後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

2009年12月と2013年11月の同じ白鳥夫婦の写真です

2014年04月23日 | 写真

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2009年の年末は、家の大掃除が順調に済み、年賀状も出し、クリスマスのミサへも行って来たし、全てが流れるように進んでいました。

12月26日は朝から穏やかな日和なので家内と一緒に霞ヶ浦のヨットの大掃除へ行きました。キャビンの中は家内が雑巾がけをし、私は甲板をデッキブラシで水洗いしました。

昼食後は湖沿いに2Kmほど歩いて2008年の春から白鳥4羽が棲みついていた芝生のところまで行きました。

場所は桜川の河口から湖に向かって左側の港町の高齢者用のホームのビルの前広い芝生の生えているところです。

子供2羽は秋から巣立って姿が見えません。

白鳥の夫婦は離婚なしで一生そいとげるそうです。成程、2羽の大きな白鳥の夫婦が仲よく緑の芝生をしきりに食べていました。人間に慣れていて、傍に行っても平気です。しばし白鳥の夫婦と遊んで船に帰りました。

上の2枚に写真がこの夫婦の白鳥の写真です。

それが2014年の11月19日に久しぶりに同じ場所に白鳥に会いに行きました。4年ぶりでした。

そうしたら霞ヶ浦に棲みついた夫婦の白鳥が居るではありませんか。それも新しく2羽の子供を育てていたのです。

こうして見るとこの夫婦は毎年のように、春に2羽の子供を産み、育てているようです。そして子供の白鳥は2年後の春にはシベリアに飛んでいくのでしょう。

港町の高齢者用のホームのビルの前の堤防の上の草を食べている写真を下に示します。

それにしても人家のすぐ近くに夫婦の白鳥が悠悠と平和に暮らしながら子供を育てているのです。近所の人々の白鳥への愛が感じられ、心温まる思いをしながら帰ってきました。


趣味としての宗教あれこれ(2)趣味として気楽に答えたら洗礼を受けた方がいました

2014年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

真面目な信者の方々に怒られそうですが、私は肩から力を抜いて宗教を趣味のように大切にしています。

一年前の2013年2月4日掲載記事で、「カトリック初心者」さんという方から頂いた4つの質問をご紹介しました。

私は気楽にお答えしました。真面目に教理も勉強していなかったので4つの答えには間違ったことも含まれていると思います。

しかしこの「カトリック初心者」さんは1年後の2014年の復活祭の徹夜ミサで洗礼を受けたのです。

カトリック関口教会の山本量太郎主任司祭さまから洗礼を受けたのです。

山本神父は私が1971年にカトリック立川教会で洗礼を受けたときの代父をして下さった山本大二郎氏の息子さんなのです。その上、山本神父さまは私共のカトリック小金井教会の主任司祭を10年もして下さってから関口教会の主任司祭になられた方です。

私にとっては二重、三重の喜びです。大きな感動です。

ブログに気楽にカトリックのあれこれを書いていたら、それを読んで洗礼を受けるキッカケにして下さったのです。そして個人的に深い関係のあった神父様から洗礼を受けたのです。

人生にはこんなこともあるのです。

そこで以下にカトリックに関する気楽な問答をもう一度書いておきます。

====「カトリック初心者」さんからの4つの質問===========

①「主の平和」は、どう解釈したらいいですか。
②小さい頃、祖母からご先祖様を供養し敬うよう言われましたが、
 キリスト教では先祖については、どのような教えですか。
③因果応報、自業自得、のような教えはありますか。
④なぜ同性愛を認めないのですか。

====以下は私の気楽な4つの答えです==============

まず一般的なことを書きます。キリスト教にはいろいろな宗派があり、それぞれが異なった「信者が守るべき規則」や「信仰の仕方」を定めています。

その違いはイエス様の教えを書いた福音書のどの部分を重要と信じるかによって生じる相違なのです。この様子は仏教でも全く同じです。

ですから変な規則や信仰の形式にぶつかったら、それは本当にイエス様のお心なのか、後の人間の教えなのかを自分で深く考えることが重要になって来ます。

頂いたご質問を実例にしてもう少し私個人の感想を申し上げます。

①「主の平和」は、どう解釈したらいいですか。

分かり難い言葉ですね。しかし簡単に言ってしまえば神様が与えてくれる平和という意味です。

世界には戦争の無い平和な国がかなりあります。しかしそれは軍事的なバランスによって出来ている「はかない平和」です。バランスが崩れると一瞬にして戦争が起きそうになります。この軍事的なバランスによる平和は人間が作った「かりそめの平和」です。

それに対して神様の与える平和は人間の心の中へ頂ける絶対的な平和です。

それはその人が戦場にあっても心で体験出来る平和です。その平和は牢獄の中にでもあるのです。

私はそれを100%確信してはいませんが、時々確信する時があります。そんな瞬間はとても心が休まります。信者が「神父さまの上にも主の平和」と祈るのは神父さまの為でもあり、自分の為にもなっています。そんな感じがします。

②小さい頃、祖母からご先祖様を供養し敬うよう言われましたが、
 キリスト教では先祖については、どのような教えですか。

まずとても優しかった祖母へ私も敬意を感じます。そして幸せな祖母との日常が目に見えるようです。幸福な幼少時代だったに違いありません。

キリスト教では露骨に先祖様を敬えとは教えていません。しかしカトリックでは11月に死者の日があり、その折りに墓掃除と花々を供えて墓参りをします。ヨーロッパでそんな光景をたびたび見ました。

全ての死者へ尊敬の念を持つことは人間として大切なことです。私は春と秋のお彼岸の折りに必ず父母や親類の墓参りを家内と一緒にします。

墓参りをすれば自分の気持ちがよくなるから行くのです。それで良いではありませんか?お葬式も同じことです。

③因果応報、自業自得、のような教えはありますか。

あります。それはおもにキリスト教の旧約聖書に丁寧に書いてあります。

しかしイエス様は人間が考える因果応報や自業自得の理解にこだわらないことを教えたのです。それよりも神様を大切にして、愛し、そして隣人を愛することの重要性を強調して教えているのです。

この延長で復讐はするな、それは神のことと教えたのです。

私は、因果応報、自業自得にこだわると心が暗くなります。だからそんな感じ方をしないようにしています。それは個人、個人の感じ方の問題のように思っています。

④なぜ同性愛を認めないのですか。

これはカトリックでは何故離婚を認めないのかという問題と関連が深いと感じています。

聖書には結婚は神が与えた奇跡だという意味の言葉があるようです。

ですから奇跡ではない離婚や同性愛は神様はあまりお好きではないようです。私はそんな感じて受け止めています。

しかし人間社会はそんな綺麗ごとですみません。離婚も起きますし。同性愛もあります。私のまわりに もしそのようなカトリック信者がいても 私は絶対にその人を非難しません。いや非難してはいけないものと信じています。

ですからそのことを洗礼を受けるか否かの条件にしないほうが良いと感じています。洗礼を受けてからゆっくり考えるほうが良いと感じています。

さてカトリックの良さの一つを書いてお終いにしたいと思っています。このブログはカトリックの神父様も時々ご覧になっています。私が勝手なことや間違ったことを書いても神父様は絶対に非難しません。破門されることもありません。そこがカトリックの良いことだと嬉しく思っています。(終わり)

=====以下は洗礼を受けてから頂いたメールです============

 後藤和弘さま  

こんばんは。

昨日の復活徹夜祭で、神様に見守られる中、洗礼を授かりました。 

分け合ったあちこちの主の光、栄光の賛歌に鳴り響く鐘の音、

諸聖人の連願、、、胸がいっぱいになりました。 

後藤さんの助けを借り、新しい道筋で完成に向かって安心して進んでいきます。

ありがとうございます。これからも、どうぞよろしくお願いします。

(ご本人の実名が末尾にありました。)

=============================

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤4和弘(藤山杜人)

下に挿絵として以前に明治村で撮った古い和風の教会の写真を示します。

写真は2010年4月に愛知県の明治村で撮影いたしました。長崎の港の外に伊王島という島があり、その大明寺に聖パウロ教会堂がありました。明治12年に建造され、昭和48年まで100年間も使用されていた木造建築です。外見は普通の和風の建物に見えますが、内部はフランスのカトリック教会のように出来ています。

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我が友人、星野君との最後のセイリングの写真

2014年04月22日 | 写真

大学の同級生だった星野君は2011年9月に急な病で旅立ってしまったのです。毎年10月に一緒に霞ヶ浦でセイリングするのが数年来の恒例になっていました。翌月の10月にも一緒にセイリングする約束をしたいたのです。その直前の死でした。

そんな訳で前年の2010年の10月28日が最後のセイリングになってしまったのです。

その日、一緒にセイリングした霞ヶ浦は久しぶりの晴天でした。

彼は自宅のある福島から東北新幹線で上野経由でやって来ました。

ヨットが港を出ると、始めは風が穏やかでしたが、沖では物凄くなり、船が身を躍らせて走りまわりました。

帰港のころは又静かになり夕日を楽しみながら帰ってきました。夜は土浦駅のそばの居酒屋に行き酒を酌み交わしたものです。

ホテルに一泊し翌朝も3人でセイリングへ出ようとしたとき突然雨が降ってきました。船は出さないでセールにカバーをかけて帰って来ました。

その思い出の最後のセイリングの写真を3枚下に示します。

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そしてこの最後のセイリングの前の年の2009年の10月15日のセイリングの写真を下に示します。強風でした。

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右側が在りし日の星野君で、左は同じ大学の同級生の大友君です。大友君は現在も健在です。

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強風でヨットがかなり傾いて疾駆しました。

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そして夜は星野君が持参したシャンパンでキャビンの中でパーティを楽しんだのです。下にその写真を示します。

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私はホワイト・シチュウを鍋に入れて持参し、キャビンのコンロで温めて供しました。

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外に出るとそこには写真にあるようなロマンチックな光景が広がっていました。

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尚、星野君の追悼記は、猪苗代湖の白鳥とヨット、そして今は亡き星野君を想う に御座います。

高齢になると友人たちが次々に旅立って行きます。静かな気持ちで彼らの旅立ちを見送っています。そうして、老境の時が流れて行くのです。(終わり)


夢多き人々の旅立ち(1)山林の中で交友のあったある善良な共産主義者

2014年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム

小生は淋しい山林の中に小屋を持っています。もう40年間も通っています。そこは高級別荘地とはあまりにも違い、自然がいっぱいあるところです。鹿や猪や猿が走りまわっている山奥です。
その一帯には別荘と呼ぶにはあまりにも質素な小さな別荘が沢山あります。はっきり言えば小屋です。小屋ですから水道は自家水道でガスはありません。
そんな場所なので小屋の価格が格安なのです。そいう所にはお金持ちは来ません。つつましい生活から貯金をした人が自然の中で過ごすという大きな夢を持ってやって来るのです。横浜や東京からやって来ます。
とにかく皆がロマンチストなのです。
そんな地域に40年前に土地を買った人々25人くらいで清流園という管理組合を作りました。
毎年泊りがけで懇親会を開いてきました。しかし年を経るごとのそのロマンチストたちが次々に旅立って行くのです。懇親会に出る人も少なくなってしまったのです。組合の創立メンバーは私ともう一人の二人だけになってしまったのです。

そこでその夢多き人々の思い出を少し書いてみようと思います。
今日はある善良な共産主義者のODさんの思い出です。
ODさんは東京を離れ、山梨の甲斐駒の見える所に家を建て、下の写真のような牧草地のすぐ隣に独りで住んで居ました。

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その頃からの20年以上の知り合いです。
しかし、彼とは2012年6月に会ったのが最後になってしまいました。
私の小屋の近所をよく散歩していたので、時々会いました。いつもニコニコしていて、優しそうな老境の人です。その風貌が善良そうでした。
雑木林の中を独りで歩く様子に気品があり、背筋が通ったような雰囲気でした。

ある時私の小屋に寄ってくれました。いつものように椅子をすすめ話します。
山に来たら、前歴や職業のことを聞くのは御法度です。ですから20年以上彼と交流がありましたが、何をしてきた人なのか一切分かりませんでした。
特に強く聞いた訳ではありませんが、彼が自分の前歴を話し出したのです。ニコニコしながら、「私は共産主義者でした」と静かに言います。
大正13年生まれ。都内の旧制中学、旧制高校を卒業後、山岳部のある北海道帝国大学へ進みます。中学時代から山岳部で登山をしていたので山岳部のある大学を選んだのです。
その北国の大学で共産主義に出合うのです。純粋で、ロマンチストの彼は乾いた紙が水を吸うようにすっかり共産主義を吸いこんでしまったのです。丁度、第二次世界大戦の始まった頃でしたので軍部独裁の風潮へ反発があったとも言います。
卒業後は代々木の本部で働きました。徳田球一さんや、野坂参三さんや、志賀義雄さんなどの部下として働いたのです。この3人の性格の違いを面白おかしくいろいろ話してくれました。
非国民として官憲に追われ、逃走する生活だったそうです。しかし彼は一度も捕まらずに逃げおおせたのです。
彼の学生時代は下宿生活でした。札幌で下宿していた家のお嬢さんと結婚します。娘が2人できました。
しかし官憲の取り締まりが奥さんの親族全てに及ぶのを見て、離婚を決意します。
戦前は「主義者」が親類に一人でも居ると一族が酷い目に会う時代だったのです。
思わず長話になってしまいました。

フッと気が付くと周りの林に夕闇がせまっています。足元が暗くなると危ないので、家内とともに彼を小川の渡り場の所まで送って行きました。
「またお会いしましょう!」と言って別れました。小川の向こうの雑木林の中に彼の後ろ姿が次第に小さくなって行きます。振り返って見ると、私の小屋へ帰る道だけがほの白く見えます。
2012年6月に、パンが好きだという彼に、家内が東京で買ったパンを届けたことがありました。彼は留守中でしたが、すぐ私達の小屋へお礼を言いに来ました。そして「ボケ」が進んできたので、間もなくお別れになるかも知れないと言います。
彼に会ったのはそれが最後になりました。
2012年の7月に山小屋へ行った時、彼の意識が混濁してしまったので救急車で病院に入ってしまったと近所の人から聞きました。その後、遠くの病院に行ってしまったのです。もう二度と会えません。
山に行くと時々、下の写真のように雨戸の閉まっている彼の家を何となく見に行きます。

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彼は死んでしまった訳ではありません。ひょっとして意識が正常にもどり、このブログを見るかもしれません。
彼の心がなごむように2014年の4月8日に彼の山荘の近くから撮った甲斐駒岳の写真を下に一枚お送りします。大正13年生まれなので今年で90歳か91歳の筈です。
彼の意識が正常に戻るようにと祈りつつ、彼の思い出を懐かしんでいます。
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それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


趣味としての宗教あれこれ(1)なんとなく神社やお寺を散歩する趣味

2014年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム

私は宗教は嫌いだ。だからこんな「趣味としての宗教あれこれ」などという連載記事は一切読まない。こう言わないで気楽に流し読みして下さい。

ところで家々の立て込んでいる街中で静かに、そして悠悠と散歩出来る場所は何処でしょうか?

私はよく神社の境内やお寺の庭を散歩します。そいう所は広々としていて空気も良いのです。その上、門が開いているかぎり出入り自由です。本当に自由なのです。

そこを散歩していると宗教にまつわるいろいろなものがあります。それを見ながら作った人の気持を勝手に想像しながら散歩するのです。

例えば一昨日も調布市布田の天神さまの境内を散歩していました。そうしたら下の写真のような牛の像があったのです。菅原道真の死を悲しんで牛が座り込んで、動かなくなったという伝説に基いて作った牛の像です。

各地の天神様には必ず牛の像が寝ています。

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当時の牛は牛車を引いたり農耕を助けたりしたのです。黒毛和牛が多かった筈です。上の写真の牛は少し獰猛に見えます。作った人がスペインの闘牛の牛の姿を少し取り入れたのでしょう。そんな他愛もないことを想像しながら散歩するのです。

そしてその神社の隣の寺の庭に入って行くと下のような像が立っています。

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中心の大きな仏像に6地蔵が 従っているようです。6地蔵の外側にも3体の像があります。このお寺の古い歴史の間にあちこちに埋もれてしまった仏像やお地蔵さんを掘り起こして、このように並ばせたに違いありません。そういうことをした和尚さんの優しさが見えるようです。

そして帰りがけに庭の隅のほうで下の写真のような涅槃像を見つけました。

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この寝姿はお釈迦様が亡くなるときの姿勢を像にしたのです。タイやベトナムの東南アジアのお寺には必ずあるそうです。日本のお寺では珍しいので写真を撮りました。

宗教はいろいろありますが、すべて同じように、人々の死に寄り添い、死者へ慈しみをそそぎ、遺族の悲しみを癒してくれるのです。上の写真にあるお釈迦様も必ず全ての死者へ慈悲の心をそそいでくれるのです。

小生はカトリックですが、仏教も同じように大切に思っています。

そこで以下にある神父様の文章をご紹介いたします。

・・・「私は司祭になってからの37年間に188人のお葬式の司式をしました。数多くの人間の死を見てきました。多くは70歳以上で病気で亡くなった方です。けれどまだ働き盛りの人が重い病気で、小さい子供を残して亡くなったことも、交通事故でが突然命を落とした若者もいました。小学生が海の事故で犠牲になったことも、赤ちゃんがインフルエンザで急死したという痛ましいこともありました。また自死の方もいます。

家族、友人に大きなショック、深い悲しみを与える人の死を何度も見てきました。」

(以下略)

神父さまは人々の死に寄り添い、優しい慈しみを注ぎながら死者を見送ったのです。この神父様は札幌教区の今田玄五(こんだげんご)さんという方です。

宗教はすべて同じように、死者へ慈しみをそそそぎます。

上の写真にあるお釈迦様も全ての死者へ慈悲の心を注いでくれるのです。

そんなことを考えながら神社やお寺を散歩するのが私の趣味です。私にとって宗教は趣味の一つなのです。

このように書くと真面目な信者さんから、「宗教が趣味とはけしからん!」と叱られそうです。しかし私は宗教は狂信しないで、おおらかにお付き合いするのが良いと信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

 後藤和弘(藤山杜人)


今日は復活祭です・・・復活祭とはどんなお祭りなのでしょうか?

2014年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は復活祭の日です。復活祭の前には40日間の四旬節があり、禁欲的な生活をする人々もいます。

ヨーロッパではスペイン、イタリーなどのカトリック教徒の多いところでは禁欲的な生活の後の復活祭を盛大に祝います。

ドイツやフランスやルーマニアやいろいろな国にもカトリック教徒が多いのです。そして南米諸国や日本の長崎や五島列島では古い信仰が守られていて復活祭を大切にしています。

この四旬節の頃の東京では、早春の寒い日から、次第に春が近づき、花々が咲き出す季節の40日です。クロッカスが咲き出し、水仙が咲き、梅が咲き、コブシとモクレンが咲きます。ジンチョウゲも菜の花も咲いて、ついに桜が満開になります。そして櫻も散り、ハナミズキが開いています。

このように花々の移り変わりを見ながらキリストの十字架の上での処刑の事を考えて過ごす季節です。

キリストを称賛していた人々の心変わりによってイエスはピラトの裁判へかけられます。その人々の心変わりが悲しいです。ピラトは群衆の「死刑にしろ!」という叫びを静めるため、厭々ながら死刑の判決を下します。

そしてイエスは十字架を担がされ、ゴルゴタの丘の上で磔にされ、長い時間苦しんで絶命します。残された衣服を処刑したローマ兵がくじ引きで分け合うのです。

そのいきさつを聖書は具体的に書いてあるのです。ですから目の前で処刑されているような感じがします。

しかし死んで3日目にイエスは生きかえります。復活したのです。

それが大きな喜びです。楽しい出来ごとです。そして弟子たちと親しく話をして、別れて、天へ登ります。そのキリストの生き返った事を祝うお祭りが「復活祭」なのです。

そしてこの世の終末の日に、イエスが地上に降りてきて全ての死んだ人々を生き返らせのです。死んだ人々の肉体が蘇るのです。

全ての人はイエスとともに復活するのです。喜ばしい事です。楽しい事です。生き返ったイエスはその事を約束してくれました。楽しい、嬉しい事なのでお祭りをするのです。復活への明るい希望の光が溢れるお祭りなのです。

そこで欧米のカトリック教徒は卵に華やかな模様を描いて人々へ配り、復活祭を祝うのです。卵が復活の象徴なのです。

この習慣の歴史は下の参考資料にあります。面白い習慣なので是非ご一読下さい。

そのような美しい卵の写真を下に示します。

それは楽しいことですが、3年前の四旬節の間に、大津波によって東日本の人々が3万人ちかくも亡くなったのです。

家や田畑が波に浚われていまったのです。そして原子力発電所が爆発して放射能が飛び散り、多くの人々が家や故郷を捨て避難生活をしています。

それ以来、四旬節と復活祭の頃になると、深い悲しみが私の心に湧いてきます。

ですから復活祭はイエス様の復活を祝う楽しさだけでなく、いろいろな悲しい事を思い出す季節です。

今日は復活祭の日です。これから教会のミサへ行きます。

そして、3年前の大津波で亡くなった方々のご冥福をお祈りしてきます。まだ避難生活をしている方々が一日でも早く元の平穏な生活に戻れますようにとお祈りしてまいります。

また、皆様のご健康と平和もお祈り致します。後藤和弘

Easter_eggs__straw_decoration

Traditional_easter_eggs_in_croatia

 写真と下の文章の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%B0です。

この習慣の歴史:

卵を飾る習わしは、キリスト教および復活祭よりもかなり古くから存在する。卵とウサギは、古来より豊壌のシンボルだった。ユダヤ教の過ぎ越しの祭の正餐では、塩水で味付けをした固ゆで卵が、新しい命と信仰のシンボルとして食べられる。中央アジアの新年の象徴的な食卓にも卵が必須である。

イースター・エッグの起源を語る物語は数多く存在する。1つには、イエス・キリストの復活は赤い卵と同様ありえないとある皇帝が言ったため、さらに言えば、イースター・エッグの伝統は四旬節の間の節制(断食)が終わることを祝うためである。

西方教会では、卵は「肉類」と同様に見られ、四旬節の間は食べることを禁じられるのである。同様に東方教会では、血を流さずに採られる卵は酪農食品(乾酪)に分類され、大斎中は肉や魚とともに禁食の対象となる。

もう一つの根強い伝統は、イースターを祝うとき友人に赤く染めた卵を贈るというものである。この習慣はマグダラのマリアに起源を持つ。

キリストの昇天の後、彼女はローマ皇帝の元に赴き、赤い卵を贈って「イエスが天に上げられた」ことを示した。それから彼女は彼にキリスト教を説き始めたのである。卵が象徴するものは、墓と、そこから抜け出すことによって復活する命である。

卵を固ゆでにするのは鶏が生み出した食べ物を浪費しないためで、同じ理由からスペインの伝統的な復活祭の料理オルナソは固ゆで卵を主要な材料とする。

また、アメリカ合衆国では野原に卵を散らばして、それを探す「エッグハンティング」大会が行われ、中でも1985年4月に開催された「ガリソン・エッグハンティング大会」では、ゆで卵延べ7万2000個と飾り卵4万個を散らばして行われ、ギネスブックに掲載された。以下省略。


今日は調布市布田天神と常行院を散策して来ました

2014年04月19日 | 写真

今日は古いお寺や神社を散策したくなりました。そこで927年には存在していた布田天神とその隣の常行院大正寺の江戸時代の古風な庭と観音堂にお参りして来ました。

静かで深い和の文化を楽しんで来ました。

その折に撮った下の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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布田天神とは:http://www.fudatenjin.or.jp/about/index.html

布多天神社の創建はあまりに古く定かではありませんが、延長五年(927年)に制定された「延喜式」という法典にその名を連ねる、多摩地方有数の古社で、社伝によれば第11代垂仁天皇の御代約1940年前の創建といわれております。

文明九年(1477年)に多摩川の洪水をさけ、古天神というところより現在地へ遷座され、その時に、御祭神、少彦名命(すくなひこなのみこと)に菅原道真公を配祀されました。

江戸時代に甲州街道が作られ、上石原、下石原、上布田、下布田、国領の五宿ができ、布田五宿と呼ばれました。
当時、布多天神社は布田五宿の総鎮守であり、五宿天神と崇め祀られておりました。

そして布田五宿は、明治二十二年に飛田給、上ヶ給と合併して調布町となり、当社は調布町総鎮守となりました。

三栄山常行院大正寺とは:http://www.chofu-7fukujin.com/ebisushin/

開山は奈良時代と言われている。古くは上布田宿境にあった三栄山不動院寿福寺、下布田の紫雲山寶性寺、上布田の広福山常行院栄法寺の三寺を大正四年に合併し、開山時の年号に因み、三栄山常行院大正寺として創設された。栄法寺は、明治初年、神仏分離のときまで布田天神の別当であった。本堂は(旧)山門とともに栄法寺より移築せるものにして文政十年の建築である。


救助された教頭が自殺・・・私は韓国人を尊敬する

2014年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム

韓国客船の沈没での犠牲者は476人中、死者、29人、行方不明270人で、救助者は174人でした。

操舵を指揮していた25歳の女性三等航海士が急旋回すれば積荷が崩れるとという基本的なことを忘れていたのが原因のようです。

積荷の状態を想像もしないという狭い考えで操船したのですから横転し、沈没するのは当然です。

私は小型船舶を操舵した経験があるのでこの三等航海士の愚かさに強いいきどおりを感じています。 下に横転した客船の写真を示します。

(写真の出典は、http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000025213.htmlです。)

この大きな悲劇のなかで、もう一つ深い悲しみを感じさせることが起きたのです。

高校生を引率していて、自分だけ救助された教頭先生が首つり自殺をしたのです。その遺書をお読みください。

「200人以上の生徒の生死が不明なので、一人で生きるにはつらすぎる。この身を燃やして沈没地点にまいてほしい。あの世でも見つかっていない子供たちの先生になるか」

自殺した先生はソウル近郊の檀園高等学校の50歳台前半の教頭先生だったそうです。名前は報道されていません。

自殺は悪いことです。しかし私はこの先生の生徒に対する強い愛情と責任を感じています。涙がにじみ出ます。このように強い師弟愛が 脈々と流れている韓国の文化に感銘を受けています。

昔の日本にも生徒の命を救おうとして死んでしまった訓導(先生のこと)がいました。

悲しくも美しい東洋の文化です。私は韓国人を尊敬いたします。

この教頭先生と200人の生徒のために韓国人の好きな桃の花の写真をお供えします。

そして皆様と一緒にご冥福をお祈りしたいと思っています。合掌。後藤和弘

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===自殺した教頭先生に関する報道===============

【珍島聯合ニュース】修学旅行中の高校生を多数乗せた旅客船が韓国南西部の全羅南道・珍島沖で16日午前に沈没した事故で、引率として同船に乗船していて救助されたソウル郊外安山市の檀園高校の教頭が首をつって死亡しているのが確認された。

 18日午後4時5分ごろ、行方不明者の家族が待機している全羅南道珍島郡の室内体育館近くの木で教頭が首をつって死んでいるのを、同氏を捜索中だった警察が発見した。

 警察は、教頭の姿が17日午後9時50分から見あたらないとの連絡を18日午前1時ごろに受け、周辺を捜索していた。現場から遺書は発見されていない。

 生徒や他の教員らとともに引率の責任者として修学旅行に参加していた教頭は、旅客船から救助された後、「私だけが救助された」と自らを責めている姿が見られたという。

 教頭は16日、海洋警察庁から救助状況などに関して参考人として調べを受けていたことが分かった。

 警察は現場の状況などから、旅客船沈没事故で多数の生徒の安否が分かっていないことに対し、教頭が責任を感じて自殺したものとみて、正確な経緯を調査している。


縄文時代の体験・・・焚火と水と小屋そして漆黒の闇夜

2014年04月18日 | 日記・エッセイ・コラム

人はそれぞれいろいろな趣味を持っています。

私が1973年に始めて、もう41年も続いている趣味は甲斐駒岳の麓の山林の中の小屋へ通うことです。一泊したり二泊もします。

そして新鮮な山林の空気を楽しみます。

時々は向かい側の八ヶ岳の南麓に沢山住んでいた縄文時代の人々のことを想像します。今から約1万6,500年前から約3,000年前の時代のことです。

その時代は掘立小屋で火を焚いて、土鍋で木の実やイノシシの肉を煮て食べていました。水は谷川の流れを使いました。

それで私が選んだ土地には下の写真のように年中枯れない清流が流れています。この水を汲んで生活に使います。飲み水が必要な時は沸騰してから使います。

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この庭には煉瓦を積んだだけの焚火用の炉があります。下の写真は家内と孫が落ち葉焚きをしている光景です。

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縄文時代を実感するのは日が暮れて周囲の山林に漆黒の闇が覆う夕暮れ時です。下がその夕暮れの山林の光景です。

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真っ暗になると小屋の中に逃げ込みます。小屋は残念ながら掘立小屋ではなく下の写真のようなな2部屋の鉄筋コンクリート造りです。

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この小屋の中では焚火は出来ませんから下の写真のような一番質素な薪ストーブを焚きます。

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縄文時代と違うことは電燈があることです。しかし下の町の肉屋さんが鹿肉やイノシシ肉を売っています。ある時、イノシシ肉 と野菜の煮物を薪ストーブの上でクツクツと煮ながらビールを飲みました。縄文時代は塩だけだったので塩味だけにしました。

そうすると縄文時代の人になったようです。ビールと電燈はいけませんが何となく縄文人になったような気分になるのです。

でも本当のことを言うと鹿肉もイノシシ肉も不味いのです。堅過ぎて、そして獣肉としての臭みがあるのです。やっぱり黒毛和牛や国産の豚肉のほうが圧倒的に美味しいのです。しかし獣肉としての臭みが縄文時代を再現してくれるのです。

この小屋には電気だけはありますが、水道もガスも来ていません。縄文時代にかなり似た生活が出来るのです。

数年前まではトイレも縄文時代でした。しかしそれが苦労なので水洗便器をホームセンターから買ってきて、自分で設置したのです。

水道が無いので壁の高いところに水槽を固定しました。それに庭の小川の水を入れて、完璧な水洗トイレにしました。

縄文時代の人々は春から秋までは毎日、毎日、木の実を採集したり、獣を狩っていたはずです。

しかしそれも下のように雪の積もる冬は無理です。どのようにして冬を食いつないだのでしょうか?

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現代人の私は食糧に関しては、下の町のスーパーに買い物に下りて行きます。そして文明の有難さをしみじみと味わうのです。

こんな変な趣味をもう41年も続けています。

しかしまだ飽きません。まだまだ続けるつもりです。


小保方論文騒動の再考・・・和を重視する日本社会は科学研究には向いていない!

2014年04月18日 | 日記・エッセイ・コラム

最近の理研の小保方論文の騒動のニュースを見ていると、つくずく日本社会は科学研究には向いていないという事実に驚嘆しています。

ノーベル賞をもらった大部分の日本人は、アメリカなどの海外の大学で研究成果を挙げている事実を見れば明白です。

日本の社会環境は独創的な科学研究には向いていないのです。その事実を私は非難する気持ちは毛頭ありません。そんな社会には欧米社会に無い良さががあるからです。しかし欧米社会との相違を認識して置くことが重要だと信じています。

そこで、今日は、日本社会が科学研究に向いていない理由を3つほど挙げてご説明したいと思ます。

まず簡単に3つの理由を記します。アメリカでの研究経験と日本での研究経験を有する小生の個人的見解です。

(1)和をもって尊しとなす社会では科学的ディスカッションを嫌います。独創的な発想が生まれにくい社会です。

(2)研究費獲得に自由競争の原理が働いていないのです。

(3)独創的な研究者を育て管理する「研究の管理者」が欠落している社会なのです。

いきなり上のように個条書きに3つ並べても分かり難いと思います。下に少し説明を致します。

(1)日本では科学的ディスカッションは指導教官とその学生の間でしか許されません。

公開の学会発表の席でディスカッションをすると直ぐに感情的な対立になってしまうのです。小生も他の大学の研究発表に質問をよくしました。すると質問された人は感情的に怒り出すのです。そして偉い先生が後でコッソリ私に注意してくれるのです。「質問はケチをつけれたと思う人が多いからほどほどにしないさい」と。

アメリカでは質問すると喜ばれるのです。内心は不愉快に思う場合があっても、「これは良い質問だ!」と返すのです。するとその一言で本人も冷静になれるのです。もちろん質問する場合には、まず相手の研究の良い点を必ず褒めます。それから疑問点や弱点を聞くのです。このようなディスカッションのルールとそれを支える文化が日本には無いのです。

小保方論文騒動で筆頭共著者の笹井芳樹氏が直属の部下でない小保方さんとディスカッションをすると失礼になると思い、それをしなかったと明言しているのです。あかの他人へ質問したりディスカッションをすると失礼になると笹井芳樹氏が信じていたのです。科学研究に適さない文化を背負っていたのです。

(2)日本の国立大学と国立研究所の研究費は文部科学省から毎年、自動的に支払われます。国民の支払う税金から支払われているのです。

旧帝国大学や理研や天文台などの古い伝統のある研究機関では毎年ほぼ同じだけの研究予算がつきます。その他、早稲田大学や慶応大学のような研究実績のある私立大学へはかなりの研究予算が支払われます。

研究者個人がいくら独創的な研究をしても次年度に急に研究予算が増大する仕組みになっていません。日本では研究費は組織に支払うものであって研究者個人に支払うようにはなっていません。

これと対称的なのはアメリカの大学の研究費です。研究者個人が空軍の研究所やいろいろな研究費支援団体へ営業活動をして研究費を獲得しなければなりません。個人的営業活動なので自由競争の原理が働くのです。

営業活動では科学者でない経営者へ分かりやすく自分の研究の価値を説明しなければいけません。素人へ分かりやすく説明するのが営業活動の成否を分けるのです。

(3)日本では「研究の管理者」がいない社会なのです。

研究費を個人が獲得するアメリカ社会ではその研究の価値を判断し、予算を通うして研究を管理する組織と人材が厳然として存在しているのです。

かれらを研究のDirector と言います。研究者はDirector に服従しています。

ところが日本では研究者が一番偉くて、その研究者の死活を左右する組織も人材もいないのです。

何処でも研究者はとかく マニアックになりがちです。社会へ貢献しない方向へ走りがちです。これを予算のことでコントロールするのが研究のDirector 達なのです。日本には無い文化です。

その他にも日本社会が科学研究に向いていない原因がいろいろありますが、今日はこの位で止めておきます。

それはれはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申しあげます。

後藤和弘(藤山杜人)

===それでも私はこの美しい日本が大好きです============

日本には四季折々の美しい風景がどこにでも広がっています。山紫水明なのです。

下の2枚の写真はその一例に過ぎません。小生の山林の中の小屋の近所から撮った甲斐駒岳の風景写真です。

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新緑の林の中に続く小道の写真です

2014年04月17日 | 写真

小平市は江戸時代初期に作られた玉川上水の両側の堤に延々と続くケヤキ、クヌギ、カシ、コナラなどの雑木林を大切に保存しています。

そしてその雑木林の中に10Km位続く見事な散歩道を作っています。その上、津田塾大学の向かい側にある運動公園には広い無料駐車場があるのです。

ここ数年この遊歩道に通っています。

しかし2月の足の捻挫以来、丸2ケ月間歩くのを休んでいました。

足が治ったので昨日と今日足慣らしに行ってきました。まだ自重して今日は2kmしか歩いていません。元気な家内はジョッギングしていました。

下に新緑の林の中に続く小道の写真をお送りいたします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

上の3枚の写真は一見同じように見えますが、歩いて行くと景観がこのように変化して行くことを示しています。

4枚目の写真は玉川上水と並行して遊歩道のすぐ脇を流れている清流です。

5枚目の写真は目に見える風景を拡大して示したものです。

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昨日のSTAP細胞騒動の共著者、笹井芳樹氏の記者会見の内容の3つの問題点

2014年04月17日 | 日記・エッセイ・コラム

昨日のテレビで今回のSTAP細胞騒動の筆頭共著者、笹井芳樹氏の記者会を見ました。

その内容にに日本人が深く考えるべき重要な3つの問題点があると感じ、暗い気持ちになっています。その三つの問題点とは下記の通りです。

(1)小保方論文のどこが科学的に間違っていたかという素人にも分かりやすい説明が皆無だったことです。専門家には理解できるような説明はありましたが素人の理解出来るように説明しませんでした。アメリカの科学者は素人にも分かるように説明することの重要性を知っているのです。

(2)筆頭共著者として理化学研究所の名誉を傷つけ、重大な損害を与えた以上、その責任を取って発生・再生科学総合研究センターの副センター長を自ら辞任すべきなのにその発言が一切無かったことです。

(3)小保方氏と厳密な科学的ディスカッションを一回もしたことが無くても筆頭共著者になったことの背景に日本の科学研究の世界の重大な欠陥があると思われることです。

以上の3つの問題点をもう少し具体的に説明すると以下のようになります。

(1)STAP細胞の外国の研究と日本の研究の比較を素人にも分かりやすく説明する努力が笹井芳樹氏に欠落しているのです。それをすれば今回の小保方論文のどこが独創的で、何処が間違っているか素人にも理解できた筈です。

日本の優秀な科学者は素人は黙っていろという独善的な文化を身につけているのです。記者会見を見ると笹井芳樹氏は非常に秀才的な科学者であるようです。そして非常に素人無視の文化を背負っているのです。

その上、今後、共著者の小保方さんと会っていろいろと話し合い、間違った考え方を直してあげようという暖かい人間味が感じられないのです。自分の保身と責任逃れだけの記者会見でした。

(2)理化学研究所は輝かしい伝統のある国立研究所です。その名誉をひどく傷つけ、その特殊法人化を延期させ、研究予算の増額に支障をきたしたのですから副センター長の役職は辞任し、単なる顧問程度に退くべきです。これが民間会社なら明らかに左遷処分です。国立研究所の甘さがあり過ぎます。

この背景には竹市雅俊センター長より「論文の仕上げ面を助け、協力するように」と言われ依頼された事情もあります。

竹市氏はこの分野で国際的にも有名な笹井芳樹氏が筆頭共著者になれば論文も有名になるだろうという政治的な考えで、笹井芳樹氏に副センター長をお願いしたようです。

これも日本独特な考え方です。著者が有名か無名は論文の価値には一切関係が無いのです。有名だから筆頭共著者にお願いするという行為は科学研究の冒涜なのです。

(3)科学研究で非常に重要なことは科学的ディスカッションです。ディスカッションによって自分の誤りが分かるのです。そして新しい研究テーマが見つかるのです。

笹井芳樹氏はそのことを充分判っていながら小保方さんとは一度も親身のディスカッションをしていないようです。

自分が指導している国立の京都大学の学生には実験ノートを持って来させてディスカッションをしていると明言しているのです。

共著者になる以上、小保方さんは勿論、他の共著者全員とも真面目に科学的ディスカッションをすべきだったのです。

偉い竹市雅俊センター長とは礼儀正しく話はするが、共著者とはディスカッションもしないという態度はあまりにも日本的な風土です。

そういえば理研は昔は科学技術庁傘下の国立研究所だった筈です。一方、京都大学は文部省傘下のの大学でした。役所文化では縄張りの違う組織だったのです。

役所文化を背負った秀才の笹井氏が縄張りの違う理研の研究者を差別したようです。理研の人々を無関係な他人と考えて、真面目なディスカッションもしななっかのでしょう。

国立大学の教官も理研の研究員も国家公務員なので、役人文化の弊害を背負っているのです。それを見せてくれたのが昨日の記者会見でした。

暗い気分になった方々は下の風景写真を見て気分を良くしましょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人

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===以下は、http://blogos.com/article/84528/にある記者会見記の冒頭部分です。===

STAP細胞論文に対する疑義の問題で、16日午後、理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの笹井芳樹副センター長が記者会見を行った。

理化学研究所調査委員会による1日の調査報告は、主に小保方氏に不正があったことを認定したほか、笹井氏についても「論文を執筆する段階で小保方氏を実質的に指導する立場にあり、正確性を自ら確認することが求められていた責任は重大」と指摘していた。笹井氏は丹羽仁史・理研プロジェクトリーダー、若山照彦・山梨大教授とともにすでに論文の撤回に同意している。

笹井氏は会見冒頭「大変多くの混乱と齟齬により、多くのご心配また疑惑を招く事態となりましたことを心からお詫び申し上げます」「このSTAP研究に期待を寄せてくださるたくさんの皆様方の信頼を損ねることになってしまったことを心からお詫び申し上げます」と陳謝した。また、理研による調査への協力の関係上、これまで寄せられた疑問に対してこれまで具体的な説明を行なわなかったことについてもお詫びの言葉を述べた。

続けて、"寄せられた疑問"を5点に整理し、順に回答。記者からの「STAP細胞を信じるか?」との質問について、「科学は宗教ではない。信じる信じない、ということではない」と科学者としての立場からの説明を繰り返した。また、「功名心は無かったか?」という質問には、「あくまでも若手の研究が世界に出て行くお手伝いをしたいという意識だった」と説明した。

さらに、STAP現象については、検証を行うと一旦決めた以上、STAP現象はあくまでも"検証すべき「仮説」"とする必要があり、また、「ES細胞の混入の可能性」といった仮説では説明できない部分があり、観察データに基づく限り、"検証する価値のある合理性の高い仮説"であると考えている、とした。

1.自身の研究における役割

共同通信社

一般に研究論文のプロジェクトには、着想や企画、実験の実施、実施された実験データの解析と図表の作成、それらをまとめて文章を書き上げる、という4つの段階があるという。 

小保方氏をユニットリーダーとして迎える際、竹市雅俊センター長より「論文の仕上げ面を助け、協力するように」と言われ、笹井氏自身もSTAP現象は国際誌に早く発表するだけの科学的価値の高いものだと認識、協力を承諾したという。結果、笹井氏は論文投稿までの2年間のうち、最終段階である「論文の書き上げ」(最後の2ヶ月強)からプロジェクトに参加。一度ネイチャー誌に却下された経緯がある論文をベースに、文章の改良、そのための図表の組み合わせの再構成を担当したという。 

この間、若山氏が山梨大への転出のため引っ越しで忙殺されたこともあり、若山氏の分の執筆にも協力、STAP現象の試験管内実験技術の指導も行ったという。自身はあくまでもアドバイサーとしての認識で、当時は論文の「著者」には加わっていなかったが、バカンティ教授より「著者」に加わって欲しいとの依頼があり、さらに若山氏からも「責任著者」に加わってほしいという要請を受け、最終的に"共著者"となったと説明した。 ・・・以下省略・・・・


高齢者の体の痛みを取り去る針、灸、按摩(マサージ)の体験記

2014年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム

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愚かな私は2月16日の大雪の時、わざわざ甲斐駒山麓の山小屋の雪景色を見に登って行ったのです。往復3Kmの雪道でころんで足を捻挫しました。足の裏の奥にある靭帯を痛めてしまい痛くて歩けません。

そこで上の写真にある近所の三勝はり灸接骨院に今日まで丸2ケ月通院しました。月火木金土と毎週5回の治療に通いました。

ついでに長年のひどい腰痛の治療をして貰い、今日に至って足の痛みも完治し、激しい腰痛も消えてしまいました。

実を言うと私は針灸按摩という東洋医学はまったく信用していなかったのです。

しかし捻挫した足があまりにも痛かったので近くの三勝はり灸接骨院へ行ったのです。

治療方法は患部の足の甲と腰痛の腰に電気を間歇的に流す電気治療を毎回10分します。

それからうつ伏せになり首から背中、腰、大腿部、脛、足の甲と全身を揉みます。指圧で押します。なにか独特の揉み方をします。それが約15分くらいでお終いです。あまり長くすると逆効果になるようです。

それが終わると足の甲と腰にお灸をすえてくれます。体調によってお灸ではなく針を打ってくれます。熱かったり針が痛くて足が独りでに動くこともあります。毎回一回くらいは、熱う!とか痛い!と小声で言います。しかしそれはほんの少しの辛抱です。

それが終わると院長先生が患部をなでて治療の効果を確かめて、治り具合に合わせたテーピングをしてくれます。これでお終いです。治療は下の写真に示した院長先生の奥様、相馬さん、一条さん、志和さんの4人が交代で担当してくれます。

捻挫した足の靭帯はほぼ完治しました。

れも良かったのですが数年続いていたビリビリするような腰痛が消えてしまったのです。

私個人はうつ伏せになったマッサージが腰痛に一番効果があったと思っています。

荒畑院長によると針灸按摩はたまに相性が悪くて全然効果の無い人もいるそうです。

そんな場合は治療する針灸按摩整骨院を変えて10回くらい通ってみると相性の良い場所が見つかる場合もあるそうです。

三勝はり灸接骨院ではベットが6列くらい並んでいて同時に5、6人の患者を治療しています。

両隣の患者と治療師の会話を聞いていると例外なく針灸按摩が効いたというお礼の声が聞こえるのです。ですからこの三勝はり灸接骨院の治療は怪我の後遺症や高齢者の体の痛みの解消には間違いなく効果があるようです。

特に体のどこかが痛い高齢者は一度試してみる価値があります。

駐車場も完備していますので遠方の方にもお薦めです。いつも待たされないのですが、遠方の方は電話で予約しておいた方が良いと思います。

この治療院の様子は下の2つの記事として3月3日と3月23日に掲載してありますので、是非、ご参照ください。

 小さな幸せが大きな幸福へ(4)近所の接骨院でしみじみと感じる小さな幸せ

鍼灸治療の効果を上げる方法(1)三勝はり灸接骨院での治療体験から

下にお世話になった方々のお写真を掲載します。

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奥の中央が荒畑勝一院長先生、そして前列左が院長の奥様、その隣が志和さん、一条さん、相馬さん、そして右端は受付のお嬢さんです。(写真の出典は三勝はり灸接骨院のHP、http://www.3show-hari9.com/ です。)Img_5402 上は院長先生で下は左から順に志和さん、一条さん、お灸をしている最中の一条さんです。最下段の写真の左が相馬さんで右は受付のお譲さんです。

Img_5403 Img_5449 Img_5446

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そして下の写真は2月16日に転んで捻挫した雪道の様子です。 先を歩くのは異常に元気な家内です。捻挫の痛さを忘れないようにと、自分の忘備録として掲載しておくものです。Img_4847