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チベット学校建設推進協会からのお知らせ事項です。随時更新しております。

「お知らせ」のブログを変更します

2009年01月12日 | Weblog
今まではgooのブログを使っていましたが、
写真が1度に1枚しかUPできないので、
今後はこちらを使うことにしました。
近いうちにHPから直接リンクいたします。

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四川大地震被災地調査報告 5

2008年11月10日 | Weblog
8月24日にオリンピックが閉幕しました。

25日の早朝、私たちは震源地の汶川県に向かって出発しましたが、
やはり被災地の全体的な情報を把握しなければいけないと思い、
まずは州政府のある州都、バルカンを訪問することにしました。

バルカンでは州政府の副州長(教育担当の最高責任者)に
お目にかかりました。その結果、理県、汶川県、映秀鎮、茂県が
一番支援を必要としていることを聞き、その4か所を重点的に
回ることにしました。

ここからは話がちょっと私的なことになります。

バルカンは高校時代の同級生がたくさんいて、私が来たことを
聞きつけて、17名も集まってくれました。
20ウン年ぶりの再会で、会えたのが本当にうれしかったのですが、
いいことばかりでもありませんでした。

私たちがバルカンに着く一日前に同級生のひとりがすい臓癌で
亡くなったのです。私たちがバルカンに着いたその日に彼女の遺体は
親のいる故郷に運ばれ、葬儀が行われたそうで、最後の別れをすることも
できませんでした。彼女には12歳の娘がいて、彼女がいかに無念だったか、
心残りだったかと考えると、旧友たちとの再会の喜びも吹っ飛んでしまいました。

あともうひとつ、悲しかったことがありました。
簡単な食事でしたが、私のために同窓会を開いてくれることになりました。
当日はちょっと早めに約束していたレストランに行ったのですが、
すでに十数人が待っていました。あまりにも感激して、男女関係なく
抱擁してしまいました。
高校を卒業して20ウン年ですので、皆いい年齢になって、
お互いに変わってしまいましたが、なんとか特徴を思い出して、
判別することができました。

しかし、ひとりだけ“年配の男性”が端のほうに立っていました。
誰かの親戚でもきたのかな?と思い、頭だけ下げて挨拶しました。
そうしたら、隣にいる友人が
「ヤンジン、なにをしているの!この人はツォボンだよ!ツォボン!」
「え!!!!!」
本当に仰天しました。

彼は他の人より二十歳も上に見えました。
まじまじとその顔を見つめましたら、ほんのわずかな表情から
やっとわかりました。
もうその変わりようにビックリして、なぜか涙がドバッと出てしまいました。


彼は高校時代、クラスで一番の暴れん坊でした。
喧嘩っ早く、よく他の男子生徒と小競り合いをおこしていました。

ある日のことです。なにを思ったのか、こぶしで寮の部屋の窓ガラスを割り、
切れた手首から血が噴き出しているのに、病院に行こうとしないのです。
他の男子生徒が困り果てて、当時学級委員をしていた私に助けを求めにきました。

けれども、それでも言うことを聞かなかったので、私も腹が立って、
思わず「いいかげんにしろ!」と大声で怒鳴ってしまいました。
しかし、それが効いたのか、その後彼はとてもおとなしくなって、
私と一緒に病院に行って、治療を受けてくれました。
いい意味では、それほど元気な子でした。

今回、その面影はまったくなくなっていました。
疲れきった顔は浅黒く焼け、体はとてもやせ細っていました。
私だけではなく、他の友人二、三人も当初彼が来ていることに
気がつきませんでした。
私は彼に「私のこと覚えてる?あなたを怒鳴ったヤンジンだよ」と言うと、
彼は無言でうなずき、スッと手首の傷を見せてくれました。
その傷はまだしっかりと残っていました。

彼のそばに座り、ずっと話しかけました。
けれども、彼は下を向いたまま、うなずくだけでした。
目を合わせようとしないのです。

旧友たちからの話によると、
彼は高校卒業後そのまま実家の農業を継いだのですが、20代前半に
同じ県の草原地帯に住む遊牧民の女性と結婚し、婿養子になったのだそうです。
それから今までずっと放牧の生活をしながら、三人の子供を育ててきました。

高卒というのは当時そこそこいい学歴で、都会に出稼ぎに行ったり、
商売の世界に入ったりする人が多かったです。
それにもかかわらず、彼が遊牧の仕事を選んだというのは、
その女性のことがよっぽど好きだったのでしょう。

私自身も子供の頃、経験しましたが、放牧は本当に大変な仕事です。

ある年の冬、放牧していたヤクが2,3匹行方不明になりました。
彼はそのヤクを追って、山の中を捜し回ったそうです。
そして、大雪が降る中、道を踏み外し、穴に落ちてしまいました。

家族と村の人々の懸命な捜索の結果、3日後、雪の中にいるのを
発見されたそうですが、生きていたのが不思議なくらい衰弱していました。
病院での集中治療で、命だけは取り留めましたが、心臓病などひどい後遺症が
残ってしまいました。

若いころはとげとげしていて、攻撃的だった彼が今では誰とも目を合わさず、
なにも話さず、ずっとうつむいているのです・・・

20数年という人生の重みをしみじみと感じさせられた同窓会でもありました。

同級生のみんなには平凡でもいいから、幸せに暮らしていてほしいという気持ちが
強かったゆえに、彼の姿は本当にショックでした。
でも、同窓会に出てきてくれたそれだけでも感謝しています。
心ばかりのお見舞いを別の友人を通してお渡ししましたが、
少しでも症状が和らぎ、少しでも元気になってくれることを願ってやみません。

                   つづく

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四川大地震被災地調査報告 4

2008年10月07日 | Weblog
まだまだ余震が続いている被災地をいくつも廻らないといけないので、
安全面から考えても、体力的に考えても、
やはり三才未満の息子はとても連れていけないと思いました。

唯一の方法は、息子を私の家族に預けることです。
しかし、普段からあまり接していない者同士、そのうえ言葉も通じません。
きっと息子は不安になるに違いありません。
そう思うと私たち夫婦も気にかかって、調査に専念できそうにありませんでした。
それで、息子が実家の家族に慣れるまで、
少なくとも一週間は実家にいなければと思いました。

息子のことばかり書きましたが、実は実家に着いたその日から、
わが主人もまたまた高山病にかかってしまいました。
今回は少々日にちがありましたので、ゆっくり慣れてもらおうと、
酸素ボンベも薬もあたえず、病院にも連れていきませんでした。
息子は初日から元気に走り回っているというのに・・・。

家族からも「オリンピックの期間中はどこも検問で厳しいと思うから、
家でじっとしておいたほうがいいよ」と言われました。

考えてみると、主人が高山病から完全に回復までやはり日にちがかかるし、
いっそオリンピックが終了するまで実家にいようと決めました。

到着五日目、主人はようやく元気になりましたので、
一緒に県政府の関連機関に御挨拶とパスポートの登録に行きました。
今までこのような手続きはしたことがなかったのですが、
今回初めて登録に来るよう言ってきましたので、いうとおりにしました。

例年でしたら、実家の家族、兄弟はほぼ全員有給休暇をできるだけ貯めて、
私たちの帰郷に合わせて休みを取ってくれていました。
しかし、今年は休暇が取れないうえ、ほぼ土日もなしで仕事をしていました。
そのうえ仕事場の同僚たちと交代で、夜も宿直しなければなりませんでした。
理由は、朝晩問わず、もし何か起きた場合、自分たちの職場を守り、
そのことをすぐ報告しなければならないからです。
それは3月15日(ラサでデモが起きた次の日)から始まったということでした。

                   つづく

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四川大地震被災地調査報告 3

2008年10月05日 | Weblog
実際に入って見ると、変わり果てた故郷の姿に本当に驚きました。

3月16日のデモの影響でしょうか、町の入口にはすべて検問所ができていて、
そこには高さ3メートルほどの見張り台と兵士の身を守るためのバリケードを築かれ、
更には何台もの機関銃が置かれていました。

町の中ではひんぱんに兵士をいっぱい乗せたトラックが走り回っていました。

また、町の十字路などには警察官が立ち、至るところに巡回している軍人の姿が
見えました。そのほとんどが、十数人ひと組になっていて、肩には本物の銃を
かけていました。

テレビか映画でしか見たことのない景色を目の当たりにして、
正直体が震えるほどのショックを受けました。

これほど気分の重い帰郷は初めてでした。

そのうえ故郷に帰るためにお世話頂いた友人からも、
「故郷にいる間、ご自身の言動には特に気をつけてほしい」
と言われていました。

せっかくノートパソコンを買ったのですが、そんな状況でしたので、
とてもブログを更新することはできませんでした。

                      つづく

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四川大地震被災地調査報告 2

2008年10月03日 | Weblog
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昨日は神戸、今日は名古屋、明日は広島と毎日講演会が続いています。
バタバタしている中での更新ですので、お待たせすることもあるかと思いますが、
どうぞよろしくお願いします。
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成都から汶川県までの道は地震のため閉ざされたままです。
仕方がなく成都から飛行機で九賽溝空港まで行き、
そこからはアバ州政府の役人さんに専用車で迎えに来てもらい、
そのまま自宅のあるアバ県まで送っていただきました。

その空港からアバ県までの距離は、車で大体5時間ぐらいです。
空港の周辺は地震の被害もそれほどなく、
昔から慕ってきた山の景色にほっとし、安心しきって車に乗っていました。

2時間ぐらい走りますと、景色は山から草原へとだんだん変わっていきました。
ヤクやら羊の群れ、そして遊牧民のテントも見えてきました。
故郷がだんだん近づいていることにとてもうれしくなって、
おもわず歌いそうになりました。

しかし、突然車が止まりました。
「え!もしかしたら故障しちゃった!」と思って前を見ると、
私たちの車以外にもすでにたくさんの車が止まっていました。
そこはある村の入り口でした。

車の周りには本物の銃を持った完全に武装した軍人がたくさんいて、
運転手や乗客も全部降ろされ、車のトランクまで開けられていました。
かなり厳しい検問を受けていました。
最初は一瞬、間違ってイラクに入ってしまったのではないかと思いました。
やっと取れた緊張感がまた一気に全身を襲ってきました。

よかったのは、私たちが乗っているのは州政府の車です。
ですから、運転手さんが降りていって、挨拶しただけで通らせてもらいました。
本当にびっくりしました。
                      
                      つづく

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四川大地震被災地調査報告 1

2008年10月01日 | Weblog
日本を出る前から、この度の帰郷はいろいろな困難に
ぶつかるだろうと予想はしていました。
しかし、実際の状況はその予想よりはるかに厳しかったです。

成都で知人から
「あなたは海外藏胞(外国に住むチベット人)でしょう。
まあ支援者として被災地に調査に行くことは可能かもしれないけれど、
あなたの故郷であるアバ県は3月のデモの後とても敏感になっているので、
正式な許可証がなければ絶対に入れてくれないと思うよ。
あと2日でオリンピックが始まるこの時期は特にね。
だってアバ県の隣の町、久治県の人さえ入れないんだから」と言われ、
現地の厳しさを改めて知らされました。

昔、両親は私が日本に行くことをとても反対しました。
そのひとつの理由が、もし中国の政策が変わったり、
外交関係が悪化したりすると、
外国にいる私と二度と会えなくなるのではないかという心配からでした。

年配の母親と家族を安心させるためにも絶対に故郷まで帰らなくてはと
思いました。

それからというと、公私に渡って知人や友人に理解と応援を求め、
最終的には、なんとか許可証を手に入れることができました。
しかし、そのため成都で一週間以上も待たされました。

                       つづく

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四川省大地震救援基金について

2008年05月26日 | Weblog
 私の故郷はチベットではアムド地域のンガワ(もしくはンガパ)と言いますが、中国側では四川省のアバチベット族チャン族自治州アバ県と言われております。今回の地震はこのアバ自治州の南部で起こりました。

震源地の汶川県、被害の大きかった映秀、都江堰は成都からバスで田舎に帰るとき必ず通る町です。特に、汶川県はンガワを出て、その日の晩に必ず宿泊する町で、次の日に成都に向かっていました。また成都から帰るときにも汶川県で昼食を取ったり、休憩をしたりしていました。そのため、私個人としても非常に思い出深い町なのです。

今回は弟の息子を含め、2人の甥と姪が汶川県の高校と師範学校で寮生活をしていて、被災しました。県の中心部にある学校は強い揺れによって、校舎のほとんどが使えなくなってしまいましたが、幸い倒壊はしなかったので、甥も姪も無事でした。

地震発生の当日、弟2人と2番目の兄も自分の息子、娘を助けるため、汶川県に向け、車で出発しましたが、途中の橋が落ちていたため、引き返し、次の日の再チャレンジで、迂回路を通って、なんとか途中まで行きました。但し、そこからは道が寸断されていたので、上の弟と2番目の兄は徒歩で汶川県に向かったのです。その道中は非常に危険なものでした。今にも土砂崩れの起きそうな山肌をいくつも越えながら、2次災害に遭われたのではないかと思われる何体もの遺体も見たそうです。幸運にも、彼らは汶川県で甥、姪たちと会うことができ、すぐに故郷ンガワに連れ帰ったのですが、帰路も同じように大変危険で、生きた心地がしなかったそうです。

実は、一番上の兄も運送業を始めたばかりの次男の運転するトラックに乗っていて、汶川県の53キロ手前で地震に遭いました。兄らふたりも弟たちと同じ日に命からがら故郷に帰りました。

私の身内ももしかすると命を落としていたかもしれません。人事ではありません。今回の地震できわだっているのは、学校の倒壊であり、それによって亡くなった子供たちの数が異常に多いということです。犠牲になった子供たちのことや命は助かったものの大きな怪我をした子供、家族を失った人々の悲しみを考えると、沈黙を保つことなどできません。もちろん使命感というのもありますが、今のところは、ただ困っている人々を少しでも助けてあげたいという衝動に突き動かされているのです。

この11年間、チベットの学校建設活動、教育支援をしてきましたが、この度、これとは別に四川省大地震救援基金を設立しました。

被害にあった子供たちの学費などの支援、倒壊した学校の修復費の支援をしたいと思っています。

中国の政府や外国の救援隊もよく頑張っておられると思います。幹線道路上の大きな町では懸命な救援活動が行われ、中国全土、海外からはたくさんの義捐金も入ってきているようです。これらの町の復興は今後少しずつではありますが、進んでいくと思います。けれども、道中で地震に遭った一番上の兄が言うには、山の奥のほうに点在している集落まではまだまだ救援が入っていないとのことでした。

私は山の上の集落で生活している人々のことはよく理解しているつもりです。この人々は1年の収入を夏の間に稼ぎます。山の傾斜面を利用して、白菜やりんごを栽培し、秋に収穫して、道路脇で通行人に販売したり、標高が高く、農作物があまり取れない北方の草原地域の人々に売ったりして生計を立てているのです。けれども、今回の地震で、それらの畑も壊滅的な打撃を受けたことは容易に推察できます。運良く生き残ったとしても、生活の糧がありません。また、これらの集落の子供たちは就学適齢期になると、そのほとんどが町の学校で寮生活をしますので、もしかしたら、町に出た子供たちは助かり、山に残った親御さんたちは亡くなるといったことも充分に考えられるのです。

私はそのような集落の人々、子供たちの支援もできればと考えています。

本当は今すぐにでも飛んで行きたい気持ちなのですが、7月末まで公演の仕事が入っているため、被災地に行くのは、どうしても8月になります。現地では被害に遭われた方々のお話を直に聞いて、実際にどのような支援を必要としているのか、その調査結果に基づいて、具体的な支援計画を立てるつもりでいます。

とにかく、一日でも早く親たちが元気に畑を耕す姿、子供たちが笑顔いっぱいで学校生活を楽しむ姿を見れますよう、この地域で生まれ育ったひとりとして全力を尽くしたいと思っております。

なお地震の救援に関しては、まずは今年1年を期間といたします。

秋に被災地から戻りましたら、詳細をご報告させていただきます。

最後になりますが、皆様の温かいご支援とご協力、心よりお願い申し上げます。

                チベット学校建設推進協会
                  バイマーヤンジン

                 2008年5月26日

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四川省大地震救援のため、ご協力お願いいたします!

2008年05月15日 | Weblog
今も学校の倒壊によりたくさんの子供が傷つき、亡くなっています。
困っている人がいれば、民族に関係なく、手を差し伸ばさなければなりません。

チベット学校建設推進協会としても支援活動をすることにしました。

四川省大地震救援金のご寄付
郵便振替 
口座番号 00980-6-144786
口座名称 チベット学校建設推進協会
※郵便局にある「払込取扱票」の通信欄には必ず「四川省大地震救援金」と
 明記してください。

まずバイマーヤンジン自ら100万円を出し、最初の救援金とさせていただきました。

今年の8月には被災地に向かう予定です。

皆様のご支援、ご協力よろしくお願い申し上げます。

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あけましておめでとうございます!

2008年01月05日 | Weblog
あけましておめでとうございます!
こちらのブログではチベットの教育支援、学校建設活動、現地の子供たちの様子、現地学校への訪問ツアーのお知らせなどチベットにかかわることを載せていこうと思っております。どうぞよろしくお願い申し上げます。
チベットの大学は9月からが新学期なのですが、今回もお二人の方が経済的に苦しい新入生の里親になってくださいました。心から御礼申し上げます。


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