後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

どうしても好きになれないルオーの絵画、皆様はいかがですか?

2016年05月16日 | 日記・エッセイ・コラム
フランスの宗教画家、ジョルジュ・ルオーは多くの日本人が好きらしくて東京の汐留ミュージアムには230点もの作品があるそうです。
その上、山梨県の北杜市にある清春白樺美術館は実に多数のルオーの絵画が展示しています。
さらに同じ場所にルオー記念礼拝堂があり、そこにも絵画やステンドグラスが展示してあるのです。
東京の本郷3丁目には昔から有名なルオーという名前の喫茶店があります。ルオーの絵が数枚飾ってあります。
そしてルオーの絵画展が何回も開催されています。日本では有名な画家の一人です。
ルオーの絵画の主題はキリストです。そして聖書にまつわる話も絵に描きました。
私は毎年この風薫る皐月になると必ずのように清春白樺美術館を訪れます。美術館の一帯にフランスの彫刻やオブジェやフランスの共同利用の洒落たアトリエ、ラ・リューシュがあり芸術的な雰囲気があるのです。
その美術館にあるルオーの絵画だけは何十回眺めても好きになりません。
彼は信仰の篤いカトリック教徒でした。彼の信仰には敬意を感じますが絵画はどうしても好きになれません。理由は判りませんが、ステンドグラスのような輪郭の強い線が原因かもしれません。決して不愉快な絵画ではありませんが、ゴッホの絵から受ける感動が微塵も無いのです。マネーの絵のような印象深い技巧性もありません。モネーのような色彩の躍動感がありません。ロートレックやユトリロの絵のような構図の面白さもありません。シスレーやセザンヌのような風景美もありません。
油絵は何年にわたって何十回も見ていると好きになるという話も聞きました。しかしルオーの絵は何故か好きになれません。
何故、日本人はルオーの絵画が好きなのでしょうか?
白樺派の人々がヨーロッパ文化に憧れていろいろな絵画や文学を日本へ紹介しました。特にルオーの絵画を多数紹介しました。そこにはヨーロッパ文化の中心をなすキリスト教が描かれていたのです。日本人の西洋文化への憧れの結果、ルオーの絵を多数輸入してきたのかも知れません。
私自身はカトリックなのでルオーの絵の意味はよく判ります。
ヨーロッパの中世の美し過ぎる宗教画のアンチテーゼとして新しい宗教画の分野を切り開こうとした努力と情熱には感動します。しかし芸術的な感動が無いのです。
私が間違っているのでしょう。何故、多くの日本人がルオーの絵画を称賛するのでしょうか。私にはそこが分からないのです。
是非、皆様に教えて頂きたいのです。皆様のルオーの絵に関するご感想をお送り下さい。
お待ちしています。
写真に先週訪れた清春白樺美術館とルオーの作品を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は谷口吉郎設計の清春白樺美術館です。この美術館の1室にルオーの絵画だけが多数展示されています。

2番目の写真はルオー記念礼拝堂で、ここにもルオーのリトグラフ12点とステンドグラスが展示されています。

3番目の写真はルオー礼拝堂の祭壇と十字架です。右側にルオーの版画があります。祭壇背後のキリスト像(17世紀)は、ルオー自身が彩 色したものです。

4番目の写真は礼拝堂の壁にある12点の版画の中の2点です。

5番目と6番目の写真は清春白樺美術館に展示してあるルオーの作品です。



7番目の写真はルオーの作ったステンド・グラス「ブーケ」の窓です。
====参考資料=================
(1)ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault, 1871年 - 1958年)は、野獣派に分類される19世紀~20世紀期のフランスの画家。ルオーは、パリの美術学校でマティスらと同期だったこともあり、フォーヴィスムの画家に分類されることが多いが、ルオー本人は「画壇」や「流派」とは一線を画し、ひたすら自己の芸術を追求した孤高の画家であった。

1871年、パリに指物(さしもの)職人の子として生まれた。ルオーの家族が住んでいたベルヴィル地区のヴィレットは、当時は場末の労働者街であった。ルオーは14歳の時、ステンドグラス職人イルシュに弟子入りする。後年のルオーの画風、特に黒く骨太に描かれた輪郭線には明かにステンドグラスの影響が見られる。ルオーは修業のかたわら装飾美術学校の夜学に通った。1890年には本格的に画家を志し、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学、ここでマティスらと知り合った。同校でルオー、マティスらの指導にあたっていたのは象徴派の巨匠、ギュスターヴ・モローであった。教師としてのモローは自己の作風や主義を生徒に押し付けることなく、ルオーとマティスという、モロー自身とは全く資質の異なる2人の巨匠の個性と才能を巧みに引き出したのである。ルオーは終生、師モローへの敬愛の念が篤く、1903年にはモローの旧居を開放したギュスターヴ・モロー美術館の初代館長となっている。ルオーは同美術館に住み込みで働いていたが、給料は安く、生活は楽ではなかったようだ。

ルオー20歳代の初期作品にはレンブラントの影響が見られ、茶系を主とした暗い色調が支配的だが、30歳代になり、20世紀に入ったころから、独特の骨太の輪郭線と宝石のような色彩があらわれる。画題としてはキリストを描いたもののほか、娼婦、道化、サーカス芸人など、社会の底辺にいる人々を描いたものが多い。ルオーは版画家としても20世紀のもっとも傑出した作家の一人で、1914年から開始した版画集『ミセレーレ』がよく知られている。

1917年、画商ヴォラールはルオーと契約を結び、ルオーの「全作品」の所有権はヴォラールにあるものとされたが、この契約が後に裁判沙汰の種になる。ルオーは、いったん仕上がった自作に何年にも亘って加筆を続け、納得のいかない作品を決して世に出さない画家であった。晩年、ルオーは「未完成で、自分の死までに完成する見込みのない作品は、世に出さず、焼却する」と言い出した。ヴォラール側は「未完成作品も含めて自分の所有である」と主張したが、「未完成作の所有権は画家にある」とするルオーの主張が1947年に認められ、ルオーは300点以上の未完成作をヴォラールのもとから取り戻し、ボイラーの火にくべたのである。それが彼の芸術家としての良心の表明だった。ルオーは第二次大戦後も制作を続け、1958年、パリで86年の生涯を終えた。国葬を賜った。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%AA%E3%83%BC より。)
(2)清春白樺美術館
1983年(昭和58年)に清春芸術村の施設として建設された清春白樺美術館は、武者小路実篤、志賀直哉など『白樺』の同人が建設しようとしてその夢を果 せなかった“幻の美術館”を、武者小路、志賀の両氏を敬愛し、個人的にも親交のあった吉井長三が実現したものです。

ジョルジュ・ルオー記念館(礼拝堂)
20世紀最高の宗教画家であるジョルジュ・ルオーを記念して建てられた礼拝堂。この村を訪れる芸術家たちの瞑想の場でもあります。

入口の扉の上には、ルオーがエベール・ステヴァンのアトリエで制作したルオーステンドグラス「ブーケ(花束)」があります。祭壇背後のキリスト像(17世紀)は、ルオー自身が彩 色したものです。この貴重な像は、ルオーの次女イザベル・ルオーから贈られたものです。堂内の壁面 にはルオーの銅版画「ミセレーレ」が掲げられています。
建築設計者は美術館と同じく谷口吉生氏です。

ラ・リューシュ
この建物はもともとギュスターブ・エッフェルが設計し、1900年に開催されたパリ万国博覧会のワインのパビリオンとして建設されたものです。
その後、モンパルナスに移築されてアトリエに改装され、通 称ラ・リューシュ(蜂の巣)と呼ばれました。若き日のシャガール、スーチン、モジリアニなどの巨匠たちが住んでいた所として有名であり、現在はパリ市の記念建築物として保存されています。
この建物を模して当地清春に再現されたラ・リューシュも、芸術家たちの創作の場として、内部はアトリエと生活設備が整えられています。

白樺図書館  (現在は閉館中のため入館はできません)
雑誌『白樺』の復刊版や、白樺派ゆかりの作家による文学ならびに美術書を中心として揃えております。また、子どもたちにも文学・美術に慣れ親しんでもらえるよう、絵本をはじめとした美術書もあります。
(以上,http://www.kiyoharu-art.com/library/index.htm より。)

日本人が忘れてしまった夜の暗さ、妖怪も怪談も消えて行く

2016年05月16日 | 日記・エッセイ・コラム
一昨日、漆黒の闇に包まれた森の奥に泊まって来ました。周囲の木々が暗い森の中を歩き回るような恐怖を感じました。
気がつきましたらこんなにも暗い夜を過ごしたのは久しぶりです。
自宅で寝るときは家中の電灯を消しても近所の街灯が明るいので家の中まで明るいのです。街灯の普及で日本の都市部の夜は明るくなってしまったのです。しかし地方に行くと夜は相変わらず暗いのです。
それで考えたのですが、この頃妖怪を見たという話や怪談を聞かなくなりました。
私自身、幼少の時に暗い山裾に人魂が飛んでいるのを見たことがありました。そして「のっぺらぼう」や「かまいたち」や「おいてけぼり」が人間に悪さをする話もよく聞きました。半信半疑ながら熱心に聞いたものです。妖怪たちは身近にいたのです。
小泉八雲の怪談に出て来る「雪女」は雪国に本当にいると思い込んでいました。「耳無芳一の話」や「鳥取の蒲団」を読んではゾクゾクしたものです。
そのような私の楽しみが最近消えてしまっていたのです。街中に住んでいると暗闇の不気味さを忘れていました。
ところが暗い森の奥の一軒家に泊まって、その妖怪たちのことや怪談のこととをいろいろと思い出したのです。
それでは泊まった一軒家のことを写真でご説明いたしましょう。

1番目の写真は森の奥にある一軒家へ行く道の様子です。根気よく半里ほど上って行くとたどり着きます。

2番目の写真が森の奥にある一軒家です。左手前に写っている女性は幽霊ではありません。家内です。その家内のすぐ隣に写っている電灯はガーデン燈ですが、夜になると3番目の写真のように人魂のように見えます。

3番目の写真は夜のガーデン燈の光景です。手前の小川の流れに写ってユラユラ光っている様子は人魂が小川の上を飛んでいるように見えます。

4番目の写真は真夜中の森の光景です。風で木々がザワザワと音がします。木々が歩き回っているのでしょうか。
このような小屋に泊まると夜が怖いのです。80歳になった現在でも怖いものです。
しかし朝になって太陽の光が木々に射して、小鳥たちが啼きだすと生き返ったような喜びにつつまれます。
日が昇るとハルゼミも鳴き出します。子連れのサルの一群が小屋の前を横切っていきます。
暗かった森に命の営みが溢れます。
帰宅後、本棚から小泉八雲の怪談集を取り出して読みました。「雪女」の粗筋だけをお送りいたします。

ある山村に、茂作と巳之吉という2人の樵が住んでいた。茂作はすでに老いていたが、巳之吉の方はまだ若く、見習いだった。
ある冬の日のこと、吹雪の中帰れなくなった二人は、近くの小屋で寒さをしのいで寝ることにする。その夜、顔に吹き付ける雪に巳之吉が目を覚ますと、恐ろしい目をした白ずくめ、長い黒髪の美女がいた。巳之吉の隣りに寝ていた茂作に女が白い息を吹きかけると、茂作は凍って死んでしまう。
女は巳之吉にも息を吹きかけようと巳之吉に覆いかぶさるが、しばらく巳之吉を見つめた後、笑みを浮かべてこう囁く。「おまえもあの老人(=茂作)のように殺してやろうと思ったが、おまえは若くきれいだから、助けてやることにした。だが、おまえは今夜のことを誰にも言ってはいけない。誰かに言ったら命はないと思え」そう言い残すと女は戸も閉めず、吹雪の中に去っていった。
それから数年して、巳之吉は「お雪」と名乗る、雪のように白くほっそりとした美女と出会う。二人は恋に落ちて結婚し、10人の子供をもうける。お雪はとてもよくできた妻であったが、不思議なことに、何年経ってもお雪は全く老いることがなかった。
ある夜、子供達を寝かしつけたお雪に、巳之吉がいう。「こうしておまえを見ていると、十八歳の頃にあった不思議な出来事を思い出す。あの日、おまえにそっくりな美しい女に出会ったんだ。恐ろしい出来事だったが、あれは夢だったのか、それとも雪女だったのか……」
巳之吉がそういうと、お雪は突然立ち上り、言った。「そのときおまえが見たのは私だ。私はあのときおまえに、もしこの出来事があったことを人にしゃべったら殺す、と言った。だが、ここで寝ている子供達を見ていると、どうしておまえのことを殺せようか。どうか子供達の面倒をよく見ておくれ……」
次の瞬間、お雪の体はみるみる溶けて白い霧になり、煙だしから消えていった。それきり、お雪の姿を見た者は無かった。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E5%A5%B3 より)
このような怪談の世界や妖怪文化は消えようとしています。しかし最近、水木しげるさんがそれを復活させました。喜ばしいことです。

それにしても夜はやっぱり暗い方が人間の生活に深味を与えてくれるような気が致します。
陰影が深いほど人間の幸せを光り輝せてくれると思います。
月夜も星空も美しいものですが雲が覆い、漆黒の夜も人間にとっては重要ななものと信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===もう一つ、「鳥取のふとん」=======
鳥取の町に小さな宿屋が開業し、1人の旅商人の男が初めての客として泊まった。ところが、深夜ふとんの中から「あにさん寒かろう」「おまえこそ寒かろう」という子どもの声が聞こえてくるのに目を覚まし、幽霊だと主人に訴えた。主人はそんな話を相手にしなかったが、その後も宿泊客があるたびに同じような怪異が続き、とうとう宿屋の主人もふとんがしゃべる声を聞いた。主人がその原因を調べようとふとんの購入先を当たってみると、次のような悲しい話が明らかになった。
そのふとんは、元は鳥取の町はずれにある小さな貸屋の家主のものだった。その貸屋には、貧しい夫婦と2人の小さな男の子の家族が住んでいたが、夫婦は子どもを残して相次いで死んでしまった。2人の兄弟は家財道具や両親の残した着物を売り払いながら何とか暮らしてきたが、ついに1枚の薄いふとんを残して売るものがなくなってしまった。大寒の日、兄弟はふとんにくるまり、「あにさん寒かろう」「おまえこそ寒かろう」と寒さに震えていた。やがて冷酷な家主がやってきて家賃の代わりにふとんを奪い取り、兄弟を雪の中に追い出してしまった。かわいそうな兄弟は行くあてもなく、少しでも雪をしのごうと、追い出された家の軒先に入って2人で抱き合いながら眠ってしまった。神様は2人の体に新しい真っ白なふとんをかけておやりになった。もう寒いことも怖いことも感じなかった。しばらく後に2人は見つかり、千手観音堂の墓地に葬られた。
この話を聞いて哀れに思った宿屋の主人は、ふとんを寺に持って行き、かわいそうな2人の兄弟を供養してもらった。それからというもの、ふとんがものをしゃべることはなくなったという。