後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
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鎌倉時代の天守閣の無い小山田城の跡にある大泉寺を訪ねる

2017年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
鎌倉時代が始まる前の承安元年(1171年)、小山田有重によって築かれた小山田城跡とそれを所有、保存している大泉寺を昨日訪ねました。 小山田氏は桓武平氏で、秩父重弘の次男の有重が小山田荘に住んで小山田氏を名乗ったのです。
その小山田氏一家は相模国二俣川で討死し、元久2年(1205年)に小山田一族は離散したのです。
この小山田城のあった山を所有し城跡を保存しているのが曹洞宗の大泉寺です。東京都町田市の小山田緑地公園の隣にあります。
詳しくは、http://www.hb.pei.jp/shiro/musashi/oyamada-jyo/ をご覧下さい。
それでは昨日撮った来た写真を示します。

1番目の写真は大泉寺の山門です。

2番目の写真は大泉寺の本堂です。

3番目の写真は大泉寺の鐘楼です。
さて小山田城は何処にあったのでしょうか?お寺の本堂の説明版に寺の裏山を補陀山(ほださん)と言い、本堂の裏山にあると書いてあります。そして入山禁止の看板もあります。
そこで帰宅後、いろいろ調べましたところ、ある方がお寺の住職の許可を得て城跡に登り、写真を公表していたのです。
そのブログ、http://gi001.gokenin.com/tanbou/13_tokyo/06_minami_tama/005_machida/oyamada/oyamada_jou.html から2枚の写真をお借りして以下にお送りいたします。

4番目の写真は「虎口」と書かれた堀跡の写真です。虎口という事はこの場所が城の入口と想像出来ます。

5番目の写真は「二の丸」と標識のある城跡です。

大泉寺は小山田城の跡地に建てた寺院です。大泉寺は補陀山水月院と号します。小山田城を作った有重が開基となり、小山田有重が居住していた当地に安貞元年(1228)に建てたと言います。そして後に無極和尚が曹洞宗寺院として開山したといいます。江戸時代には寺領8石の御朱印状を拝領していて、武相卯歳観音霊場四十八ヶ所11番だったお寺です。

これで小山田城のことが明快に分かりました。
鎌倉時代の山にある城は戦いのある時だけ使い、普通は領主は城のある山の下の館に住んでいたのです。その館の下の方には武装した家来たちが住んでいたのです。
この近辺の片倉城も高幡城も深大寺城も石神井寺城もみんな天守閣の無い戦いの時に使う砦のようなものだったのです。
天主閣が現われた最初は織田信長が天正7年(1579年)に建造した安土城と言われています。下に天守閣の写真を示します。

6番目の写真は日本に現存する12の天守閣の集合写真です。
左1列上から姫路城、彦根城、松本城、犬山城。中1列上から松江城、備中松山城、丸岡城、弘前城。右1列上から伊予松山城、高知城、宇和島城、丸亀城。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AE%88 です。

昨日、訪れた鎌倉時代が始まる前の承安元年(1171年)、小山田有重によって築かれた小山田城をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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20世紀のヨーロッパを震撼させたキリスト教と共産主義の戦い

2017年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
20世紀が過ぎ去ってもう17年にもなりますね。この頃、20世紀とはどんな時代だったのだろうかと考えています。
ヨーロッパでは第一次世界大戦と第二次世界大戦があり歴史最大の悲劇が起きました。ドイツのヒトラーとナチスによるユダヤ人など600万人ものホロコーストはヨーロッパ文化の崩壊でした。
しかしこれらの大規模な惨劇の陰にはキリスト教と共産主義の激しい抗争があったのです。その抗争は1990年前後のソ連の崩壊で終止符が打たれたのです。
今日はこのヨーロッパにおけるキリスト教と共産主義の抗争を振り返って見たいと思います。
まず写真をご覧下さい。

1番目の写真はロシア革命後に共産党によって1831年12月5日、爆破された救世主ハリストス大聖堂爆破の写真です。出典は次の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%91%E4%B8%96%E4%B8%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%B9%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82

2番目の写真は2000年に再建された救世主ハリストス大聖堂の写真です。
大聖堂全体の成聖式は2000年8月19日(主の顕栄祭)にアレクシイ2世司祷により行われました。

日本は幸いにも共産主義が大規模には浸透せず、その被害も小さかったのです。
しかしヨーロッパ世界は共産主義に怯え、特に1917年のロシア革命の成功の後は、自国の共産化を防ごうとする人々が沢山いました。
特にロシアの政権は1923年に国際的に共産主義革命を援助する為に「コミンテルン」を組織し、ソ連の国家予算で各国の革命運動を支援し始めたのです。日本の共産主義者もコミンテルンに連携したのです。
この共産主義はキリスト教を完全に否定したのです。これは世界中にいるキリスト教信者に恐怖を与えました。文字通り世界を震撼させたのです。
レーニンは、1918年から1920年までに、28人の主教を殺害し、数千人の聖職者が殺されるか、あるいは投獄されたのです。
ほぼ1万2000人の信徒が宗教活動を行なったかどで処刑され、数千人が逮捕の後、労働キャンプに送られるか、流刑処分を受けたといわれています。
このニュースは1919年2月にロンドンで公刊されます。この公開文書は、ロシア正教会オムスク大主教から英国聖公会カンタベリー大僧正に宛てた書簡で、当時の教会迫害の様子を生々しく伝えていたのです。
ヨーロッパのキリスト教国は大きな精神的な打撃を受けたのです。いや全世界のキリスト教徒が衝撃を受けたのです。
この衝撃の大きさは仏教国の日本では比較的軽く見られがちです。

ご存じのとうりキリスト教は2000年前にガリラヤ湖の近辺で生まれました。それ以来、紆余曲折はありましたが1517年のマルチン・ルターによる宗教改革まで教勢を一途に上げてきました。この宗教改革でヨーロッパのキリスト教はカトリックとプロテスタントに二大宗派に分裂します。
しかし1848年の共産党宣言でヨーロッパ人の一部が歴史上初めてキリスト教を完全否定したのです。
革命成功後のロシアではレーニンもスターリンもフルシチョフも大々的にキリスト教を弾圧したのです。特にスターリンは神学校を卒業し神父になる直前に共産主義に転向した人です。
全世界のキリスト教界に与えた精神的打撃ははかり知れないほど大きかったのです。
共産主義による宗教支配は現在でも中国やベトナムでも続いています。
中国ではカトリックのことを天主教と言いますがその教会はローマ法王の傘下に入ることを許されていません。中国共産党が大司教や司教や神父を任命しているのです。
個人的な話で恐縮ですが私どもの教会の主任司祭のヨゼフ・ディン神父は共産党の弾圧を恐れてベトナムからボート・ピープルとして日本へ亡命した方です。
そのことを想うと共産主義の弾圧のすさまじさが身近に感じるのです。私は共産主義を恐ろしいと思います。
そしてソ連が崩壊してロシアにキリスト教が73年後に復活したことを嬉しく思います。

このようなキリスト教と共産主義の激しい抗争は1990年前後のソ連の崩壊によって終了したのです。
キリスト教には再び平和がやって来ました。
それを象徴するようなローマ法王のフランシスコ教皇のフィリピン訪問の折りの写真をお送りいたします。
以下は、http://news.livedoor.com/article/detail/9688495/ からです。

3番目の写真はフィリピンの子供たちと楽し気に手をつなぐフランシスコ法王の写真です。

4番目と5番目の写真は2015年1月18日にマニラでの野外ミサの様子です。写真と説明文は、http://news.livedoor.com/article/image_detail/9688495/… から転載しました。

首都マニラでの大規模な野外ミサでは、雨の降りしきる中、歴代法王が開いたミサとしては過去最多の600万人が集まり、貧しい人々の救済を掲げた法王のアジア歴訪のフィナーレを飾ったそうです。
 フィリピンはアジア最大のカトリック国で、国民の80%がカトリック信者です。さすがの法王も群衆の数に驚いたそうです。

共産主義はキリスト教では全ての人間が幸福になれないという考えでヨーロッパで生まれた思想です。
その思想に基いて政治体制を作ると予想もしなかった悲劇が起きたのです。それはヨーロッパで起きた犠牲の大きい社会現象でした。
20世紀は戦争の世紀とはよく言われますが、その一方でキリスト教と共産主義の激しい抗争があった世紀だったのです。
その流れがまだ中国やベトナムや北朝鮮に続いている現実を忘れないようにしたいものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料===========
(1)ルターの宗教改革
1517年、ルターはローマ教会に抗議してヴィッテンベルク市の教会に95ヶ条の論題を打ちつけた。これが、一般に宗教改革の始まりとされる。この贖宥状批判は大きな反響を呼んだ。この批判はまたたくまに各地に拡大し、ローマ教皇に嫌悪を抱いていた周辺の諸侯の支持を得た。
「宗教は民衆のアヘンである」とのマルクスの言葉を踏襲し、宗教の存在を否定する。階級社会が発生して以来、支配階級は、民衆の目を厳しい生活からそらさせるため、常に宗教を利用してきたからである、とする。実際に、ロシア革命以降、諸宗教の数多くの教会が破壊され、聖職者及び信徒が殺害された。マルクス・レーニン主義者の、宗教に対する否定的な姿勢は、戦闘的と言ってもいい。

(2)マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』
http://page.freett.com/rionag/marx/mcp.html
 共産主義の基本的革命理論を構築したマルクスとその友であるエンゲルスは、その著書『共産党宣言』において、「共産主義者は、彼らの目的は、既存の全社会組織を暴力的に転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。」として、暴力によってのみ共産主義革命が達成できると主張した(暴力革命必然論)。革命理論としては他に、国家は抑圧のための暴力装置であり、全社会は相対立するブルジョアジーとプロレタリアートの二大階級に分裂するという(階級国家観)。革命転換の時期においてはプロレタリアートの革命的独裁が行われなければならないという(プロレタリア独裁論)。「万国のプロレタリアよ団結せよ」で知られるプロレタリア国際主義などがある。

(3)革命直後レーニン時代のキリスト教の迫害
http://www2.odn.ne.jp/~caq10260/c14.htm
…政教分離の名の下に行なわれた一連の宗教抑圧政策は、しばしば聖職者の処刑や教会の強制的閉鎖といった直接的な宗教弾圧をも伴い、その結果、宗教界の抵抗を招いて各地で流血の衝突が頻発するにいたった。
ロシア正教会の場合、1918年から1920年までの間に少なくとも28人の主教が殺害され、数千人の聖職者が殺されるか、あるいは投獄された。
またほぼ1万2000人の信徒が宗教活動を行なったかどで処刑され、数千人が逮捕の後、労働キャンプに送られるか、流刑処分を受けたといわれている。
1919年2月にロンドンで公刊された、ロシア正教会オムスク大主教から英国聖公会カンタベリー大僧正に宛てた書簡は、当時の教会迫害の様子を生々しく伝えている。 
過激派が1917年のロシアで政治権力を掌握すると、彼らは社会の教養階級だけでなく、宗教そのもの、教会の指導者たち、そしてあらゆる人々から尊ばれた宗教的記念碑を一掃しはじめました。
モスクワのクレムリン大聖堂、ヤロスラーヴリやシンフェローポリといった諸都市の聖堂は略奪され、多くの教会が汚されました。
由緒ある至聖所も、モスクワとペトログラードの有名な総主教書庫も略奪を受けました。
キエフ府主教ウラジーミル、20名の主教そして数百人の聖職者たちが暗殺されました。
しかも殺害する前に、ボリシェヴィキどもは犠牲者の手足を切り刻み、そのうちの幾人かは生きながら火で焼いたのです。
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