後藤和弘のブログ

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フランス、日本、レオナード藤田嗣二画伯の波乱万丈の生涯(2)

2017年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の記事で私は天才的な画家のレオナール藤田のことを次のように書きました。
・・・彼は毀誉褒貶の多い波乱万丈の一生を過ごしました。その晩年にカトリックの洗礼を受け、ランス市のシャンパン製造会社のルネ・ラルー社長の支援で「平和の聖母礼拝堂」を建て、その壁画とステンドグラスの原画を心静かに描いたのです。昨日の展覧会では、これらの原画が多数展示してありました。
嗚呼、レオナール藤田嗣二も人生の終り頃は神を信仰し、平穏な老境だったのです。私は何故か深く安堵し、展覧会の会場を出ました。・・・
そして以下のような見出しで彼の生涯を簡略にご説明しました。
(1)藤田嗣二の出生、そして絵が不評でフランスに行くまで
(2)藤田の「乳白色の肌」の絵画が高く評価されパリ画壇の寵児となる
(3)日本への帰国し、陸軍美術協会理事長になり戦争画を描く


今日は何故、レオナーレ藤田が大日本帝国陸軍の要請で陸軍美術協会理事長になり数多くの戦争画を描いたのか、その原因を考えてみます。
そして敗戦後、日本人に排斥されフランスに逃れ、フランスに帰化し、カトリックの洗礼を受けたいきさつもご紹介いたします。
その前に一言書かせて下さい。
多くの日本人画家は印象派の真似をしますが、レオナーレ・フジタだけは真似をせず独創的な芸術を創ったのです。その作品は彼の思想や私生活とは関係なく、現在でも世界中で高く評価されています。
(4)陸軍軍医総監の父とフジタの軍国主義
彼の父は森 鷗外が就任していた陸軍軍医総監という役職についていました。それは陸軍中将相当の地位だったそうです。
兄の嗣雄の義父は、陸軍大将児玉源太郎です。また、義兄には陸軍軍医総監となった中村緑野がいました。
幼少のころから陸軍特有の偏狭な軍国主義の雰囲気の中で育ったのでしょう。藤田嗣二はもともと軍国主義者だったと仮定すると戦争画を描いた原因が理解できます。
その上、パリで絵描きと成功すればするほど藤田は内心では日本人としてのアイデンティティーを思い悩んでいたに相違ありません。
1932年に帰国し、陸軍から戦争画を描くことと陸軍美術協会理事長就任の要請を承諾したことは自然な成り行きです。
彼は間違いなく率先して戦争に協力したのです。
それでは彼の戦争画を見てみましょう。

1番目の写真はハルハ河のそばでロシア軍の戦車を勇敢な日本兵が攻撃している場面です。ノモハン事件の遺族の依頼で藤田が描きました。『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』という有名な絵です。

2番目の写真は「アッツ島玉砕」の絵画です。この絵は忠実な写実であり、藤田は戦争を鼓舞した訳ではないと藤田を弁護する人がいます。
しかし展覧会場のこの絵の前で、藤田は軍服姿で遺族のための募金箱をもって直立不動の姿勢で立っていたそうです。募金箱にお金を入れる人がいると藤田はそのつど最敬礼をしていたのです。

3番目の写真は「サイパン島同胞臣節を全うす」という絵でしす。同胞の日本人が天皇陛下に忠節を示し死んで行くのですというメッセージです。
この2枚の戦争画だけを見ると彼が戦争を鼓舞していたとは解釈出来ないかも知れません。
しかし落下傘部隊の舞い降りる絵や、日本の爆撃機が敵の艦隊を攻撃している絵などを見ると彼は戦争に協力していたのは客観的な事実でしょう。

(5)戦後、軍国主義者と非難されフランスに帰化し再び帰らず

敗戦後に戦争へ積極的に協力した藤田へ非難が集中します。
また、終戦後の一時にはGHQからも追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていた事もあったそうです。
このような批判に嫌気が差して彼は1949年に日本を去って再び帰らぬ人となったのです。
傷心の藤田がフランスに戻った時には、すでに多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており再会出来なかったのです。フランスのマスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様だったそうです。そのような中で再会を果たしたピカソとの交友は晩年まで続いたそうです。
1955年にフランス国籍を取得し、日本国籍を抹消しました。
1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られ、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなったのです。彼は正真正銘のフランス人になったのです。
1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいてガンのため死亡し、遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクルに葬られました。

私はこの一連のいきさつを見ると、何故か日本人は狭量過ぎるような気がします。戦争中の日本人画家なら戦争画を描くのはある意味、自然な成り行きです。
そのことを画家仲間と左翼系の知識人が非難し藤田を日本から追い出したのです。
戦争で父や夫や兄弟を亡くした遺族が藤田を非難するなら私は納得します。
画家仲間と左翼系の知識人が非難したのは藤田の才能に嫉妬していたためと書けば言い過ぎでしょうか?

それは兎も角、1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなったことは彼自身のためには良かったと思います。
ランス市にあるレオナル・フジタの作った「平和の聖母礼拝堂」は現在でも日本人を始め多くの人々が訪れているそうです。
藤田は建物の外装と内装も監修し、80歳の年齢で着手したチャペルの壁を飾るフレスコ画は今でも美しく輝いています。礼拝堂は1966年10月1日に、マリア様に献堂され、18日にランス市に引き渡され、1992年に歴史的な記念碑として指定されたそうです。

4番目の写真はその礼拝堂の外観です。

5番目の写真は礼拝堂の祭壇の上の壁画です。
以上で何故私が次のように書いたかが何となくお分かり頂けたと存じます。
・・・嗚呼、レオナール藤田嗣二も人生の終り頃は神を信仰し、平穏な老境だったのです。私は何故か深く安堵し、展覧会の会場を出ました。・・・・

これで終わりにしたいのですが、補足として彼のその他の絵画も続編でご紹介したいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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