後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

深い悲しみと、深い喜びの混じり合った感動・・・卒業後61年目の同窓会

2012年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム

戦後、すぐに旧制の学校制度が廃止され新しい制度がマッカーサーの命令で始まりました。

我々は仙台市立第十中学校(後に愛宕中学校と改名)に昭和23年に入学し、26年に卒業しました。第二回の卒業生でした。

二期生は350人ほどいましたが、それぞれの人生です。ちりぢりに全国へ散らばって行きました。

しかし多くは故郷の仙台に住み着き、地道な生活を続けました。そして昔の仲間との絆を大切にしながら生きてきたのです。

その一方、かなりの人数は故郷を捨て、東京へ出て行きました。東京で成功し、故郷へ錦を飾るのが夢でした。まあ、当時の風潮がそのようなものだったのです。

私は東京で成功したいという立身出世の夢を持って22歳のとき故郷を出ました。

そしてその後、何十年間も昔の愛宕中学校時代の友人達とは疎遠になっていました。

それが10月14日に秋保温泉で一泊の同窓会するという案内状が来たのです。そして皆、77歳の喜寿になったので、今回をもって最後の同窓会にするという追記もあります。

幹事長は懐かしい杉下成美君です。61年間会っていませんが、野球やバレーボールが上手だった彼の顔を鮮明に記憶しています。

私はこの61年目で、最後の同窓会に出席してきました。

そして、とても深い、深い悲しみにうちひしがれました。と同時に、深い、深い喜びに身が熱くなりました。この悲しみと喜びが同時に私の心の中で渦巻いていたのです。感動です。感激です。

何故、悲しかったか?

2つの理由で悲しかったのです。こんなにも私のことを温かく憶えてくれていた友人へ対して、61年間も不義理を重ねてきた自分の薄情さが悲しかったのです。

そして名簿にあった数多くの物故者のなかに昔一緒に遊んだ友人達の名前が並んでいたのです。今日、同窓会で会えると楽しみにしていた友人たちが旅立ってしまっていたのです。これはショックです。大きな悲しみでした。

大きな、そして深い喜びは昔の友人達が私と遊んだ場面を細大もらさず憶えてくれていたのです。私自身が忘れてしまった一緒の遊びの思い出を一生大切にしてくれていたのです。

一緒に沼で釣りをしたり、冬は同じ沼で下駄スケートをしたのです。

墓場の花竹を取ってきては割って、竹スキーを作ったのです。学校への坂道を滑り降りたのです。

そして一緒に鉱石ラジオや真空管を3、4本使ったラジオまで作ったのです。その友人は真空管の名前まで憶えているのです。お互いの家にはしょっちゅう行ったり来たりしました。

日本全国が貧しい時代でした。我々は必死に遊んだのです。

仙台に残った友人達は、この私との遊びの思い出を一生の宝物のように大切に心の中に仕舞っておいてくれたのです。

立身出世を夢見て東京に出て来た私は一体何を得ることができたのでしょうか?邯鄲の夢でした。

私は仙台に居た昔の友人達に深い感謝をしています。

夜は一室に6人の友人と雑魚寝です。長年、雑魚寝をしたことがなかったのでそれは恐怖の体験になる筈でした。他人へ気を使って眠れないのではないかと恐れていたのです。

ところが反対に楽しいのです。周りに昔一緒に遊んだ友人達が横になっているのです。それは旅先の旅館で家族全員で雑魚寝をする楽しさと同じだったのです。雑魚寝が楽しいとは一生で最初の、そして多分、最後の経験になるでしょう。

最後に世話人になって丁寧に準備を進めてくれた方々の名前を記して、深い感謝の意を表します。本当に有り難うございました。

杉下成美君、加藤一郎君、浅野次郎君、佐藤俊子さん、安部 隆君、海老道子さん、橋本雅夫君、村井恵子さん、横山国明君、佐々木俊夫君、野地ふく子さん、大槻秀子さん、千葉とき子さん、そして懐かしき庄子公男君。

下の写真は全員集合写真にために集まっている場面です。まだ全員が揃っていないので、くつろいだ雰囲気です。

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大津波被害地の復興進まず!・・・現地取材へ行ってきました。

2012年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム

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先日、秋保温泉で仙台市愛宕中学校2回生の卒業生の同窓会がありました。卒業以来61年目です。もう皆、77歳の喜寿なので、最後の同窓会にしようという話し合いをしました。

翌日、私は独りで朝早く、仙石線の電車に乗り、高城町駅まで行きました。そこは松島駅の次の駅で、そこから先、石巻までは線路がすっかり流されて何も無くなっているそうです。

復旧には全く手がついていないそうです。まったく別のルートで山の中を石巻までつなぐそうです。復旧には5年以上かかりそうです。

高城町駅で降りると一台のタクシーしかいません。中年の親切そうな運転手さんがニコニコしています。そこで津波の被災地の写真を撮りに来ましたというと、快くご案内しましょうと答えます。

車に乗り込んで、しばらく走る間にいろいろ聞きました。東松島市の東名(とうな)町に行きますと言います。自分の家のあった町だそうです。

運転手さん自身の家も流されて何も無くなったと言います。幸運にも家族だけは生き延びたと言います。

そこで、私はその運転手さんの家のあった所へ案内して下さいと言いました。車は快調に数キロ走ります。津波の来なかった舗装道路です。

しかし東名駅に着くと、それは下のように幅の狭いホームが残っているだけです。

鉄の重い線路がすっかり津波で海中へ持って行かれたと言います。そして数年先には向こうの山の中に新しい線路を作るそうです。

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この東名(とうな)駅は昔、野蒜海岸へよく海水浴に行ったので何度も通過した駅です。名前が「とうな」と遠方の海を連想させるのでよく憶えていました。

踏切らしいところを横切って、海側に出ると、そこは一面の荒れ地になっています。600人位の住民がすんでいて、260人が犠牲になったそうです。

一面の荒れ地の所々に上の写真のように津波の猛威をしめす家々がかろうじて立っています。

下の写真が運転手さんの家のあった場所です。門のあった所に彼が茫然と立っています。

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下は彼の家の門の所から庭の方向を見た写真です。庭さきは海です。

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運転手さんは庭に入って来て、ここが玄関で、居間はここ、台所はここと説明しています。そして庭の奥には娘夫婦一家の家がありました。大きな庭木も沢山ありましたが、ご覧のように根こそぎ津波に持って行かれました。残った木々も海水で写真のように枯れているのです。

私は実名で真面目にブログ記事を書いています。出来たらお写真を出させて下さいと頼みました。よいですよと快く応じてくれたのが下の写真です。運転手さんの悲しそうな表情をご覧下さい。

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いろいろな話を聞きましたが、最後に彼の家族の助かった理由を書きます。

大地震が起き、津波の来るまで1時間40分あったそうです。彼の家族全員は800mほど離れた石切り場のあった山の祠に逃げたそうです。下の写真の山の上に逃げたのです。

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津波が来た時、運転手さんは被害の無かった高城町駅近辺でタクシーの運転をしていました。東名地区は全滅だという噂がすぐに伝わりましたが道路が破壊されていて身動きがつきません。勿論、電話は不通です。家族も駄目かと諦めつつ、2日目に歩いてやっと自分の家のあった場所に着きました。

もう駄目だと思っていたところに通りかかった近所の人が、あの石切り場へ逃げて、全員無事だったと教えてくれたそうです。

この運転手さんは幸運でした。間もなく山沿いに新しく家を作ったそうです。もとの土地は怖くて二度と住めないそうです。その土地は政府が一坪9600円で買ってくれるという話だけはあるそうです。

東京のマスコミは復興された元気な商店や意気盛んな漁師のことが何度も報道されています。ですから大津波の被災地はちゃくちゃくと復興が進んでいると思っています。

しかし現地に行ってみると全く手がついていない土地が茫々と広がっているのです。

三陸海岸から福島まで広大な荒れ地が手つかずのまま、ひろがっているのです。ガレキの山もあちこちに異臭を放ちつつそのまま残っているのです。

そしてまだまだ多くの人々が仮設住宅に住んでいて、将来の計画も無い暗然たる毎日を過ごしているのです。

被災地の復興はいまだ進まず。何も進んでいない所のほうが圧倒的に広いのです。この事実を忘れないようにとこの記事を謹んで、皆様へお送りいたします。

今日は東日本大震災の被害者が、自分の将来をあきらめずに、希望の灯を心に燃やし、すこしづつでも復興の歩みを進めることが出来ますようにお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)