を医療行為に使う」というのは、現代医学の道徳基準です。どのように命や体、またその一部を用いるかは本人に委ねられていますが、しかし、神の基準は明らかにされています。例えば、性関係は結婚関係の枠内だけ、配偶者のみとの間でしか許されていません。ゆえに、結婚も神聖な(取り分けられた、配偶者間に限定された)ものです。しかし、姦淫はその神聖さに背くものです。同じように、他者に命(血)の一部を与えることによって命の神聖さに背くことは神との関係を損ないます。

確かに、「現代医学の道徳基準」に従えば、他者の血液や臓器を使用していますし、それは、「勝手でも奪ってもいない」、むしろ、救命という崇高な使命のためでもあります。しかし、神に従う者として、神の基準、その意図がまず第一に考慮されなければなりません。人間の善意が神の正義と反する場合もあります。イエスが神のご意志にしたがって死ぬことを予告した時のことについて、こうあります。

「すると,ペテロは彼をわきに連れて行き,「主よ,ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような運命にはならないでしょう」と言って叱り始めた。しかし,イエスはペテロに背を向けて言われた,「わたしの後ろに下がれ,サタンよ! あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです」。マタイ16:21-23。

たとえ、輸血や臓器移植によって「今の命」がしばらく延びたとしても(つまり結局はやがて死ぬ)、復活と永遠の命をもたらす神との関係が破綻するなら「真の命」を得ることはできなくなる、これが神に信仰を持つ者としての考えです。
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