といっても、八時過ぎにですが。
新聞を見ると陰惨な事件が載っています。
秋田の容疑者は捕まったようです。
あの人、正直怪しいと思っていましたが、そんなことはどうでもいいんです。
今日の内容は「容疑者」について。
おおくの方の賛成もえられるんじゃないかなと思いながら書いていきます。
一般的に容疑者(ようぎしゃ)という用語は日本のマスメディア(マスコミ)により「被疑者」の意で使用されている。マスメディアでは逮捕又は指名手配や嫌疑されると「容疑者」と呼び、公訴が提起(起訴)されると「被告」と呼ぶようになる。ちなみにこれも、法律用語としは「被告人」が正しい。(「被告」は民事事件)
(Wikipediaより)
ということで容疑者というのは、指名手配や、逮捕されただけの人なわけです。
はっきり言いますが、警察というのは、
怪しい人を拘束していい機関
な、だけです。
日本で国籍を持って暮らしている人に対しては、奴隷的拘束を受けなくていいという身体の自由が保証されていますから、それを破っていいのは警察だけなわけです。(現行犯は除きます。)
もちろん身柄を拘束するためには十分な証拠と、法的手続きが必要だとはいえ、
その人が本当に犯罪者だとは限りません。(←断言)
秋田の事件に関して言えば、マスコミの報道で容疑者の近隣に住む人が「やっぱりあの人だった」という言葉を漏らして安心しているという話を聞きました。
この「やっぱりあの人…」という言葉には、「あの人が犯人だ」、あるいは「犯人が捕まってよかった」というニュアンスが少なからず含まれています。
…集団ヒステリーと同じように感じるのは私だけでしょうか?
集団が嘱望していたこと(犯人が捕まること)が成立したことで、たとえそれが事実でなくてもそのまま魔女裁判が進むというような…。
はっきり言いますが、私もあの女性が怪しいなと思っていたのは冒頭で述べた通りです。
しかし、彼女はまだ「容疑者」であり、「真犯人」ではありません。
つまり、「真犯人」はのうのうと暮らしているかもしれないわけです。
そして何よりも気にかかるのは、「警察が逮捕したから真犯人だ」という安心感なんです。
警察も人間が行っている行為であり間違いはありえます。
しかし、「多くの人」が犯人を望む限り、警察は「犯人はつかまっていません」ではすまされないという重圧がかかります。
そして「容疑のある人」を捕まえる。
しかし、その人は犯人ではないかも知れない。
積み重ねた証拠は「裁判官」が判断するものですから、どうにかしてでも「ゆるぎない証拠」を得る必要がある。
そして、容疑者が捕まったことで周囲(マスコミや容疑者逮捕の安心感を得た不特定多数の人)が、その人の過去や、犯人である可能性を列挙していく。
…まるでその人が犯人であればいいと願うかのように。
それを見た警察は「何が何でも犯人を捕まえなければならない」(あるいは犯人はその容疑者でなければならない)という強迫観念に襲われる。
そして、ありもしない自白を拘束期間のうちに強要するようになる…。
…もちろんすべての事件がそうだなんて言うつもりは全くないわけですが、そういう可能性も多少はあると考えているですよ。
マスコミや多数の後押しを受けている、あるいは権力を保持している人たちはえてしてそういう傾向に陥りやすいのかなとも。(政治屋さんとかね)
だからこそ、私自身がしっかりしなければならないと思う意味で、この記事を書いてみました。
…多少お酒も入っていて勢いづいていますけどね。(笑)
(復帰して久しぶりの記事としてはハードな内容でしょうか…。汗)
新聞を見ると陰惨な事件が載っています。
秋田の容疑者は捕まったようです。
あの人、正直怪しいと思っていましたが、そんなことはどうでもいいんです。
今日の内容は「容疑者」について。
おおくの方の賛成もえられるんじゃないかなと思いながら書いていきます。
一般的に容疑者(ようぎしゃ)という用語は日本のマスメディア(マスコミ)により「被疑者」の意で使用されている。マスメディアでは逮捕又は指名手配や嫌疑されると「容疑者」と呼び、公訴が提起(起訴)されると「被告」と呼ぶようになる。ちなみにこれも、法律用語としは「被告人」が正しい。(「被告」は民事事件)
(Wikipediaより)
ということで容疑者というのは、指名手配や、逮捕されただけの人なわけです。
はっきり言いますが、警察というのは、
怪しい人を拘束していい機関
な、だけです。
日本で国籍を持って暮らしている人に対しては、奴隷的拘束を受けなくていいという身体の自由が保証されていますから、それを破っていいのは警察だけなわけです。(現行犯は除きます。)
もちろん身柄を拘束するためには十分な証拠と、法的手続きが必要だとはいえ、
その人が本当に犯罪者だとは限りません。(←断言)
秋田の事件に関して言えば、マスコミの報道で容疑者の近隣に住む人が「やっぱりあの人だった」という言葉を漏らして安心しているという話を聞きました。
この「やっぱりあの人…」という言葉には、「あの人が犯人だ」、あるいは「犯人が捕まってよかった」というニュアンスが少なからず含まれています。
…集団ヒステリーと同じように感じるのは私だけでしょうか?
集団が嘱望していたこと(犯人が捕まること)が成立したことで、たとえそれが事実でなくてもそのまま魔女裁判が進むというような…。
はっきり言いますが、私もあの女性が怪しいなと思っていたのは冒頭で述べた通りです。
しかし、彼女はまだ「容疑者」であり、「真犯人」ではありません。
つまり、「真犯人」はのうのうと暮らしているかもしれないわけです。
そして何よりも気にかかるのは、「警察が逮捕したから真犯人だ」という安心感なんです。
警察も人間が行っている行為であり間違いはありえます。
しかし、「多くの人」が犯人を望む限り、警察は「犯人はつかまっていません」ではすまされないという重圧がかかります。
そして「容疑のある人」を捕まえる。
しかし、その人は犯人ではないかも知れない。
積み重ねた証拠は「裁判官」が判断するものですから、どうにかしてでも「ゆるぎない証拠」を得る必要がある。
そして、容疑者が捕まったことで周囲(マスコミや容疑者逮捕の安心感を得た不特定多数の人)が、その人の過去や、犯人である可能性を列挙していく。
…まるでその人が犯人であればいいと願うかのように。
それを見た警察は「何が何でも犯人を捕まえなければならない」(あるいは犯人はその容疑者でなければならない)という強迫観念に襲われる。
そして、ありもしない自白を拘束期間のうちに強要するようになる…。
…もちろんすべての事件がそうだなんて言うつもりは全くないわけですが、そういう可能性も多少はあると考えているですよ。
マスコミや多数の後押しを受けている、あるいは権力を保持している人たちはえてしてそういう傾向に陥りやすいのかなとも。(政治屋さんとかね)
だからこそ、私自身がしっかりしなければならないと思う意味で、この記事を書いてみました。
…多少お酒も入っていて勢いづいていますけどね。(笑)
(復帰して久しぶりの記事としてはハードな内容でしょうか…。汗)










…隠れてたのに…。
…。
……。
………。
…うそです。
ようこそいらっしゃいました。
結婚式以来だな。これからもよろしく。
コメントなぞつけてくれな〜。