後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「パリの寸描、その哀歓(9)優しくて怖い送り狼に遭遇」

2016年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。

連載の第9回目は、「お誕生会の後の送り狼(?)」です。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

===「パリの寸描、その哀歓(9)お誕生会の後の送り狼(?)」Esu Kei著======
 ある時長男の幼稚園の友だちのロラン君のお誕生会にお呼ばれをした。幼稚園の年だから、親もご招待。夕方からではあったが、我が家ではお父さんは会社からの帰りが遅く、次男も連れて3人で行くことになった。行ってみると、子どもはお誕生日を迎えた主役の子の兄弟も含めて総勢9人、大人は11人。大変な人数だ。プレゼントを開けて何回も歓声を上げて、拍手が起こって...それからは食べる、そしてだべる。家が狭いなんてことは言わない。テーブルや椅子をありったけ工夫して、テーブルクロスは白いシーツをかぶせる。とにかく皆の席が用意されている。早めのディナーに、もちろんバースデーケーキをメインに盛大なデザート。大人には当然お酒も出る。もちろん大抵の人は車で来ているから節度は守る。4時間余りのパーティーで、初めにまずシャンパン、お料理には赤ワインをグラスに一、二杯くらい。お料理を味わうのに水を飲むのは、全く飲めない私くらいなもので、大人なら少量のワインは水扱いだ。子どもたちは食べるだけ食べると、子ども部屋で遊んでいて、大人たちはお喋り。子どもたちが多少夜更かしをしても次の日に差し支えないように、こういうパーティーは土曜日にする。9時頃になると、子ども達は眠そうになってくる。ボチボチお開きの時間だ。車の割り振りを決める。車がないのは私達ともう一組。うちは三人なので、人数の都合上、女の子と二人で来ていた、やもめらしいお父さんが送ってくれることになった。初めて会った顔だ。席も離れていたので、この日も挨拶以外言葉を交わすこともなく、車中で初めておしゃべりをする。「今日はあなたの隣に座れなくて残念だったな」と早速...私は道順の説明をしているのに。家に着くまでほんの10分くらいの間に、私を笑わせようと冗談ばかり言っている。「ご主人は土曜日もお仕事?」「こんな奥さんをほったらかして心配じゃないのかな?」…「お酒のみすぎませんでした?」と聞くと「そんなことありませんよ。大事な奥様送るんですから。」そうこうするうちに、アパルトマンの前に。「さあ、もう着きましたよ。鍵開けてあげましょうか?」「大丈夫、自分で開けられます。」「明かりつけないと暗いでしょ、手伝いましょうか?」「ボタンは分かっているわ。」「寒いんじゃない?暖房いれて、あったかいコーヒーを入れてあげましょうか?」「「ありがとう(Merci non)、でも夫がもう帰ってきているはずだから、夫に頼めるわ。」夫を持ち出すとようやくおやすみなさいを言って帰って行った。もちろんお互い子ども連れで、すべて冗談なのだが、スマートな不良的話術に感心する。どうしても送り狼を演じて、人を笑わせたくてたまらないらしい愉快なやもめさんでした。
フランスでも勿論硬派の人と、軟派の人がいる。彼のようなタイプの人は、女の人には関心があるように振る舞わないと失礼だと思っているに違いない。それとも私の返事によっては、イタリア映画のような展開をしたのかなぁ...とソフィア・ローレンなんぞを思い出す。まさか...(続く)

今日の挿し絵はセザンヌの「サント=ヴィクトワール山と大きな松の木」などの油彩画の写真です。リンゴの絵が良いですね。
記事の内容とはまったく関係がありません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









ポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839年 - 1906年)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%8C
南フランスに、銀行家の父の下に生まれた。中等学校で下級生だったエミール・ゾラと親友となった。当初は、父の希望に従い、法学部に通っていたが、先にパリに出ていたゾラの勧めもあり、1861年、絵を志してパリに出た。パリで、後の印象派を形作るピサロやモネ、ルノワールらと親交を持ったが、この時期の作品はロマン主義的な暗い色調のものが多い。サロンに応募したが、落選を続けた。1869年、後に妻となるオルタンス・フィケと交際を始めた。
ピサロと戸外での制作をともにすることで、明るい印象主義の技法を身につけ、第1回と第3回の印象派展に出展したが、厳しい批評が多かった。
1879年頃から、制作場所を故郷のエクスに移した。印象派を離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画を追求するようになった。
友人の伝手を頼りに1882年に1回サロンに入選したほかは、公に認められることはなかったが、若い画家や批評家の間では、徐々に評価が高まっていった。
1895年に画商アンブロワーズ・ヴォラールがパリで開いたセザンヌの個展が成功し、パリでも知られるようになった。
晩年までエクスで制作を続け、若い画家たちが次々と彼のもとを訪れた。その1人、エミール・ベルナールに述べた「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、後のキュビスムにも影響を与えた言葉として知られる。
1906年、制作中に発病した肺炎で死亡した。
セザンヌはサロンでの落選を繰り返し、その作品がようやく評価されるようになるのは晩年のことであった。本人の死後、その名声と影響力はますます高まり、没後の1907年、サロン・ドートンヌで開催されたセザンヌの回顧展は後の世代に多大な影響を及ぼした。この展覧会を訪れた画家としては、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、フェルナン・レジェ、アンリ・マティスらが挙げられる。

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