後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

どちらが本当でしょうか?

2010年03月09日 | うんちく・小ネタ

皆様へ、

ユダヤ人を助けたのは杉原千畝さんだけではありません。その2年前の1938年、シベリア鉄道でやって来たユダヤ人へ、満州の通過許可を与え、日本軍が占領していた上海租界のユダヤ人街へ送りこんだ高級軍人が居たようです。居たようです、と不確定な表現にしたのは、以下のような2つの資料を発見したからです。

どちらが本当なのか皆様のご意見やご指導をお待ち致しています。

敬具、藤山杜人

023 (1)Wikipedia の記述:

満州国境のソ連側のオトポール駅に溜まったユダヤ人5000人を助けた樋口中将のことを、Wikipediaは以下のように書いています。

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1938350002万人のユダヤ人ナチスの迫害下から逃れるため、ソ連満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道オトポール駅まで避難していた。しかし、彼らは亡命先に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、足止めを食らっていたのである。樋口はこの惨状に見かねて、ユダヤ人に対し、直属の部下であった安江仙弘大佐や河村愛三少佐らとともに即日給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更に膠着状態にあった出国斡旋、満州国内への入植斡旋、上海租界への移動の斡旋等を行った(オトポール事件)。樋口は「彼ら(ユダヤ人)の何千人が例の満洲里駅西方のオトボールに詰めかけ、入満を希望した」と書き記しているが、芙蓉書房は彼の手記にある数字を勝手に2万人に改竄している。樋口がナチスの人種差別政策に激しい憤りを抱いていた背景には、ポーランドドイツ駐在武官として赴任していた際に受けた人種差別が根底にある。ドイツなどでは一般の家庭であっても宿泊を拒否されることがしばしばであったが、一方でユダヤ人の家庭だけは樋口を温かく迎えてくれた。

=============以下省略============

(2)、「樋口季一郎中将とユダヤ人・史実編」ttp://homepage2.nifty.com/funi/higuchisijitu.htm に客観的、かつ詳細に検証しています。

その結果、上の記述は助けたユダヤ人の数が多すぎるという検証結果を記述しています。その冒頭部分のみ以下に転写します。

===オトポール事件の史実としての検証=======

 話の一つのヤマとなっております樋口中将(最終階級)が満州でユダヤ難民2万人を救った逸話(「オトポール事件」とこの稿では呼称します)の事実関係について少しふれたいと思います。
 私もこの話を最初にきいたときは、拍手をおくりたくなるような思いにとらわれましたが、実はこれは少し怪しい話なのです。
 といいますのは、このエピソードは、樋口中将自身の手記「アッツキスカ軍司令官の回想録」(芙蓉書房)以外には記述されている書物が見あたらないのです。ほかには光人社から出版されている相良俊輔氏の「流氷の海」がありますが、この本は樋口中将の手記を小説風に描いたものですので、事実確認をとるには無理な本ですし、根拠にはできません。
 2万人ものユダヤ人を助けたのであれば、「私はゼネラル・ヒグチに助けられた」という証言者があっていいはずですが、私の調べた限りでは皆無です。ちなみに、かの杉原千畝氏が救ったユダヤ人は6千人といわれていますが、こちらは何人も証言者がおりそういった本も出ています。オトポール事件が事実ならば、杉原氏の3倍以上の人数を助けたことになりますので、それなりに証言者がいていいはずなのですが。

======以下省略===================

結論は慎重な態度なので明確には書いていません。しかし、助けたユダヤ人の数は数十名くらいであったと暗示の文章が終りのほうにあります。

(続く)


庭の梅の枝にメジロが来る季節になりました

2010年03月09日 | 写真

002 ごく詰まら無い写真で恐縮ですが、我が家にとっては大切な風景です。春が来たことを教えてくれる風物詩です。餌入れのイヨカンをよく食べます。大きなヒヨドリも来ます。鳩もきます。

しかしメジロやシジュウカラが来ると飽かずに眺めています。このPCのある窓からよく見えるところです。


国家の消滅と再興を繰り返す東ヨーロッパ(5)第二次大戦中のエストニア、ラトヴィア、リトアニアの悲劇、

2010年03月09日 | うんちく・小ネタ

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エストニア、ラトヴィア、リトアニア3国は、1940年にソ連に占領され、1941年にドイツに占領され、そして1944年に再びソ連に占領され、終戦後はソ連の隷属国家になったのです。1991年に3国は悲願の完全独立をし、その後、EUとNATOへ加盟し西ヨーロッパの陣営に参加するのです。

このように書くと、我々日本人は戦後のアメリカによる占領を思い返します。バルト3国も単に占領する国が交代しただけで大した悲劇では無かったと思いがちです。

日本人の経験したアメリカによる占領は世界史的に見ても一番穏健な占領の仕方です。その経験だけでバルト3国の占領を考えると大きな過ちをおかします。

占領したソ連・ドイツが占領地のリーダーを強制連行し、殺してしまうのです。第二次大戦中の3国の人口の20%が殺されたといいます。この数字は悲劇の国、ポーランドに匹敵します。

1941年5月22日、ドイツはソ連との不可侵条約を破り、ソ連領内へ侵攻します。バルト3国もドイツ軍がすぐに占領する勢いです。ドイツ軍がバルト3国を占領する1週間前の1941年6月13日に、ソ連はバルト3国の幹部48000人も逮捕しロシア北部やシベリアへ強制抑留したのです。この強制抑留の対象は政府関係者、知識人、文化人、政治エリートや聖職者でした。もともと人口が数百万人しかいない国々から、各界のリーダーを4万8千人も強制連行したのです。

この48000人の強制連行とシベリア流しの終った直後の1941年6月22日にドイツ軍はリトアニアへ、そして北へ進撃して、7月1日にはリーガ市を占領し、7月5日にはエストニアまでを占領してしまったのです。占領と同時にドイツ軍は住民の若者を動員してドイツ武装親衛隊の兵力として投入し、ソ連軍と戦わせました。特に1944年にエストニアへ侵入してきたソ連軍とは、1941年のエストニア人の大量シベリア送りの遺恨もあり激しい抵抗をしたようです。

しかし、1944年の9月末までにソ連は再びバルト3国を完全に占領します。この時、性質の違う2つの悲劇が起きます。

1)ドイツ軍に投入され、ソ連と戦ったエストニア兵士がソ連の再占領直前に中立国であったスウェーデンに逃げます。しかしソ連は執拗にスウェーデン政府に、難民収容所にいたエストニア兵の引き渡しを要求します。エイストニア兵の代表が引き渡しを防ぐため、スェーデン政府に死をもって抗議します。しかし結局はソ連へ引渡され、シベリヤ送りになるのです。その運命は想像するまでもありません。そして四十数年後の冷戦終結後にエストニアを初めて訪問したスウェーデン国王が、エストニア兵をソ連へ引き渡したことへ対して謝罪するのです。日本のマスコミではほとんど取上げられなかったのですが、王様が謝罪することはヨーロッパ人にとっては大きなニュースです。

2)再占領したソ連軍は現地の人々を強制徴兵し、ドイツへ攻め込む戦力として投入しました。その数は、エストニア人3万人、ラトビア人5万人、リトアニア人8万2千人と言われています。この時、ソ連による徴兵を逃れて深い森へ隠れ住み、ソ連へ抵抗を継続する人々も居ました。彼らは、「森の兄弟」と呼ばれ、その数は多い時で人口の0.5%から1%のも達し、その抵抗はその後およそ10年間も続いたと言われています。

第二次大戦後、エストニアとラトビアの国土は大きく削られてソ連領になってしまいます。

私が皆様へお伝えしたい事はただ一つです。ヨーロッパにおける第二次大戦は日本人が想像出来ないくらい残酷で、悪魔の所業のようだったという事実です。狂気の沙汰です。20世紀の人類は気違いになってしまったのです。その残滓は今でも人々の心に巣くっています。核兵器が多量に存在している事がその証です。人間は常にこの事を忘れないようにしなければいけません。(続く)


孤独な生活を幸せに過ごすためのチョッとした精神的訓練法

2010年03月09日 | うんちく・小ネタ

3月7日に、幸せな孤独と不幸な孤独ー老境を楽しく過ごす方法 という記事を出しました。その終りの方で、幸せな孤独というものの説明を続編でしますと書きました。

そこで、今回は「幸せな孤独」を作るためのチョットした精神的な訓練法をご説明致します。

老境に入ると子供は独立して家を出て行きます。夫あるいは妻が早くから亡くなって心ならずも独りで暮らす場合もあります。恩人や知人も一人、二人と亡くなり、気が付いて見ると独り取り残されたような感じになります。このような状態を孤独な生活と言います。一般的には悲しい、淋しい灰色の生活と思われています。

そうです。自分の不幸な境遇を嘆き悲しんでばかりいては何時までも暗雲に包まれた暗い日々を送ることになります。

そこでチョットした精神的な訓練をしましょう。

(1)亡くなった方々へまず感謝の気持ちを持つ訓練です。それには声を出して、「お母さん、いろいろ優しくしてくれて、有難う!」と言います。そのように他の数人の人々へ対しても、お礼を声に出して言います。

これで訓練の第一歩は終りです。暗雲に少しだけ雲が切れ、光が見え始めます。

(2)現在の家族、子供や嫁や孫との関係をもっと緊密にしようとしてはいけません。そのための精神的な訓練をします。嫁に、「Y子さん、私の息子と結婚してくれて有難う! 子供を作ってくれて有難う!お陰で孫が出来て嬉しいよ!孫の面倒をみて忙しいから、こちらのことは心配しなくて良いよ!」と声を出して言うのです。

これで訓練の第二歩目は終りです。暗雲が切れ、少しだけ青空が見え始めます。

(3)炊事・洗濯・掃除を楽しむための訓練をします。料理は一気に複雑な料理に挑戦しないことです。フランパン一丁で出来ることから始めます。ゆっくり、次第に複雑な料理方法へ進んで行きます。時々は外食をして美味いものを食べます。

洗濯・掃除も少しずつ前進して行きます。思い余ったらダスキンという会社へ頼んで掃除のプロに来て貰い、掃除の仕方を見て覚えます。

自分独りだけで生活をして行ける自信がつき、気が軽くなります。

これで訓練の第三歩目は終りです。暗雲が無くなり、雲の多い青空になります。

(4)淋しくても独りで出来る趣味を見つけ、それに打ち込みます。淋しいからといって知人、友人としょっちゅう一緒に酒を飲んではいけません。たまには良いのですが、月に1回ぐらいにします。その他の時間は独りで出来る趣味を楽しみます。精神的な自立心を養うための訓練になります。

私の場合は独りで湖に出て行って、セイリングを楽しむことにしています。精神が自立して、健康な心になります。下にその様子の写真を示します。

これで訓練の第四歩目は終りです。すこし白い雲の流れる青空になります。

(5)全ての人間関係や身の回りの物事に執着しない、自由な精神を作るための訓練をします。「度を過ごして美味しいものを探しません!」と声を出して言います。

憎しみのある人には、「@@さんを許します。もう執着していません。忘れてしまいました!」と言うのです。ボロ家でも、建て直そうと執着しません。「このボロ家を終の棲家とします!」と声を出して言うのです。

孤独で幸せな生活をするにはこの(5)の境地が一番重要です。(1)から(4)までは(5)に至る為の階段なのです。

いかがでしょうか?楽しさで輝く老境をお過ごしでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人

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