さて続きです。前回は、朝廷の側が、仏教を利用するために、神道へ組み込んだのではないかという話をしました。まあ、推測ですが。
そこから今度は江戸時代に入っていきます。
江戸時代、本居宣長などが有名ですが、国学が始まります。
そして神道は儒学や、この国学的な考えと結びついて独特の変化をし始めます。
特に、その流れから国家神道(いわゆる、天皇中心の神道)が出てきたことに注目すべきだと考えています。
この当時、産業革命を終えた諸外国が、日本近海に姿を現し始めます。
鎖国を敷いていた幕府は、諸外国に対し、強硬な姿勢をとりますが、結局は、外の力を知った内からの攻撃により、開国、倒幕運動、王政復古と進み、最終的には明治維新を迎えます。
このとき、諸外国をまね、多くの制度(軍や、税制や教育など)が作られていく事になるわけですが、そこでやはり宗教も大きな変革の時を迎えます。
さて、どんな変革を迎えたのか。
そう、先述の国家神道の隆盛です。
なぜ、国家神道が国の宗教として取られるようになったのか、私はこんな推察をしてみました。
まず、日本が未だ幕府の下に統制されていた幕末、宗教としては、神仏習合を取った仏教、神道が中心でした。
さて、この頃に出てきた国学の一派に『水戸学』というものがあります。
その内容の一部に天皇は天照大神、つまり太陽の子孫であるから、「大地の元首にして万国の綱紀」であるという考えがあるのです。
そしてこの考えは、明治維新の際、バックボーンとして利用されていきます。
さらに1840年にアヘン戦争がおこります。
これにより、日本にとって今まで一番強大だと思われていた中国が、欧米の諸外国に負けるという事実に直面します。
ここで、新政府の人間たちは、宗教に関して何を考えたのか。
まずは、清と欧米諸国の宗教の比較でしょう。
イギリスは勿論ですが、欧米諸国はキリスト教という一神教(神様が一つの宗教)を信仰しています。
それに対し清は、仏教だけでなく、様々な民間宗教、あるいは道教・儒教などが入り混じった宗教を形作っていて、日本の場合は、神道と仏教が結びついた宗教を信仰していました。
以前神道は多神教だといいましたが、多神教というのは、神を非常に身近なものに感じさせてくれる(例えば近所の木さえ神木になりうる事など)と思います。また同時に「一つにまとまらない国民性」を作り出すことにつながります。
なぜなら、それぞれの地域に氏神と呼ばれる信仰の対象があるわけですから、自分と他地域の他者が、神の種類によってはっきりと区別されるようになるからです。
しかしそれに対して一神教は、その聖典の受け取り方の差こそあれ、同じ一つの物を信仰しているため、最終的には、一つの目的のため合致しやすい国民性を得られるやすいと考えられます。(十字軍の遠征にヨーロッパ各国が参加した事、逆にそれに対抗したイスラム諸国、どちらもその例といえると思います。)
…このような違いを感じた明治政府は、『一神教』の下に日本中を結び付けなければ、欧米諸国の団結力の前に敗れると危惧し、何らかの方法を模索し始めます。
仏教は本来仏を中心とした『一神教』といえるでしょうが、日本に来た時点で八百万の神と集合しているし、何よりも敗れた清から伝わってきた宗教。これで日本が集結できるわけがない。
そこで利用されたのが、『天皇』でした。
先述の水戸学などからもわかるように、『天皇を中心とした』神道を推し進める事により、『一神教』の宗教を作っていこうとするわけです。
このとき、1868年に、神仏分離令といって、集合していた、神と仏を分ける命令が出されます。
これにより、廃仏毀釈運動というのがすすみ、神社の中にあった寺や、仏像が壊され始めます。つまり、「仏が殺されて」行くわけです。
1905年には、神社合祀令という命令も出され、全国に19万社ほどあった神社が、11万ほどにまで減らされ、『一町一社』という形態がとられます。今度は「神も殺された」わけです。
こうして、記紀神話の神を中心にまとめられた神道は、天皇という神の子孫を頂点とする宗教のかたちを整えていきます。
そして、キリストはすでに死んでいるが、天皇は常に生きているというところも、単なる一神教と一線を画したものであるという考え方がされたのではないかな、と思います。
さあ、この辺りが、明治直後の日本の宗教のあり方なわけですが、この国家神道が、第二次世界大戦に影響を与えた事は明確な事実ですが、私は同時に、現代にも影響を与えていると考えています。
次回以降は、国家神道の罪について触れて行きたいと思います。
次回もよろしくお願いします。
そこから今度は江戸時代に入っていきます。
江戸時代、本居宣長などが有名ですが、国学が始まります。
そして神道は儒学や、この国学的な考えと結びついて独特の変化をし始めます。
特に、その流れから国家神道(いわゆる、天皇中心の神道)が出てきたことに注目すべきだと考えています。
この当時、産業革命を終えた諸外国が、日本近海に姿を現し始めます。
鎖国を敷いていた幕府は、諸外国に対し、強硬な姿勢をとりますが、結局は、外の力を知った内からの攻撃により、開国、倒幕運動、王政復古と進み、最終的には明治維新を迎えます。
このとき、諸外国をまね、多くの制度(軍や、税制や教育など)が作られていく事になるわけですが、そこでやはり宗教も大きな変革の時を迎えます。
さて、どんな変革を迎えたのか。
そう、先述の国家神道の隆盛です。
なぜ、国家神道が国の宗教として取られるようになったのか、私はこんな推察をしてみました。
まず、日本が未だ幕府の下に統制されていた幕末、宗教としては、神仏習合を取った仏教、神道が中心でした。
さて、この頃に出てきた国学の一派に『水戸学』というものがあります。
その内容の一部に天皇は天照大神、つまり太陽の子孫であるから、「大地の元首にして万国の綱紀」であるという考えがあるのです。
そしてこの考えは、明治維新の際、バックボーンとして利用されていきます。
さらに1840年にアヘン戦争がおこります。
これにより、日本にとって今まで一番強大だと思われていた中国が、欧米の諸外国に負けるという事実に直面します。
ここで、新政府の人間たちは、宗教に関して何を考えたのか。
まずは、清と欧米諸国の宗教の比較でしょう。
イギリスは勿論ですが、欧米諸国はキリスト教という一神教(神様が一つの宗教)を信仰しています。
それに対し清は、仏教だけでなく、様々な民間宗教、あるいは道教・儒教などが入り混じった宗教を形作っていて、日本の場合は、神道と仏教が結びついた宗教を信仰していました。
以前神道は多神教だといいましたが、多神教というのは、神を非常に身近なものに感じさせてくれる(例えば近所の木さえ神木になりうる事など)と思います。また同時に「一つにまとまらない国民性」を作り出すことにつながります。
なぜなら、それぞれの地域に氏神と呼ばれる信仰の対象があるわけですから、自分と他地域の他者が、神の種類によってはっきりと区別されるようになるからです。
しかしそれに対して一神教は、その聖典の受け取り方の差こそあれ、同じ一つの物を信仰しているため、最終的には、一つの目的のため合致しやすい国民性を得られるやすいと考えられます。(十字軍の遠征にヨーロッパ各国が参加した事、逆にそれに対抗したイスラム諸国、どちらもその例といえると思います。)
…このような違いを感じた明治政府は、『一神教』の下に日本中を結び付けなければ、欧米諸国の団結力の前に敗れると危惧し、何らかの方法を模索し始めます。
仏教は本来仏を中心とした『一神教』といえるでしょうが、日本に来た時点で八百万の神と集合しているし、何よりも敗れた清から伝わってきた宗教。これで日本が集結できるわけがない。
そこで利用されたのが、『天皇』でした。
先述の水戸学などからもわかるように、『天皇を中心とした』神道を推し進める事により、『一神教』の宗教を作っていこうとするわけです。
このとき、1868年に、神仏分離令といって、集合していた、神と仏を分ける命令が出されます。
これにより、廃仏毀釈運動というのがすすみ、神社の中にあった寺や、仏像が壊され始めます。つまり、「仏が殺されて」行くわけです。
1905年には、神社合祀令という命令も出され、全国に19万社ほどあった神社が、11万ほどにまで減らされ、『一町一社』という形態がとられます。今度は「神も殺された」わけです。
こうして、記紀神話の神を中心にまとめられた神道は、天皇という神の子孫を頂点とする宗教のかたちを整えていきます。
そして、キリストはすでに死んでいるが、天皇は常に生きているというところも、単なる一神教と一線を画したものであるという考え方がされたのではないかな、と思います。
さあ、この辺りが、明治直後の日本の宗教のあり方なわけですが、この国家神道が、第二次世界大戦に影響を与えた事は明確な事実ですが、私は同時に、現代にも影響を与えていると考えています。
次回以降は、国家神道の罪について触れて行きたいと思います。
次回もよろしくお願いします。









