後藤和弘のブログ

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日本の天皇制を考える(2)陸軍士官学校卒のある高齢者の想い

2017年07月09日 | 日記・エッセイ・コラム
昔、戦前に日本にあった陸軍士官学校の卒業生は天皇制と平成天皇の生前退位をどのように考えているのでしょうか?
大変興味のある問題ではありませんか?
そこで私が尊敬している立石 恒さんへご寄稿をお願いしました。以下がその解答です。
===天皇制に関する陸軍士官学校卒業生の想い==============
6月16日に天皇の生前退位に関する特例法が公布されました。これから1、2年のうちに平成の時代が終わるのです。
現在の天皇は神話時代を通して第125代目で、万世一系と言われています。
そうして最近、女性宮家の問題が提起されています。それは皇位継承者の絶滅が心配されているからです。
先の敗戦の直後、イギリス、オーストラリア、ソ連などは天皇制の廃止を強く主張したのです。
しかしマッカーサーは天皇制の存続と宮家の数を減らし三宮家にすることを実行したのです。

明治維新以後全ての日本人は名前に姓を持つことになりました。明治政府が個人を識別し税金を課するためにそうしたのです。
それまでは武士階級を除いて多くの庶民は姓を持たなかったのです。江戸時代までは税金を納めるのは農民だけだったのです。
農民は領主から土地を借り、地代として年貢米を納めていたのです。それは米本位の経済体制だったのです。
さてそれはさておき現在でも姓を持たない日本人が2人居るのです。その2人とは天皇と皇后です。この理由は宗家の当主には姓は要らないという考えなのです。
イギリスのエリザベス女王はウンザーという姓を持っています。そして終身在位します。

日本人は天皇を尊敬し、マスコミは敬語を使います。
そして憲法の第一条に、天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって・・・と明記してあります。
戦前の天皇は軍国主義によって利用されました。
平和の象徴としての天皇を私は否定しません。
陸軍士官学校の当時から、私は天皇が日本に必要な一つの機関だという「天皇機関説」に近い考えを持っていました。
あれ以来70年以上経ちますが現在でも天皇機関説に近い考えを持っています。
ですから天皇の生前退位も否定はしません。
天皇制がますます日本の発展に寄与することを願うものです。(終り)
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「天皇機関説」とは内閣の承認を条件にして天皇が国の政治を主宰するという考えです。天皇制はそのような役目を持つ国家の一機関なのです。現在の天皇制に近い考え方です。この考え方を主張した美濃部達吉は弾圧され貴族議員を辞めました。1935年のことでした。軍部は内閣の承認は必要は無いと主張したのです。軍隊の統帥権は天皇にあり、内閣が干渉してはいけないと言うのです。
明治憲法では天皇の国政、特に軍事行動の発布には内閣の承認は不要だったのです。それで軍部独走が起きたのです。
「天皇機関説」にはいろいろな解釈があって現在でも議論が混乱する立憲君主制に関する一つの学説です。

この立石 恒さんは昨年の10月26日に以下の記事をご寄稿しました。
参考までに再掲載します。
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『昭和時代の陸軍士官学校を卒業した方の生涯』、2016年10月26日 
まえがき、
大正生まれの方と親しくなりました。1年以上も前から通っているリハリビ施設で知り合ったのです。
いろいろ来し方のお話をお聞きしましたら、終戦前に陸軍士官学校を卒業された90歳くらいの方です。
私より10年位年上ですが、頭脳明晰で、運動能力が抜群なのです。
そこで好奇心の強い私はいろいろな質問をして文書でお答えして頂きませんかとお願いいたしました。
ブログなどへ掲載しますということでお書き頂いたのが以下の文章です。
昭和という時代を生き抜いた日本人の記録として若い皆様にお読み頂きたいと思い、ここに掲載いたします。
それは激動の昭和時代を生きたある日本人の赤裸々な記録です。
日本の平和を祈りながらお送りいたします。
===陸軍士官学校を卒業された立石 恒さんの生涯=====
1)何故、陸軍士官学校に入学したか?
私の父は私が小学校6年生、12歳の時亡くなりました。その後やっと旧制の中学校を終えましたが、それ以上の学費が続ぁず、官費の学校を選びました。
どうせ戦争で死ぬ身なら格好良く死にたいという刹那的な気持ちもありました。
時流に乗ったのかも知れません。自分では意識しませんでしたが、或いはオポチュニストだったのかも知りません。
2)陸軍士官学校でどんな教育を受けたか?
それはとてもストイックな教育を受けました。そしてサバイバル(Survival)の技術を体得させて貰いました。
戦術の他に物理や化学など普通もあり或る程度の教養を得ました。
課目に国際法、特に戦時国際法や」ハーグ協定などに関するものが無かったのが残念です。
3)終戦時の心境
内心、ほっとしました。生き延びたと思いました。本音でした。
しかし同期生の中の数人は腹を切って自殺しました。
私は楽観主義者なのか将来のことは余り考えませんでした。
その後、もう一度戦うのだというので、銃剣を研ぎ、小銃の実弾が支給され、実戦の準備をしましたが、結局沙汰止みになりました。
4)終戦後の大学入学と就職
終戦後、一時農業に従事しましたが、向学心黙しがたく、翌年大学を受験し無事入学出来ました。
当時、軍の学校を出た者入学者の1割以内という制限がありました。
昭和24年に大学を卒業し就職試験を受けました。就職試験は3社以内という規則があり、先に合格した会社に行くという決まりがありました。
私は、メーカー、商社、金融機関の1社ずつを受けて、一番先に決まった銀行に入りました。その銀行は国内よりも海外に店舗を持つ国策銀行でした。
父が外務省の官吏で海外勤務をしていたことも選択の一つでした。働きました。戦後の経済復興期で、深夜帰宅が1年以上続きました。
しかし肺結核になり、1年半以上の休職療養をしました。それ以来、人生を達観し、出世主義を放棄しました。
5)海外勤務
ブラジルのサンパウロ支店で4年間勤務しました。ラテンの国でのんびり出来ると思いましたが、当時、日本企業のブラジル進出が相次ぎ忙しい毎日でした。
ブラジル経済の狂乱期で、インフレ率が年間100%に近く苦労しました。
革命も経験しました。郷に入っては郷に従え仕事のやり方、処世の法を学びました。
6)日本の将来と日米安保体制について
アメリカ大統領候補のトランプ氏の演説を聞いていると、しきりに日本の防衛から手を引けと言っています。従って有事の際、果たして日本を護ってくれるのか心配です。
近隣諸国と仲良く出来ないものでしょうか。遠くの親戚よりも近くの他人という諺があります。中途半端な防衛で強大な中国に勝てるでしょうか。蟷螂の斧で向かうような気がしてなりません。スイスに学ぶべきだと思います。(終り)
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あとがき、
以上の文章に付記したいことがあります。
まず陸軍士官学校は当時一番入学試験が難しい学校だったことです。ですから上の文章を書いて下さった方は非常に優秀な若者だったのです。
そして彼の楽観主義が幸いしました。何時までも軍国主義を引きずらないで直ぐに大学に入り、銀行に就職したのでず。そして1年半の闘病生活が人生観を変えたのです。
よく人は「激動の昭和時代」という言葉を用います。しかし激動の内容は人それぞれなのです。
上記の文章を読みしみじみと昭和という時代を思い返しています。

今日の挿絵代わりの写真は昨日と一昨日に撮った船の見える風景の写真です。一番初めの氷川丸の写真は横浜港で撮りましたが残りの写真は三重県の鳥羽湾の遊覧船から撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









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1 コメント

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Unknown (心のボタン)
2017-07-09 08:55:23
何時も読ませて頂いています、私もs12年生まれですが、住むところも環境も違いの生き様で無知なところは多々あり、72年を過ぎた今、このように後世に伝えてくださる方がいたことに感謝です。有難うございます。
時々ブログやめようかと思うことシバシバありますが、私の生きて来た中の歴史と全くと違う生き様を、又このように言葉として伝えて下さった事感謝です。

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