後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

お釈迦様もイエス様も原子力発電を悲しんでいらっしゃいます

2011年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム

この世の慾に執着してはいけません。栄華に執着してはいけません。祇園精舎の鐘の音のように全ての栄華は儚く消えて行きます。全ての執着心を捨てると浄土の世界を見ることが出来ます。お釈迦様は哀れな衆生を慈しんでそのように教えました。

イエス様も言いました。慾に生きる人は私の弟子ではない。慾とは権力慾や金銭慾の事です。彼らを私は知らない、私とは無縁の人々です。イエス様は権力慾や金銭慾に生きる人々を嫌いました。そして質素な、そして心の貧しい人々を愛したのです。貧しいが慾の無い人々を愛し、慈しんだのです。

権力慾や金銭慾の故に原子力発電を推進してきた人々をもイエス様は愛します。しかし悲しい気持ちで愛しているのです。下の写真にように貧しい馬小屋で生まれたイエス様は慾の無い人々が好きでした。宿屋が満員で泊れなく、馬小屋の中でマリア様が、赤子を生んで、飼葉桶の藁の上に寝かせたのです。

お釈迦様やイエス様は原子力発電にこだわる人々を悲しい気持ちで見ていらっしゃいます。

やはり原発は止めたほうがよいのではないでしょうか?これが私の感じ方なのです。ご反対の方からのコメントを期待しております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

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危険と分かっていても高速増殖炉「もんじゅ」の魅力・・そして他の原発の魅力

2011年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム

今回の福島原発のレベル7の重大事故に刺激されて、もう一つの発電方式の高速増殖炉の危険性が真面目に議論されています。このブログでも昨日紹介しましたshiba_yu36 さんの記事です。「福島原発以上に危険性のある高速増殖炉もんじゅで今起きていること」で、そのURLは、http://d.hatena.ne.jp/shiba_yu36/20110329/1301399251#c です。

この記事は内容が手堅いだけに多くの賛否両論のコメントが寄せられています。それらのコメントは大きく分類すると次の3種類に分けられます:(1)高速増殖炉の危険性を厳密に、科学的に議論しているコメント、(2)科学抜きにした感情論的コメント、(3)高速増殖炉や沸騰水型軽水炉原発の地域経済との関連を議論したコメント、などです。

私は特に(3)に関して深く考え込んでしまいました。原発の危険性の技術論だけを考えるのは視野が狭すぎます。そこで私は(2)も視野に入れる必要性も信じて、総合的に原発反対の立場に立っていました。私は原発反対の立場は変えるつもりは一切ありませんが、下のコメントを読み、考え込んでいます。

以下のコメントは高速増殖炉「もんじゅ」の存在している敦賀市に住んで居るある方が投書していたコメントの一部です。

=====敦賀市に住んで居るある方より(抜粋)===========

地元に住んでるとね、原発というのはいかに強大な存在かつくづく思います。
巨大な企業誘致であるので膨大な雇用を産み、近所友人にも原電関連企業の社員が何人もいる。
原電にまったく関係がない私の職業も、間接的に資金が回った仕事が来るし、原発マネーの入った行事、イベント(花火とか祭とか)、施設で自分自身も子供も市民も愉しんでいる。住んでるだけで電気料金補助があり、かつて、船でしか行けない陸の孤島だった敦賀半島は国道並みの道路が走り、市内の学校は一気にRC化、人口7万に満たない小都市とは思えない市民病院。しかし、原発財源が無いと何も進まない地元経済、大都市圏並みの物価高、自活力をそぎ、考える力を奪った。
福島原発の地元は本当に発展したのか?この事故のリスクを負える発展や見返りがあったのか?
これまで福井県全体+他県隣接地で数千億円もの金が入った。小浜市民の方、お金一切貰ってないって事はないよ。立地自治体よりはかなり少ないし固定資産も入らないけど、寄付金もけっこうある。JR小浜線は電化までしたし。だからって原発リスクを負えるのか?負えって言うの?違うよね?
以前、ネット議論をしていた頃、ゴミ処理場や米軍基地のようなモノだと言ったら原発社員が怒ってね。震災以前の何十年前から原発議論は水掛論議になって疲れます。でも、今回は事情が事情。こうやってネットやってられるだけでも被災者を思えば有り難いというか何というか。これを機会に次世代エネルギー論が急速に進み、技術も進むと思われます。(そう思いたい)

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原発推進で権力が増大する政治家や役人、大きな利益が上がる電力会社の経営者、そして何よりも原発のお陰で経済的に得をする地元の人々。人間に権力慾と金銭慾が有る限り原発廃絶はほとんど不可能なような気がします。

原発を廃止するか否かは人間の根源的な慾と深く結びついているのです。危険性の科学的議論や感情論ではどうする事も出来ないようです。皆様はどのようにお考えでしょうか?


今日の散歩道・・・奈良時代の武蔵国の首都の散策

2011年04月20日 | インポート

今日の散歩は710年に武蔵国の首都となった現在の府中市の国府跡の周辺の散策でした。

武蔵国(むさしのくに)は大和朝廷が定めた律令国家の一つで、21の郡を有する大国でした。現在の埼玉県と東京都の大部分と、川崎市、横浜市の大部分を含んでいました。

645年に大化の改新が行われ国司(武蔵守すなはち武蔵国の長官)が大和朝廷より派遣されました。そして710年に現在の府中市の大国魂神社に隣接して国府の建物群である国衙が建設されたのです。尚、この大国魂神社は国府の設置よりも古く、AD100年頃と言われています。今年はその鎮座1900年祭をします。

下に現在の大国魂神社の参道のケヤキ並木や街の風景写真をお送りいたします。

写真の下にはついでに大和朝廷から派遣された武蔵国の長官の名前と着任の年を付記しました。武蔵国の国分寺が出来たのも750年前後です。長官の名前では、平群広成の頃と考えられます。小さな写真にはその頃使われていた丸い硯や土器の皿なども写っています。

今日の散歩ではそのような古い奈良時代の府中の町の様子を想像しながら散歩したので、浩然たる気持になりました。青い空のもと爽快な散歩でした。

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さて、武蔵守 (大和朝廷から派遣された武蔵野国の長官)について付記します。

引田祖父703年〈大宝3年〉~)、当麻桜井708年〈和銅元年〉~)、大神狛麻呂715年〈霊亀元年〉~)、多治比縣守719年〈養老3年〉~)、布施国足731年〈天平3年〉~) 、多治比広足738年〈天平10年〉~)、紀清人746年〈天平18年〉~)、平群広成752年〈天平勝宝4年〉~)、石川麻呂754年〈天平勝宝6年〉~)、高倉福信756年〈天平勝宝8年〉~)、石川人成764年〈天平宝字8年〉~)、巨勢公成766年〈天平神護2年〉~)、藤原雄田麻呂768年〈神護景雲2年〉~)、高麗福信770年〈宝亀元年〉~)造宮卿従三位 、藤原浜成774年〈宝亀5年〉~)刑部卿 正四位下・・・・以下省略します。


欧米から輸入した技術の使い方・・・(1)旗艦、三笠・日本丸・原発は全て輸入技術

2011年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム

多くの日本人は福島原発は日本の会社が作ったと思っています。しかし欧米が開発した原子力発電技術を輸入したものなのです。建設は確かに東芝や日立が担当しましたが、設計と運転技術はアメリカのジェネラル・エレクトリック社から輸入したものです。その輸入技術を何故上手に使い切れなったかという深い問題を考えて見たいと思います。

その為には、日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅した旗艦の三笠の場合と、60年以上の長年月にわたって日本の船員養成に貢献した帆船・日本丸の事情を振りかえって見ましょう。まず横須賀に保存、公開されている戦艦、三笠の写真をご覧下さい。2009年に小生が撮影しました。

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この戦艦は1900年に英国のビッカース造船所で作られ、明治政府が輸入しました。この15140トン船は戦艦なので戦闘目的に関係しない装備は一切ありません。士官室は後部、水兵室は前甲板の下と画然と分離され規律保持が徹底されています。砲弾庫は船底の一番安全なところにあり、大量の食料は長期作戦のために冷凍庫に保存されています。撃沈した敵の戦艦の乗員を救助し、捕虜にする予定で「捕虜収容室」も装備してある。エンジンは石炭を燃やす蒸気機関で15000馬力、18ノットでした。

この船の輸入と共に操船方法と戦闘技術は英国海軍から忠実に輸入されたのです。ですから日本の海軍はイギリスの海軍と全く同じ戦闘方式を取るようになりました。東郷元帥が勝利したのはその輸入技術を自分で改良して日本海海戦に臨んだ為です。この日本と英国との信頼関係の故に、その後の日本の商船の船員養成もイギリス方式に従って行われて来たのです。英国から帆船、日本丸を1930年に輸入し、戦後までの長い期間活用して来たのです。その日本丸は現在、横濱のドックに係留され一般公開されています。毎年、春と秋に全ての帆を上げる訓練を現在でも実施しています。下に2009年春に帆を上げた時、小生が撮影した写真を示します。

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この帆船はイギリスのラメージ&ファーガソン社が作りました。それを分解して日本へ運び、組み立てた2279トンの船です。現在でも船内の鋼鉄製の梁にはラメージ&ファーガソン社の名前が刻印されています。補助機関のエンジンだけは日本の池貝鉄工所製の600馬力2基が使われています。帆船なので29枚の帆の上下は全て人力だけで行います。太平洋を何度も横断しながら商船に乗る士官の訓練をイギリス方式で行って来たのです。上の2つの輸入技術は日本人が根気良く訓練を重ねその長所を使い切ることに成功した最善の実例です。

さてそれに比較してアメリカから輸入した原子力発電の技術の場合は何故失敗したのでしょうか?

日本へ輸入された原発には大きく分けて三つの方式があります。加圧水軽水炉、沸騰水型軽水炉と高速増殖炉です。下には沸騰水型軽水炉の見取り図を示します。

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ここで原子炉の開発の歴史を少しだけ振りかえって見ましょう。

その最初は1942年シカゴ大学のエンリコ・フェルミ博士がつくった核分裂連鎖反応施設でした。そして1951年には初めて1kw発電用の原子炉、EBR-Iが出来たのです。

西側で初めて商用発電が始まったのは1956年で、イギリスのコールダーホール原発は6万kwの出力でした。この原発は2007年まで稼働し、老朽化の故に爆破、処理されました。そのすぐ後にアメリカやフランスで商用原子力発電が始まり普及し始めたのです。原発の設計、製作では特にGE社やウエスチングハウス社が有名になり、日本もこの両者から原発の技術を輸入して来たのです。

このように欧米からの輸入技術という事では戦艦、三笠も帆船、日本丸も原理力発電も全く同じなのです。

さてこれらの3つの輸入技術のうち、三笠と日本丸は日本の発展に大きな貢献をしましたが、原発だけは何故大事故を起こし多くの日本人を不幸にしたのでしょうか?その原因の考察は次回の記事で行います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

藤山杜人