後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

フィリピン大統領の親日家ぶりを嬉しく思う

2016年10月29日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、フィリピンのドウテルテ大統領が日本を正式に訪問し、親日家ぶりを発揮しました。
何故、こんなにも日本が好きで尊敬しているか少し調べてみました。
考えられる理由はフィリピンが1899年から1946年までアメリカの植民地としてその収奪に苦しんで来たのです。そのアメリカへ真珠湾攻撃で打撃を与えたのです。そして太平洋戦争のお陰で1946年に念願のフィリピンの独立が可能になったのです。
この理由で戦後フィリピンは親日国になったのはうなずけます。
アメリカ占領軍が日本軍の残虐ぶりを宣伝するために「バターン死の行軍」を利用し、フィリピン兵が多数死んだと報道していましたが大きな反日運動にはなりませんでした。
この構図は第二次大戦のお陰でイギリスから独立が出来たインドがいつも日本に感謝して来たのと同じ構図です。
しかし上の理由だけでドウテルテ大統領が熱烈に日本が好きなのではありません。
彼の出身地のミンダナオ島のダバオ市周辺には戦前、多数の日本人移民が入植して地域の経済発展に大きな貢献をした歴史があったのです。
兵庫県出身でマニラに住んでいた日本人実業家、太田恭三郎はダバオを開発したのです。
彼は1903年、広大な土地を開発する許可を受けてアバカ(マニラ麻)とココナツのプランテーションを作り上げました。
それ以来、ダバオには続々と日本人が移民し地域の経済を大きく発展させたのです。
詳しくは末尾の参考資料をご覧ください。
日本人はフィリピを日本軍が占領し残虐行為をしたと信じています。しかしそれは戦後のアメリカ占領軍のGHQの宣伝だと理解すべきかも知れません。
確かにマニラではそのようなことがあったのでしょう。しかしマニラから遠方のミンダナオ島では日本人の貢献に感謝していたのかも知れません。
そのダバオ市の市長を20年間務めたドウテルテ大統領が親日家になるのもそれなりの理由があるのです。
彼はフィリピンの国民の80%から支持されています。
中国や韓国が日本を恨むなかでフィリピンのような親日国があることは嬉しいものです。
しかし私の好きなオバマ大統領の悪口を言うのはいけません。
アメリカ軍基地を撤廃したかったら紳士的な外交交渉を展開すべきです。

今日の挿し絵がわりの写真はミンダナオ島のダバオ川の写真と1939年のダバオ日本人学校の写真とカトリックダバオ教会の写真と、1898年のアメリカ・フィリピン戦争の絵画を順々に示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料======
フィリピンがアメリカの植民地になった経緯;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
(1)米比戦争
アメリカ合衆国との間に米比戦争が勃発する。翌1899年1月23日にアギナルドはマロロス憲法を公布しフィリピン共和国(第一次共和国)を樹立、初代大統領に就任した。1900年には当時の首都マロロスが陥落し正規軍は解散、ゲリラ戦を展開するが、翌1901年3月、イサベラ州パラナンでアギナルドは米軍に捕らえられアメリカの主権を認めざるを得なくなった。1902年までにアメリカ軍がフィリピン主要部を占領し、アメリカ合衆国の植民地となった。「フィラデルフィア・レジャ」紙は、米比戦争の二年間でルソン島住民の六分の一が殺されたと当時報道しており、これは約61万6000人にのぼる[37]。
米比戦争には12万人のアメリカ兵が投入され、4500人のアメリカ兵の戦死者と20万人の一般のフィリピン人の死亡者を出した[38]末にゲリラ化した革命軍の制圧を続け、1901年7月にはアメリカ軍の軍政から民政移管が実現し、1902年7月に合衆国議会で成立したフィリピン組織法を法的根拠に、陸軍長官ウィリアム・タフトの主導によってフィリピンの植民地化が進んだ。

(2)桂・タフト協定
また、日露戦争において日本は日本海海戦での勝利を経て、ロシア軍もセオドア・ルーズベルトによる講和勧告を受け入れていた時期の1905年7月29日、タフトは来日し、日本の内閣総理大臣桂太郎との会談のなかで、アメリカは韓国における日本の支配権を承認し、日本はアメリカのフィリピン支配権を承認する内容の桂・タフト協定を交わす[39]。桂・タフト協定は、1902年の日英同盟をふまえたもので、以下の三点が確認された。
日本は、アメリカの植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。
極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。
アメリカは、日本の朝鮮における指導的地位を認める。

(3)フィリピン全土平定
1907年にはフィリピン組織法の下でフィリピン議会が選出された。また、米軍は、スペイン主権下に入っていなかった南部のムスリムに対しても戦争を続け、1915年にはスールー王国とカーペンター=キラム協定(Carpenter-Kiram Agreement)を結んでアメリカ合衆国の主権を認めさせ、フィリピン全土を平定した。
1916年に米国議会でジョーンズ法(フィリピン自治法)を可決。同法では将来の独立が宣言され、上下二院の立法権を持つ議会の整備や、総督以外の行政機構、閣僚のフィリピン人化が進んだ。こうして米国は、経済的には米比二国間の相互関税免除を旨とした自由貿易体制を確立し、サトウキビとマニラ麻を中心としたフィリピンにおける輸出作物モノカルチャー化が進み、マニラ麻栽培のためにダバオ周辺には日本人移民が導入された。また、公教育の拡充を通して英語の普及が進んだ。
(以下省略)

ダバオ日本人社会の発展;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%90%E3%82%AA
ダバオの日本人街(1930年代)
ダバオの日本人学校(1939年)
兵庫県出身でマニラに住んでいた日本人実業家、太田恭三郎はこの地に目をつけ、1903年、広大な土地を開発する許可を受けてアバカ(マニラ麻)とココナツのプランテーションを作り上げた。当時日本や沖縄から多くの労働者がマニラとバギオを結ぶ高原道路・ベンゲット道路の過酷な工事に従事していた。太田は工事で疲労困憊した彼らをダバオに誘い農園で働かせた。マニラ麻は船舶用のロープの原料として飛ぶように売れ、太田はベンゲット道路で労働していた沖縄県人のリーダー・大城孝蔵とともに、農園と工場をあわせた「太田興業株式会社」を設立、これが日本人による最初のダバオでの会社だった。
1910年代、日本人移民、とくに大城孝蔵の呼び寄せによる沖縄県からの移民が増加し、第一次世界大戦景気でロープも大いに売れたこともあり1916年には1万人の日本人が住むに至った。大戦後不況で多くの日本人がダバオを離れたが、沖縄県出身者はとどまり、1938年にはダバオに1万8千人住んでいた日本人のうち沖縄県出身者が7割を占めた。太田は激増する農園需要と日本人移民の居住地を満たそうとバゴボ人の首長インタルから土地を獲得し、この場所に多くの人がとどまるように「民多留(みんたる)」と名づけた。ミンタルは日本人町になり、日本人学校、日本語新聞、日本領事館、病院、商店、売春宿、仏教寺院、キリスト教会、神社などが作られた。周囲には日本の商社の支援を受けた大手農園・工場や、一から作った中小農園など多くの農園会社が林立しダバオ湾岸には日本人経営のアバカのプランテーションが広がった。またコプラ、材木、漁業基地、雑貨の輸出入なども日本人によって手がけられた。
(以下省略)







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