後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

A級戦犯の靖国神社合祀後、昭和天皇は靖国神社の親拝を止めたお気持ち

2014年09月14日 | 社会・経済
「私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白鳥までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ」


上の文章は昭和天皇が1975年以降、靖国神社へ行っていない理由だと言われています。この言葉は当時の侍従長官の富田氏のメモとして2006年に公開されました。

こんどの昭和天皇実録公開ではこのお言葉は書いてありません。しかし「話があった」とだけ書いてあるそうです。
上のお言葉にある松岡は日独伊三国同盟を作った松岡洋介外務大臣であり、白鳥は三国同盟締結に狂奔した白鳥敏夫外務省顧問でした。
「松平の子の今の宮司」とは元海軍将校で靖国神社宮司の松平永芳氏のことです。彼がA級戦犯合祀を実行した宮司だったのです。
そして、筑波とは貴族院議員で松永宮司の前の宮司の筑波藤麿氏のことです。

昭和天皇は始めから日独伊三国同盟には強く反対していて、松岡洋介や白鳥敏夫を蛇蝎のごとく嫌っていたという話も戦後、世間に流れていました。

昭和天皇は日英同盟のような時代に戻したいと思っていたのです。ドイツやイタリアの独裁者と組むことに強く反対していたのです。

拙速な政策で300万人もの日本人の犠牲者を出したA級戦犯たちを憎んでいたのです。A級戦犯は欧米に対して犯罪を犯したのではなく愚かな政策の実行で300万人の日本人の犠牲者を作ったのです。この罪の償いはしなければなりません。
責任重大なのです。
昭和天皇は一般国民を大切に思っていたのです。国民を愛していたのです。

昭和天皇は昭和21年から29年にわたって、全国の津々浦々へ行幸なさったのです。
仙台市へいらした時は私は小学6年生の秋でした。小旗を振ってお迎えしました。
天皇は行く先々の各地の人々の群れに囲まれ、天皇の顔は明るく輝き、楽しそうでした。

この時ほど昭和天皇を身近に感じたことがありませんでした。
沖縄県以外は全国の都道府県をすべて巡幸されたのです。
沖縄県には一般市民を犠牲にした痛恨の思いがあったのですが、当時の政治情勢からついに行幸がかないませんでした。

そんなことを思い出させる最近の昭和天皇実録の公開でした。


以下に立川市にある昭和天皇記念館の写真をお送りいたします。
写真は2008年7月31日に訪問した時に撮ったものとHPから転載したものです。

なお展示室の右手上には6枚の大型液晶画面があり、87年のご生涯の映像が出ていました。

晩年にテレビ記者と会見したときのお元気な御声をかなり長時間聞くことができます。これは係の人に申し出ると見ることが出来ます。

展示室の中央には昭和10年から52年までご愛用になられた箱形ベンツ乗用車が磨きあげて飾ってありあす。たびたび新聞写真でみた懐かしい乗用車です。

詳しくは記念館のホームページ、http://www.f-showa.or.jp をご覧下さい。



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