鹿島アントラーズ原理主義

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ジーコ、国立競技場でゲームをするときは特に身が引き締まった

2015年05月27日 | Weblog
【ジーコの想い】完全解体 国立競技場の思い出 南米でも大きな話題
2015.05.27


1981年に国立競技場で行われたトヨタ杯ではジーコが主役だった((C)ZICONAREDE)

 日本サッカーの聖地、国立競技場が完全解体されたニュースは南米でも大きな話題になっている。南米と欧州のクラブ王者が世界一を争ったトヨタカップ(現・クラブW杯)が行われたスタジアムだったからだ。

 ジーコは「日本と私の絆が始まったスタジアムだった。1981年。日付ももちろん覚えている。12月13日だった。トヨタカップでフラメンゴはリバプールを破って世界一になった。(日本)代表監督時代の家は国立の近くにあった。本当に印象深いシンボルだった。もうないんだよな」と寂しがった。

 その2年前の1979年、国立競技場ではワールドユース選手権が開催され、アルゼンチン代表の18歳、マラドーナが優勝に貢献した。「オレの世界進出のきっかけとなった記念すべきスタジアム。大好きだ」とはマラドーナ。ジーコとマラドーナ、南米サッカーの2大スターがニッポンの国立競技場をその頭に強烈にインプットしているのだ。

 当時について、ジーコは「トヨタカップで日本に行ったとき、とにかく街並みがきれいだったことに驚いたね。日本人の親切な気持ちにもとても好感をもった」という。欧州王者リバプールを粉砕した試合では「3ゴールをすべてアシストした」(ジーコ)とあって、さらに国立競技場への思いは深い。

 トヨタ杯からちょうど10年後。ジーコは鹿島アントラーズの前身、住友金属からオファーを受けた。「当時はブラジルでスポーツ大臣をしていた。実はイタリアのクラブ2つと国内のクラブからも、ゼネラルマネジャーになってほしいとオファーがあった。その中の1つがニッポンからオファーだった。サッカーでカシマの町おこしを助けてほしいという内容だった。その時にも(国立)競技場の素晴らしい印象を思い出したよ」とジーコ。来日のきっかけのひとつが、今はなき国立競技場だったのだ。

 2002年10月16日、日本代表監督としての初陣は国立競技場でのジャマイカ戦。「(中田)ヒデ、俊輔、稲本、(小野)伸二の同時デビューだった。(2006年)ドイツW杯に向けて、この4人なら目をつぶっても試合ができると思ったものだよ」とジーコは振り返る。

 「国立競技場でゲームをするときは特に身が引き締まった」というジーコ。新国立競技場が日本サッカーの聖地となるのか。その“演出”に期待を寄せている。 (元日本代表通訳・鈴木國弘)

 ◇ 

「PENSAMENTO POSITIVO」(ペンサメント ポジティーボ)はポルトガル語で「ポジティブシンキング」「頑張れ」の意。ジーコがよく色紙に書く言葉の1つ


国立競技場解体についてコメントしたジーコである。
1981年のトヨタカップではMVPとなった。
このスタジアムには特別な思いがあろう。
この経験が、後の鹿島入団への一つのきっかけであるとも受け取れる。
今は解体されたこの競技場に於いて鹿島が多くのタイトルを獲ったことも頷ける。
国立競技場、良いスタジアムであった。

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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2015-05-28 10:48:37
ジーコに褒められるとは嬉しい。その国立競技場の改築計画や予算の話が滞っているのを聞くにつけ、国は何をしているのかと思う。
Unknown (Unknown)
2015-05-28 11:18:02
今、国立競技場跡地付近に住んでいるサポのものです。
良いスタジアムであった。
ってのは本当ですね。鹿島もたくさんタイトルをとりました。今でも通ると無くなったスタジアムを思い出し懐かしいです。でも過去に浸ることなく,またこれから新スタジアムでたくさんタイトルをとればいい、それがまた歴史になるって思っています。