後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ある日本人のしみじみとした生涯と病気とのお付き合い」

2017年06月26日 | 日記・エッセイ・コラム
横山美知彦さんは終戦前後に家内が疎開した群馬県の下仁田小学校の同級生でした。
数年前に下仁田で同級会があり家内を車で送って行きました。帰りがけに初老の紳士が礼儀正しく運転席の私に挨拶し自分の文集を恥ずかしいものですがと手渡しでくれたのです。
下仁田町はコンニャクと下仁田ネギと麦しか取れない、山々に囲まれた群馬県の小さな町です。
文集には戦前、戦後の少年時代の回想が水彩画のように静かなタッチで描いてあったのです。下仁田ネギやコンニャクにまつわる面白い話や、山里ながら立派な山車が出る村祭りの様子がほのぼのと書いてあります。
私は彼にメールを送りこの欄に掲載したいので原稿を使わせて下さいとお願いしました。そして山里の生活を描いた短い文章を10編ほどこの欄に数年前から掲載してきました。
戦前、戦後は日本の何処も貧しい生活でした。特に米のとれない地方では麦粉と芋が主食でした。お米のご飯は病気になり臨終の時だけ食べると言われていたほどです。
下仁田で育った横山美知彦さんは毎日、家族の夕食のために小麦粉を練って「オキリコミ」を作っていたのです。
群馬県の高校を卒業して東京に就職するまではお米のご飯はほとんど食べていなかったのです。
高校卒で会社へ就職した横山さんは下積みながら心を仕事に寄せて熱心に働きました。
そして34年後に父母の待っている故郷の下仁田に帰ったのです。故郷を愛する彼のせつせつした文章の幾つかを読んで私は感動しました。
家族に感謝し、故郷に感謝しながら東京で働き、やがて故郷に帰り、老境を心穏やかに過ごす彼のしみじみとした人生に私は感動したのです。現在も町のために重要な役職を引き続き受けています。
今年も家内を下仁田の同級会へ送っていきました。帰りがけに横山美知彦さんはまた文集をソッと私に下さいました。
その文集の中に『闘病記』という長い作品がありました。
あまり長いので今回はその抜粋を以下にお送りいたします。
特に70歳になってから白血病ガンになり死線をさ迷いながらも周囲の人々へ感謝し、希望を失わず淡々と生きる様子が心を打ちます。
重い病気になっても平穏な気持ちを微塵も崩さない生き方に感銘を受けるのは私だけではないでしょう。
====横山美知彦著、『闘病記』=================
(1)戦争中に東京の板橋で生まれ、3歳で疫痢になる
私は、昭和12年11月、東京市板橋区板橋町八丁目で生まれた。78年前のことである。現在もあるが「氷川神社」の近所で、中山道の通りから百米ほど北に入った一軒家で長男として生を受け、三歳頃まで順調に育ったと聞いている。その後二人の妹が増え、五人家族で勤め人の父を中心の生活は、何処でもそうであった様に決して楽ではなかった。私の生まれる前年には2.26事件、その後太平洋戦争が激しくなる時節でもあった。田舎出の父には学歴もなく、これと云った技術の持ち合わせもなく単身で上京し、俄かに講習を受けての現在の都電の運転手が精一杯だった様だ。
三歳になった頃だろうか、突然体に異変があった。当時の詳しいことを知る由もないが、板橋病院で「疫痢」と診断され入院となった。
記憶はあやふやだが、裸電球の四畳半の部屋で玄関先をぼんやりと眺めていたところ突然大きな黒い塊が現れた。当時は滅多に見ることの出来ないハイヤーだったが、幼い私にはそれが何であるかの判断が出来なかった。
そのハイヤーに初めての経験で乗り、父が付き添いで入院した。母は生まれたばかりの妹が居り、家も空ける訳にも行かなかったのだろう。
入院の数日は生死をさまよい苦しい経験をした様だ。その後折にふれその時の状況について父の話を耳にした事がある。
しばらくして容体も落ち着いて自分の現在を幼いながら判断出来るまで回復して来て、部屋が二階であることも判って来た。
母が妹を連れてやって来たが、隔離病棟なので院内には入ることが出来ずに庭の芝生から手をふってくれたことが記憶に残っている。
父の寝ずの看病が功を奏したのか時を重ねた後退院することが出来た。だが体は怠く思うように動かず、柱に体を寄せじっと耐えていた。
やっと元気になりかけた頃「虫歯」で苦しむことになる。「疫痢」では泣くことはなかった様に思うが、さすがに虫歯はそうは行かず、痛さに堪えきれず母の背中で泣き喚いたことを覚えている。
そんな事でか幼稚園の時期になっても甘えもあったのか家を出ず、戦争の激しくなるのを不安な気持ちでじっと堪える日々だった様に思う。
(2)空襲の東京を離れ故郷の下仁田に引っ越す
太平洋戦争も激しくなり米軍機が東京上空に飛来することが多くなって来た18年春、父が突然東京を引き上げる決心をすることになる。
生来の臆病な性格からこのまま東京に居ても被害を被るだけと、まだそんな危険が迫っては来ないと大方の市民が考えている最中、田舎に引越すことになる。その後戦争は益々激しくなり、板橋は米軍機の空襲で殆ど焼失している。
父には目算があったのだろう、田舎での勤め先も予め手を回し、東京での経験をそのまま生かせる私鉄の運転士の職場を確保しての事だった。その私鉄は高崎と下仁田を結んでいる上信電鉄という単線の線路だった。
昭和19年春、田舎の国民小学校に入学することになる。だが引越して来てから住所変更の手続きが遅れたのか、入学式には出席したもののとうとう自分の名前を呼ばれることなく入学式は終わった。悔しくて、名前を呼ばれなかった恥ずかしさからか泣き叫んでしまったことが学校での「泣く」最初だった。
国民小学校も二年生の夏終戦を迎え新制小学校となり昭和25年春卒業した。特別体に異常はなかったが、戦後の物のない時期が成長期であった為か29kgという体重で卒業し中学生になった。同級生もみなそんな体重だったが、私は特に軽かった。
戦後三年経った正月、友人5名と高崎へ遊びに行ったことがあった。
当時の電車は、バスの外は唯一の交通機関であり、その電車に乗ることが楽しみだった。普段はなかなか利用出来なかった。また電車に乗るほどの用事もなかった。ただ頭の中では電車に乗り遠くへ行ってみたいと云う気持ちだけは心に秘めていた。
当時父親が運転手をしていた関係で家族パスを発行して貰えたことを利用して同僚を誘い高崎への旅が実現したのだ。
皆、僅かなお年玉を懐に、早朝の電車に乗った。気分は晴れ晴れとしていて上州の寒さを感じる暇はなかった。
高崎駅に降りた5人は歩き出した。・・・中略・・・
(3)群馬県立富岡高校を卒業し東京へ就職
昭和31年の春、高校を卒業し社会人となり東京の会社で働き始めた。
・・・中略・・・
(4)東京で34年間働いた後、父母の居る下仁田に戻る
平成3年6月、東京から父母の住でいる郷里の下仁田に移ることになった。高校を卒業し上京してから34年が経過していた。
田舎に戻り、高崎市内の電気設備会社を親戚から紹介され、翌日から現場の作業に従事することになった。
平成20年の退職まで電気工事の業務を中心とした、パソコンによる事務作業に従事した。この間、平成16年、父が富岡市内の病院で、94才の生涯を閉じた。そして70才を過ぎ平成20年の6月、仕事から解放された。
(5)70歳で白血病ガンになり九死に一生で生存する
それより遡るが、五月の連休明けの明け方、就寝中寝返りを打った瞬間右足がけいれんと痛みで布団から起き上がったものの、立ち上がることが出来ない状態になった。
翌日、五年ほど前に腰痛の治療で世話になった整形外科医(級友の榎本君の甥)の診断を受けた。X線で見る限り腰、足には特に異常は認められないが、暫く通院して様子を見ることになった。
痛み止めの注射を何度か打ったが、改善はおろか微熱を発する様になり、寝汗で毎夜下着を交換する始末、体温も38度以下にはならなくなっていた。
その状態を先生に話したところ、これは当院の範囲の病状ではないのでと近所の富岡市高瀬地内にある内科診療所を紹介され、その足で家内と向かう。まず血液検査を受ける。数日後先生から診断を下せないのでと総合病院を紹介され、翌朝家内と出かける。診断の結果「肺炎」を起こしているが、入院せず通院により治療することになった。
それから約一か月過ぎたが改善されずに、食欲は日毎に落ちてゆき、つらい日が続いた。
7月の終わりの先生の診断中、突然群馬大学の教授の巡回があり、ふと私のカルテを見て、ここでは駄目と「群大」「日赤」「碓氷」「黒澤」と該当医院に電話をかけて空きベットがあるか否かを確認してくれた。最後に電話した渋川市の国立病院機構西群馬病院に一床空きがあるとの回答で即入院手続きをして下さり、全てのカルテや資料をコピーして私に持たせてくれた。

翌日(7月31日)家内と朝早く病院を訪ねた。病院は伊香保温泉の手前を北側に入った所にあった。自宅からは片道50kmに位置していた。
松本守生先生(血液内科医長)を中心に看護士に病状を私が説明をした後、すぐさま入院し血液検査が始まった。
その後の8月6日先生に呼ばれ、家内、長男、妹が同席の中、応設室で言い渡された。
ガンの「急性リンパ性白血病」ですと。
私はこの病気の恐ろしさを、この時理解していなかった。長くても二週間程度で退院出来ると勝手に決めていた。だが家内は判っていた様だ。
「おとうさんそんな短い間に退院はできないよ」と云う。まだ私は信じられなかった。その時の血液検査結果は白血球(基準値=3.9~9.8が0.4)、血小板(基準値=13.1~36.2が1)LDH<肝機能>(基準値=119~229が5,210)だった。これは死と隣合わせの値だった。
翌日から抗がん剤の投与が始まった。平成20年8月8日、抗がん剤が点滴管を通して体内に送り込まれた。小一時間かかった。
最初の投与は医学用語で「寛解導入療法」と云うらしい。特別体に変化はなかった。
次いで「地固め療法」である。抗がん剤の点滴は5回に分け翌年1月まで5種類の抗がん剤が投与された。115日間は無菌室に入れられ、他の病室とは遮断された部屋から廊下にも出ることも出来ない不便な生活を強いられた。
歩く必要のない無菌室にはトイレ、飲料用水道、冷蔵庫等が備えてあるので、殆ど部屋内で自分の用事は足りる。ただ風呂に入ることが出来ず、時々看護士が湯を洗面器に入れて来て足を洗ってくれた。
だが100日以上の無菌室での生活は、体調に大きな変化が出て来た。まず体力が無くなる。60kgの体重は20kgも減少、ベットを降りて何か用事を足す為に座り込むと立ち上がれないのだ。筋肉が衰え自力でベットに上がれなくなってしまい、はって上がることがしばしばだった。
食事がまことに不味い。納豆、牛乳や生鮮ものの好きな物は殆ど駄目である。野菜類は全て熱を加えたもので、本来の味はない。
「地固め療法」が終わり、一般病棟に移って一番うれしかったこと、それは病院での一般患者への食事だった。こんな美味い物がと感動もした。そして風呂に入れたことはうれしかった。
「地固め療法」が終わった22年2月、血液検査で思いがけず「B型肝炎」と診断され再び無菌室で二週間の治療に入った。これも苦しかった。
血液型がB型の私は、抗がん剤投与と同時に「血小板」増強の為、輸血を数度実施した。それが原因か否かは不明だが、元来肝臓には自信があったのだが。
一般病棟に移り約一か月の後、退院の許可が出て久方ぶりに自宅へ帰って来た。平成22年4月、群馬の山間も桜が咲きだす頃だった。
20年9月から抗がん剤の投与を受けながら、9回に渡って骨髄検査を受ける。これは骨髄液を腰上から注射器で抜き取り菌の有無を調べるのだが、抜き取った後、2kg程度の重石を載せて30分ほど安静を保つのだ。これは興味ある経験だった。
次に「維持療法」と云う治療を一般病棟で開始、寛解導入療法、地固め療法、投与の抗がん剤と新抗がん剤を交互に投与する。
21年5月、やっと「寛解」という完治でないが病状が安定した状態を迎えた。
その後二か月毎の、一泊二日の維持療法を14回重ねて23年12月、抗がん剤の投与から解放された。
その間の治療に投与(殆どが点滴)された処方薬等は次のとおりである。
寛解導入療法 20年8月~  オンコビン、ダウノマイシン、エドキサン 
               ブレドニン、ロイナーゼ
地固め療法  21年2月~  キロサイド、ラステッド、デキサート
維持 療法   23年1月~  オンコビン、メソトレキセート、ロイケリン
               アドリアジン
B型 肝炎  22年2月~4月 バラクルード(錠剤)
院内 検査  X線、(胸部)、CT、エコー、心電図、MRI、胃カメラ
       点滴注入用ポート切除処理、大腸がん検査
その後、二か月ないし三か月毎に通院し、血液検査を受けている。28年10月の診察の結果は特に異常はなかった。白血球(5.7),血小板(14.5)、LDH(242)。
発病してから8年3か月になる。先生は「寛解」から「完治」になった旨を言葉にした。先生も、その回復ぶりには経験がないと言われた。5年生存率が15%以内と極めて低いことから意外であり、私に与えられた生への執着心の強さが現れた結果と云う認識なのだろう。
幼児の時の「疫痢」が病の何であるかが理解出来ないまま79才になった今、改めて既に故人になった両親や周囲の人達、総合病院内で不定期に来院しネックのカルテから異常部分を検証し的確な指示を与えて下さった群馬大学の教授先生、私が処方薬を勝手に中止し、叱りながらも面倒を見て下さる松本血液内科医長先生には大いに感謝している。それに傍で何かと冷静に行動をしてくれる家内、兄弟、親戚縁者、友人には、これからも世話をかける事必定でありその態度を何かで表さなければと心積りをしている。
平成28年11月24日 79才が通り過ぎた。(完)  
                        
今日の挿し絵代わりの写真は横山美知彦さんが先週撮ってくれた下仁田町の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)        







1 コメント

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心のボタン (Unknown)
2017-06-27 11:57:19
同世代の私ですが都会と田舎の環境の違いが私のハートに突き刺さり涙しました。恵まれない環境の中で育ちましたが、何とか食にはあり付かれたのかと今、親に感謝です、病弱な私でしたが、80歳を迎えるまで生かされていること、自分の希望は夢で終わりましたが、日々の努力で、曲りなりに来世に夢を託しているところです。涙して拝見しました。

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