後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
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「高尾の今日の紅葉の風景です」

2017年11月16日 | 写真
高尾山は、東京の西の郊外にある山です。標高は599mあります。
山頂付近に神仏混淆の薬王院というお寺があり、お寺の本堂の背後に飯綱権現神社があります。古くから修験道の聖地でした。
山全体が紅葉になり素晴らしい所です。
今日は午後から車で高尾の紅葉の写真を撮りに行きました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。












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甲斐のくにの紅葉(4)武田神社と甲斐善光寺

2017年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は武田神社の紅葉の写真をご紹介致します。その後で長野の善光寺のご本尊の一光三尊(善光寺如来)を武田信玄が甲府に持ち帰り甲斐善光寺を作った経緯を書きます。この善光寺如来は武田家滅亡後の40年間各地を流転して最後にまた長野の善光寺に帰って行ったのです。それは不思議な物語です。
さて最初に武田信玄を神として祀る甲府市の中央にある武田神社の紅葉の写真を示します。

1番目の写真は本殿前の紅葉の風景です。

2番目の写真は入り口の鳥居の方向の紅葉です。

3番目の写真は武田神社の拝殿です。武田信玄は山梨県の誇りです。従って信玄様にまつわるものは全て豪華で華麗に保存してあります。武田家は代々、甲斐の国の守護でした。その生地の韮崎にも武田神社があり、そちらも立派な神社です。

4番目の写真は鳥居の所にある狛犬です。

5番目の写真は武田神社への入り口にある朱塗りの橋と堀です。

6番目の写真は武田神社を囲む堀の写真です。この神社は信玄の館の跡に作ったのでお城のように掘に囲まれています。

7番目の写真は武田神社を正面から見上げた写真です。

さて私事で恐縮ですが私は宗教が好きです。ですから信玄が長野の善光寺の本尊や寺宝や全ての僧侶を甲府に連れ帰ったことは善いことか悪いことかを考えています。
善光寺は元来、飯田市にありました。推古天皇10年(602年)にこの地の住人本多(本田)善光が、難波の堀江(現在の大阪市)で一光三尊(善光寺如来)の本尊を見つけて持ち帰り、作った寺が現在の飯田善光寺なのです。それを皇極天皇元年(642年)に勅命により長野に移されたのです。
その善光寺如来を震源は甲府に持ち帰り甲斐善光寺を作ったのです。
私は飯田善光寺も長野善光寺も甲斐善光寺もすべて参拝しました。3つとも大変規模が大きくて格段に立派な本堂を有しています。
そして信玄が上杉謙信と川中島の合戦の折りに甲府に移転させたのです。
しかし天正10年、1582年に武田家は織田信長によって滅ぼされます。その際、織田信長の長男である信忠は、さっそく善光寺のご本尊を甲斐甲府から本拠地である岐阜へ移しました。これが岐阜善光寺です。
その年の夏に織田信長は家臣である明智光秀により京都の本能寺で殺されてしまいます。そのため、善光寺のご本尊は尾張清洲甚目寺(愛知県甚目寺町)に移されます。
その翌年、今度は徳川家康により浜松(静岡県)の鴨江寺に移され、やがて甲府に戻されます。
それから15年して、天下を掌握した豊臣秀吉は、慶長元年(1596)の大地震で京都の大仏殿が崩壊してしまったため、その翌年に善光寺のご本尊を甲府から移し、京都方広寺のご本尊とします。しかし、このころから豊臣秀吉は病気になってしまい、それが善光寺如来のたたりだと噂されるようになりました。
そのため、慶長3年(1598)に、急いで長野善光寺へご本尊を送り返しましたが、ご本尊が信濃へ向け出発した次の日に豊臣秀吉は亡くなりました。
こうして、約40年ぶりに善光寺のご本尊である如来様は長野の善光寺に戻ったのです。
この辺の詳しい経緯は、http://zenkozi.com/about/wandering.html をご覧ください。

以上のように武田信玄も織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も長野善光寺の一光三尊(善光寺如来)に執着してそれを自分の都合で動かしたのです。
それが良いことなのか悪いことなのか私は考え込んでしまいます。しかし正解はいまだに出ません。皆様はどうのようにお思いでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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