後藤和弘のブログ

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人はみな宮沢賢治の『風の又三郎』になって此の世を去って行く

2017年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム
 宮沢賢治の作品は美しい散文詩のようです。そして人間の喜びや悲しみが賢治の心象風景とともに謳いこんであります。読むたびに心がわくわくします。
でも分かりにくいのです。他人には理解出来ない自分だけの心象風景が出てくる上に、書き言葉では表現出来ない花巻地方の東北弁が無理に書いてあります。読みにくいのです。
そこで私は自分なりに作品の構成を整理し、編集して読むようにしています。
今日は風野又三郎という童話をご紹介します。そして終りの部分で、「人はみな風野又三郎になってあの世へ飛んで行く」という私の幻想を書きます。
青空文庫には「風の又三郎」と「風野又三郎」の2つが掲載されています。
少し内容が違いますが今日は「風野又三郎」の方をご紹介します。

この童話は次のように3つの部分からなっています。
(1)夏休みの終った最初の登校日の九月一日に小学生達が学校にやって来る場面です。

 どっどどどどうど どどうど どどう、
 ああまいざくろも吹きとばせ
 すっぱいざくろもふきとばせ
 どっどどどどうど どどうど どどう

 谷川の岸に小さな四角な学校がありました。
 学校といっても入口とあとはガラス窓の三つついた教室がひとつあるきりでほかには溜まりも教員室もなく運動場はテニスコートのくらいでした。
 先生はたった一人で、五つの級を教えるのでした。それはみんなでちょうど二十人になるのです。三年生はひとりもありません。
 さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り、日光は運動場いっぱいでした。黒い雪袴をはいた二人の一年生の子がどてをまわって運動場にはいって来て、まだほかに誰も来ていないのを見て
「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかわるがわる叫さけびながら大悦びで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合せてぶるぶるふるえました。というわけはそのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか、まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり一番前の机にちゃんと座っていたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。

この不思議な赤い髪の子供が風の化身の又三郎だったのです。

(2)子供達はこの風の又三郎から一週間、不思議な話を聞いたり、一緒に仲良く遊んだのです。
この部分が「風野又三郎」と「風の又三郎」が違う部分です。遊びの内容が違うのです。前者は理屈っぽい話が多く、後者は楽し気な田舎の子供達の遊びが紹介してあります。
ですから一般的には「風の又三郎」の方が広く読まれています。
しかし「風野又三郎」の方がより幻想的なのです。

(3)そうして仲良く一週間遊んだ後の九月十日に風の又三郎との別れの場面です。
人間の子供に化身していた又三郎が再び風になって北の方へ飛んで行くのです。
「さよなら、一郎さん、」と云ったかと思うとその声はもう向うのひのきのかきねの方へ行っていました。
この悲しい場面を「青空文庫」から転載します。

「ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ、
 ああまいざくろも吹ふき飛ばせ、
 すっぱいざくろも吹き飛ばせ、
 ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ
 ドッドド、ドドウド、ドドウド、ドドウ。」
 先頃又三郎から聴きいたばかりのその歌を一郎は夢の中で又聞いたのです。
 びっくりして跳ね起きて見ましたら外ではほんとうにひどく風が吹いてうしろの林はまるで咆えるよう、あけがた近くの青ぐろいうすあかりが障子や棚たなの上の提灯箱ちょうちんばこや家中いっぱいでした。
 一郎はすばやく帯をしてそれから下駄をはいて土間に下り馬屋の前を通って潜りをあけましたら風がつめたい雨のつぶと一緒いっしょにどうっと入って来ました。馬屋のうしろの方で何かの戸がばたっと倒れ馬はぶるるっと鼻を鳴らしました。
 一郎は風が胸の底まで滲しみ込んだように思ってはあと強く息を吐きました。そして外へかけ出しました。
 外はもうよほど明るく土はぬれて居りました。家の前の栗の木の列は変に青く白く見えてそれがまるで風と雨とで今洗濯をするとでも云うように烈しくもまれていました。青い葉も二三枚飛び吹きちぎられた栗のいがは黒い地面にたくさん落ちて居りました。
 空では雲がけわしい銀いろに光りどんどんどんどん北の方へ吹きとばされていました。

 遠くの方の林はまるで海が荒れているようにごとんごとんと鳴ったりざあと聞えたりするのでした。一郎は顔や手につめたい雨の粒を投げつけられ風にきものも取って行かれそうになりながらだまってその音を聴きすましじっと空を見あげました。もう又三郎が行ってしまったのだろうかそれとも先頃約束したように誰かの目をさますうち少し待って居て呉れたのかと考えて一郎は大へんさびしく胸がさらさら波をたてるように思いました。けれども又じっとその鳴って吠えてうなってかけて行く風をみていますと今度は胸がどかどかなってくるのでした。昨日まで丘や野原の空の底に澄みきってしんとしていた風どもが今朝夜あけ方俄かに一斉に斯う動き出してどんどんどんどんオホーツク海の北のはじをめがけて行くことを考えますともう一郎は顔がほてり息もはあ、はあ、なって自分までが一緒に空を翔かけて行くように胸を一杯にはり手をひろげて叫さけびました。

「ドッドドドドウドドドウドドドウ、あまいざくろも吹きとばせ、すっぱいざくろも吹きとばせ、ドッドドドドウドドドウドドドウ、ドッドドドドウドドドードドドウ。」
 その声はまるできれぎれに風にひきさかれて持って行かれましたがそれと一緒にうしろの遠くの風の中から、斯ういう声がきれぎれに聞えたのです。
「ドッドドドドウドドドウドドドウ、
 楢の木の葉も引っちぎれ
 とちもくるみもふきおとせ
 ドッドドドドウドドドウドドドウ。」
 一郎は声の来た栗の木の方を見ました。俄かに頭の上で
「さよなら、一郎さん、」と云ったかと思うとその声はもう向うのひのきのかきねの方へ行っていました。一郎は高く叫びました。
「又三郎さん。さよなら。」
 かきねのずうっと向うで又三郎のガラスマントがぎらっと光りそれからあの赤い頬とみだれた赤毛とがちらっと見えたと思うと、もうすうっと見えなくなってただ雲がどんどん飛ぶばかり一郎はせなか一杯風を受けながら手をそっちへのばして立っていたのです。
「ああひで風だ。今度はすっかりやらへる。一郎。ぬれる、入れ。」いつか一郎のおじいさんが潜りの処でそらを見上げて立っていました。一郎は早く仕度をして学校へ行ってみんなに又三郎のさようならを伝えたいと思って少しもどかしく思いながらいそいで家の中へ入りました。(終り)

この童話を読むといろいろな連想が湧いて来ます。
子供を産んでやっと小学生まで育ったと思ったら死んでしまうという辛い経験をした親がいます。その子は風の子だったのです。もとの風になって大風の日にはるか北の海のかなたへ飛んで行ってしまったのです。
そして私は、人はみな風の又三郎になってあの世へ飛んで行くという幻想を持つのです。邯鄲の夢の此の世を去るのです。
それは「風野又三郎」の深読み過ぎでしょう。でもこの幻想を私は大切にしています。

今日の挿し絵代わりの写真は先週、船の上から撮った横浜港の夕暮れの風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









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