後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

竜宮城を模した遊覧船に乗って浦島太郎伝説を考える

2017年07月10日 | 日記・エッセイ・コラム
先週、鳥羽湾を遊覧船でめぐり、島々が点在する夢のような美しい風景を楽しみました。その上、乗った遊覧船が夢の中の竜宮城のようなのです。
浦島太郎も亀も乙姫様も居る竜宮城でした。
浦島太郎の伝説は日本各地にありますが、漁師の多い鳥羽ではこの伝説が信じられているのです。本気で遊覧船を竜宮城のように造り上げているのです。
各地にある浦島太郎の話は少しずつ違いますが、その一般的なストーリーは次のようなものです。
漁師の浦島太郎は、子供達が亀をいじめているところを見ます。太郎が亀を助けると、亀はお礼として太郎を海の中の竜宮城に招いたのです。
竜宮城では美しい乙姫が太郎を歓迎し、もてなしてくれます。楽しさに我を忘れて、時を過ごしましが、故郷をフト思い出し、帰ることを決心します。
すると乙姫は「決して開けてはならない」と言いながら玉手箱を渡したのです。
太郎が亀に連れられ浜に帰ると、故郷には太郎が知っている人は誰もいません。
悲しくなった太郎が玉手箱を開けます。すると、中から煙がたちのぼります。その煙を浴びた太郎は老人の姿に変ってしまったのです。浦島太郎が竜宮城で過ごした日々はあまりにも楽しかったので数日のように思っていましたが、地上では随分長い年月が経っていたのです。
それでは今回、鳥羽湾で撮って来た写真をお送りします。











この浦島太郎の伝説は日本書紀にも掲載されているそうです。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E5%B3%B6%E5%A4%AA%E9%83%8E より抜粋。)
浦島太郎(浦嶋子)が文献に登場する初見は、8世紀の初めに成立した『日本書紀』の「雄略紀」の雄略天皇22年(478年)秋7月の条の記述です。
丹波国餘社郡(現・京都府与謝郡)の住人である浦嶋子は舟に乗って釣りに出たが、捕らえたのは大亀だけだった。
するとこの大亀はたちまち女人に化け、浦嶋子は女人亀に感じるところあってこれを妻としてしまう。そして二人は海中に入って蓬莱山へ赴き、各地を遍歴して仙人たちに会ってまわった。この話は別の巻でも触れられている通りである、と最後に締めくくるが、この別巻がどの書を指しているのかは不明。いずれにしても『日本書紀』が完成した養老4年(720年)頃までには、既にこの浦島の話が諸々の書に収録されていたことが窺い知れる。
そして万葉集にも次のように書かれているのです。
『万葉集』巻九の高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)に「詠水江浦嶋子一首」として、浦島太郎の原型というべき以下の内容が歌われているのです。次はその現代訳です。
水の江の浦島の子が7日ほど鯛や鰹を釣り帰って来ると、海と陸の境で海神(わたつみ)の娘(亀姫)と出会った。二人は語らいて結婚し、常世にある海神の宮で暮らすこととなった。3年ほど暮らし、父母にこの事を知らせたいと、海神の娘に言ったところ「これを開くな」と篋(くしげ・玉手箱のこと。もともとは化粧道具を入れるためのもの)を渡され、水江に帰ってきた。海神の宮で過ごした3年の間に家や里は無くなり、見る影もなくなっていた。箱を開ければ元の家などが戻ると思い開けたところ常世との間に白い雲がわき起こり、浦島の子は白髪の老人の様になり、ついには息絶えてしまった。

さてこの浦島太郎の原型は8世紀に成立した『丹後国風土記』にある「筒川嶼子 水江浦嶼子」であると言われています。浦島太郎の物語は『丹後国風土記』逸文が内容的に一番詳しいので原型と言われています。この詳しい原型は長すぎるので省略します。


しかし、この浦島太郎の話は『丹後国風土記』よりももっともっと古く、旧石器時代や縄文時代から語り伝えられていたのでしょう。
この物語りの主要な部分は、「海で辛い漁をすると美しい乙姫さまに会える」という部分と、「海の底には竜宮城という楽しい場所がある」という部分です。
辛い漁をしている男性の漁師の夢は海で美しい娘に会えることです。海が荒れて不運にも溺れてしまった漁師の行く場所が竜宮城という極楽なのです。その部分は海で亡くなった漁師のなぐさめです。鎮魂の物語です。
海に生きる人々の憧れや楽しみや悲しみの物語です。悲しみの部分があるから何時までも長く語り継がれているのです。そんな事を考えながら鳥羽湾の遊覧船に身を任せてしばし空想に耽っていました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)