後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本が世界に誇れる大旅行家の話

2008年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新前の日本人の大旅行と言えば遣隋使、遣唐使、東南アジアで活躍した山田長政、そして天正の少年使節のローマへの旅くらいである。学校で習う歴史の教科書に出てくるので誰でも知っている。

ところが江戸時代初期にマカオ、ゴア、そして単身、紅海を北上し、中近東の砂漠を通ってイエルサレムへ参り、更に長馳、ローマまで往復した男がいた。帰国後は日本国内を司祭として回り、最後は岩手県の水沢で捕縛され、三代将軍、家光の膝元の江戸で殉教している。その男の名はペトロ岐部。ついこの前の11月24日に長崎の列福式でローマ法王によって福者として認めらた。知らなかった。(しかし遠藤周作の著作には詳しく紹介されていたそうである。)今回の列福式でやっとその名を知ったに過ぎない。

マカオを出たのが1617年、ローマに着いたのが1620年である。3年間の長旅である。特に中近東はイスラム教の地域である。従者も居ない一人旅である。それでも中近東の地を安全に歩くことが出来た。砂漠の異民族のの助けがなければ旅は続けられない筈である。そのことをあれこれ想像してみる。岐部には異民族へ好意を持たせる人格的な力が溢れていたに違いない。話しは飛ぶが、唐の都からインドへ往復の旅をした玄蔵法師のことを思い出す。途中の国々で手厚く迎えられたという。

岐部にも玄蔵法師と同じような圧倒的な人徳がそなわっていたのだろう。そしてこの人徳は宗教とは無関係に異教徒をも感動させるのだろう。

大旅行家や冒険家に必要なものは体力だけではない。

ローマに着いたのが1620年の6月、そして5ケ月後には司祭になってしまう。異例の早さである。これも岐部の人徳の威力によると筆者は考えている。その後2年して彼は帰国の旅にでる。帰路は海路をとったが、特にルバング島からは漁船で密かに日本へ帰ってきた。1630年と言われている。

以上が、日本が世界に誇れる大旅行家としての岐部の紹介である。以下は殉教したペトロ岐部司祭の宗教人としての紹介である。宗教に興味のない方には参考にならない部分。

1620年から1622年までローマの修道院で司祭として活動していたが、その間にイエズス会を創立したイグナチオ・ロヨラとザビエルの列聖式に参列する幸運に恵まれている。

ペトロ岐部司祭は大分県に1587年に生まれ、長崎の神学校を卒業し、1614年に徳川家康によって国外追放される。徳川の時代も三代将軍、家光になり、キリシタンの迫害や殉教が一層熾烈になってきた。その時にペトロ岐部司祭は隠れキリシタンの希望と慰めを与えるために日本へ潜入したのだ。

潜入後、9 年間も日本各地を司祭として巡回し、ついに水沢で捕まる。江戸で処刑されるが処刑したときの記録が残っている。「ころびもうさらずのでしょけいした」という意味の文言が見える。処刑した人も気の毒だったと思う。(終わり)

引用文献:http://blogs.dion.ne.jp/mrgoodnews/archives/1822791.html?reload=2008-12-29T20:20:03


1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
遠藤氏の小説は、「王国への道」(新潮文庫198... (Unknown)
2009-01-01 17:48:07
遠藤氏の小説は、「王国への道」(新潮文庫1984.1月)「銃と十字架」(遠藤周作全集 大10巻、新潮社)ですね。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。