後藤和弘のブログ

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ヨーロッパ文化は理解しにくい、特にハプスブルグ家のこと

2016年11月07日 | 日記・エッセイ・コラム
ヨーロッパ文化については多くの人が興味を持っています。その上、現在の地球上の多くの民族がその文化の影響を深く受けています。
日本民族も例外ではありません。
特に明治維新以後、ヨーロッパ文化が怒涛のように日本へ流れ込んできました。しかし日本に流れ込んできた文化は科学や技術に偏った分野であり、宗教や哲学に関する考え方などの精神文化は日本人にとって理解が容易ではありません。
それは当然です。彼の地はキリスト教的な文化土壌の上に育った文化ですが、日本の文化は仏教的な文化土壌に発展した文化なのです。
理解しにくいのは当然ではないでしょうか?
特に理解しにくい一つの例がハプスブルグ家のことです。
そこで今日はハプスブルグ家のことを簡略にご紹介したいと思います。
最近、ヨーロッパでは通貨の統合やEUによる統合がなされています。これは中世以来のハプスブルグ家によるヨーロッパの統合の影響とも考えられます。
ハプスブルグ家は武力よりも婚姻関係を利用してヨーロッパ全土に領土を広げ、幾つもの王国を作り、その王達の生殺与奪の権力すら手中に収めた一家だったのです。
日本にも昔から政略結婚がありました。しかし戦国時代には自分の領土を拡大するためには武力に頼ってのです。日本では武力が主であり、政略結婚は従でした。
ところがハプスブルグ家は婚姻関係を利用してヨーロッパ全土に領土を広げたのです。日本人には理解しにくいことです。
そうしてハプスブルグ家は中世から近代にかけてヨーロッパ全土に支配権を及ぼして来たのです。
ヨーロッパの歴史で、ウイーンのハプスブルグ家に対抗したのは美術におけるフィレンツェのメディチ家だけです。
メディチ家はルネッサンスの芸術家を援助したので日本では善玉になっています。
しかしハプスブルグ家も中世以来、ルネッサンス期も通して芸術家を支援し音楽や絵画を育てていたのです。
この2つの家だけが王様の権力以上の権力を握っていたのです。
ハプスブルグ家の当主はその広大な領地内の幾つかの王国の王様たちより権力があったのです。その王位継承権をハプスブルグ家が握っていたのです。
これは日本人にとって理解しにくい事情です。ですから日本ではハプスブルグ家のことはあまり知られていません。

1番目の写真は1547年時点でのハプスブルグ家の広大な領土を示す地図です。

出典は、http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83… です。

ハプスブルグ家はオーストリアを中心にした領土とスペインを中心にした領土に別れていました。
そして中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の指名権、継承権を握っていたのですから驚きです。
現在も、ハプスブルグ家の子孫は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性すらあるのです。
そしてこの一家の本拠地はウイーンのシェーンブルン宮殿にありました。
2番目の写真はこのシェーンブルン宮殿の写真です。

このシェーンブルン宮殿の写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83… です。

その上、多くの王国(公国や帝国を含む)の連合として、1526年から1804年まで「ハプスブルグ君主国」が存在したのです。
これが現在のヨーロッパ連合(EU)の思想的基盤になっているとも考えられます。
ヨーロッパは国々に分かれ対立している反面、「ヨーロッパは一つだ!」という考え方が根強いのです。この場合のヨーロッパとはイギリスやアイルランドを抜きにしたポーランドまでのヨーロッパ大陸のことなのです。
このハプスブルグ家の歴史は複雑ですが、末尾の参考資料にその一端が示してあります。

さて、「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によってでも所領を増やしていったのです。
その一例は、ウイーンに君臨していたマリア・テレジアが数多くの娘たちを各国の王子と結婚させました。
フランスのルイ16世の王妃となったマリー・アントワネットはフランス革命で断頭台の露と消えました。
その結果、ヨーロッパの数多くの王族が親戚関係になり、ある意味でのヨーロッパ統合が自然に生まれたのです。

このように書き進めて来ても私には婚姻によって領土を拡大し各国を支配するということが理解しにくいのです。その上政略結婚は悪いことのように思えるのです。キリスト教には結婚は神が人間へ与えた奇跡だという考え方があります。それに反して人間の此の世的な欲得で結婚を決めるのは恥ずかしいことです。もしヨーロッパ文化に輝きと闇があるとしたら、ハプスブルグ家の歴史は闇のように考えられます。
ものような複雑な闇の部分も含めてヨーロッパ文化が成り立っているのです。
私個人は外国の文化は容易に理解出来ないと考えるのが正しい姿勢だと思っています。

現在、日本ハプスブルグ協会が「文化芸術サロン」というブログ;(http://blogs.yahoo.co.jp/operafestival/8729389.html)を発表しています。そしてヨーロッパの芸術を日本へ紹介する活動をしています。ハプスブルグ家が現在も日本へもつながっていると思えば不思議な気がします。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===========参考資料=================
ハプスブルク家(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)(ドイツ語: Haus Habsburg)は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった。また、後半は形骸化していたとはいえ、ほぼドイツ全域を統べる神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)の皇帝位を中世以来保持し、その解体後もオーストリアがドイツ連邦議長を独占したため、ビスマルクによる統一ドイツ帝国から排除されるまで、形式的には全ドイツ人の君主であった。ヨーロッパ随一の名門王家と言われている。
ハプスブルク君主国(http://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83…)(ハプスブルクくんしゅこく、ドイツ語: Habsburgermonarchie, 英語: Habsburg Monarchy)は、オーストリア系ハプスブルク家(のちハプスブルク=ロートリンゲン家)が君主として統治した国家の歴史学上の呼称である。
正確には「帝国」ではない時代もあるがハプスブルク帝国(ドイツ語: Habsburgisches Reich,英語: Habsburg Empire)とも呼ばれる。成立年はハプスブルク家がオーストリア大公領に加えてハンガリー王国、ボヘミア王国を獲得した1526年とされる。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、同時代の人々ですらこれを事実上の国家として認識し、オーストリア(ハプスブルク家をオーストリア家ということから)と呼称していた。1804年から1867年はオーストリア帝国(「オーストリア家の帝国」という意味)、1867年から1918年はオーストリア=ハンガリー帝国(「帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦」)を総称とした。
ハプスブルク君主国の領域は、大きく分けて以下の3つから形成されていた。
ハプスブルク家世襲領ハプスブルク家の所領とされたのは、現在のオーストリア、スロベニア、イタリア北部、ラインラント(1797年まで)である。ナポレオン戦争の過程でこれらの領土の多くが一旦は失われたが、ウィーン会議(1814年)によって多くを回復し、さらにザルツブルク大司教領を加えた。ベーメン王冠領ベーメン王国領はベーメン(ボヘミア)、メーレン(モラヴィア)、シュレージエン(シレジア)、ラウジッツからなっていた。ラウジッツは1620年にザクセン公国へ割譲され、シュレージエンはオーストリア継承戦争(1740年 - 1748年)の結果プロイセン王国に奪われた。ハンガリー王冠領ハンガリー王国はモハーチの戦いの後、北西部の3分の1がハプスブルク家、東南部と中部の3分の2がオスマン帝国の支配下に入った(オスマン帝国領ハンガリー)。オスマン帝国の衰退とともに、1699年のカルロヴィッツ条約で旧ハンガリー王国の領域の大部分がハプスブルク家へ割譲された。ハンガリー王国領とされた地域は、現在のハンガリー、スロバキア、クロアチア、ヴォイヴォディナ、トランシルヴァニア、ルテニアのカルパチア地方が含まれていた。オスマン帝国と接する最前線は、軍事上の必要性からウィーン政府による直轄支配とされた。
これら以外に歴史上、以下の地域がハプスブルク君主国の領域となった。
南ネーデルラント (現在のベルギーとルクセンブルク、1713年 - 1792年)
ミラノ公国(ロンバルディア、1713年 - 1797年)
ナポリ王国(1713年 - 1735年)
サルデーニャ王国 (1713年 - 1720年)
トスカーナ大公国 (1737年- 1860年)バナト・テメスヴァル (1718年 - 1778年)
セルビア (1718年 - 1739年)
ボスニア (1718年 - 1739年)
オルテニア (1718年 - 1737年)
シチリア王国 (1720年 - 1735年)
パルマ公国(1735年 - 1748年)
ガリツィア・ロドメリア王国 (現在のポーランドとウクライナの一部、1772年 - 1918年)
ブコビナ (1774年 - 1918年)
ヴェネツィア(1797年 - 1805年, 1814年 - 1866年)
ダルマチア(1797年- 1805年, 1814年 - 1918年)
ロンバルディア (1814年 - 1858年)
ホルシュタイン (1865年 - 1866年)
ボスニア・ヘルツェゴビナ (1908年 - 1918年)
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