後藤和弘のブログ

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高原に木曽馬が数百頭も放牧されていた時代

2017年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の高原には「牧」とい字を組み込んだ地名があちこちにあります。例えば甲州街道の韮崎を西に行くと北杜市に入り『牧原交差点』という標識がついた大きな交差点があります。土地の人に聞くと、そこに昔、牧原があったそうです。
しかし馬など一頭も見当たりません。現在は見事な水田が広がるだけで、馬が放牧されていたとは想像も出来ません。
馬を放牧していた牧場があって、馬を大和朝廷に献上していたという伝説があるだけです。私はそのような伝説は信じないことにしています。大和朝廷とのつながりを誇示するために後の世の人々が文献を作った可能性があると思っていました。
しかし先週、開田高原に行って、江戸時代から明治、大正と数百頭の木曽馬を放牧し、毎年、馬市に出していた山下家の住居を訪問し、その管理人の加村金正さんの話を聞いて全国の『牧原伝承』を信じるようになったのです。
木曽馬の最古の記録は安閑天皇の530年代に木曽の霧ケ原に牧場が作られてと書いてあるそうです。そして律令制が出来、現在の中山道を東山道として整備された頃に本格的な木曽馬の飼育が始まったようです。
江戸時代になると信頼できる文献も多くなります。それによると山下家の先祖が飛騨の国の主の金森頼直の馬奉行に仕えていたのです。そして金森頼直の馬奉行の信頼を得、元禄5年に飛騨の国の主の家にあった馬医書を貰い受けます。この馬医書は現在も保存されているそうです。
ここで重要なのは山下家が江戸幕府から馬飼育に関する正式の認可を受けたことです。この権威で山下家は数百頭、一説には300頭の木曽馬を毎年馬市へ出していたのです。
それでは300頭もの馬をどのように飼育していたのでしょうか?
管理人の加村金正さんの話では、山下家は毎年、何頭かの子馬を数十人の小作農家へ貸し与え、一年間の飼育を委託していたのです。
小作農家では家の中に馬房を作り、昼間は放牧場で草を食べさせて飼育したそうです。農作業に馬を使うのは自由でした。
そして馬市へ出して売るのです。小作人は売上金のうち脚一本分(25%)を貰い、山下家が脚三本分(75%)も取ったのです。
現金収入の少ない小作人にとっては25%でも有難い収入だったのです。
開田高原の冬は零下20度にもなるそうです。馬房の前に竃(かまど)を作り、毎日、氷を解かして馬に水を飲ませていたそうです。
それにしても小作人が25%しか取れない搾取ぶりには驚きを禁じ得ません。

それはさておき木曽の開田高原には3つの大きな馬持豪家があったそうです。もし各豪家がそれぞれ300頭の木曽馬を持っていたら開田高原には900頭の木曽馬が放牧されていたのです。そのような風景をご想像してみて下さい。

全国の牧原の風景も似たようなものだったのでしょう。馬の需要の多さに驚きます。
馬が、現在の車のように日本全国に溢れていたのでしょう。
その馬の飼育には小作人の搾取があったのです。搾取が良いのか悪いのかは分かりません。ただそんな時代があったことを忘れないようにしたいと思います。

写真は長野県宝・重要文化財になっている山下家の様子です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)












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