今朝の、夕闇と炎を見ながら伊澤孝平著「そういう時代の旅と人」を読む と題する記事で、本の書かれたそういう時代とはどのような時代だったかを説明しました。それは昭和26年から27年にかけての時代に書かれた本なのです。
この期間は昭和25年6月に勃発した朝鮮動乱の最中で、世界中が第三次世界大戦に発展するのを恐れていた時代でした。朝鮮動乱は昭和26年末までには戦線がおさまり停戦条約は昭和28年に決定したのです。
伊澤孝平著「そういう時代の旅と人」の内容を深く理解するためには当時の国際情勢を理解しておくのが良いと思います。
この戦争には以下のように世界中の国々が参戦したのです。
左が韓国側で、右が北朝鮮側です。
国際連合軍 医療スタッフ
韓国
アメリカ合衆国
イギリス
フランス
カナダ
オランダ
ベルギー
トルコ
タイ
フィリピン
ルクセンブルク
ギリシャ王国
コロンビア
オーストラリア
ニュージーランド
エチオピア帝国
南アフリカ連邦
デンマーク
イタリア
ノルウェー
インド
スウェーデン 北朝鮮
中国(中国人民志願軍)
ソビエト連邦(顧問団派遣及び物資支給)
そして仁川に上陸したマッカーサー軍は破竹の勢いで満州国境まで攻め上がりました。マッカーサーはトルーマン大統領の反対を押し切り満州へ原爆を投下し、侵入し、中国共産党軍の息の根を止めようと強く主張しました。
それは核戦争の第三次世界大戦を引き起こす可能性があります。
アメリカもその可能性のそなえ核戦争の準備をしていた時代でした。
ここでトルーマン大統領はシビリアン・コントロールを守るために昭和26年4月11日にマッカーサーのすべての軍務を解任したのです。それは正解でした。ソ連の参戦を未然に防ぎ、第三次世界大戦への火種を消し去ったのです。
しかしマッカーサーの解任後もアメリカには彼の主張を支持する人が多かったのです。
朝鮮動乱は中国共産党軍が北朝鮮を救ったという歴史的な事実を残し、現在の中国軍の自信過剰の原因の一つになっているのです。
そこで次の下の左の図をクリックして、拡大してご覧下さい。動乱中の最前線の移動を示す図になっています。そして11月には最前線が満州にせまっているのが分かります。
マッカーサーが満州に原爆攻撃を主張したのはこの1950年11月ころで、前線は満州の国境にせまっていたのです。
右の図は仁川上陸後、ソウル市で市街戦をしている米兵の写真です。
この朝鮮動乱は日本からも6000人もの人員が機雷除去の掃海艇に乗って参戦しています。そして朝鮮動乱特需で日本の復興にはずみがついたのです。
この日本へ大きな影響を与えた朝鮮動乱をもう一度いろいろな角度から再考すべきと思います。(続く)
====参考資料=========================
マッカーサー解任はこうして起きた。
1951年3月24日にトルーマンは、「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていたものの、これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を政府の許可を得ずに発表した後38度線以北進撃を命令し、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線を突破する。
またマッカーサーは、満州国建国後に行われた日本の多額の投資により一大工業地帯、すなはち満州の工業設備やインフラストラクチャー施設を、ボーイングB-29とその最新型のB-50からなる戦略空軍で爆撃し、中国軍の物資補給を絶つために放射性物質の散布まで検討された。
この頃マッカーサーによる中華人民共和国国内への攻撃や、同国と激しく対立していた中華民国の中国国民党軍の朝鮮半島への投入、さらに原子爆弾の使用の提言など、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢の意向を無視し、あからさまにシビリアンコントロールを無視した発言が相次いだ。
マッカーサーが暴走を続けた末に、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にし、その結果として第三次世界大戦に発展することを恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーをすべての軍の地位から[36]解任した。国連軍総司令官および連合国軍最高司令官の後任には同じくアメリカ軍の第8軍及び第10軍司令官のマシュー・リッジウェイ大将が着任した。
解任されたマッカーサーは、4月16日に専用機「バターン号」で家族とともに東京国際空港からアメリカに帰国し、帰国パレードを行った後にアメリカ連邦議会上下両院での退任演説をし、退役し軍歴を閉じた。==(以下は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89に続く。)