後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

イスラム諸国を植民地にした欧米の負の遺産

2009年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム

過激なイスラム主義者が2001年9月11日にニューヨークの貿易センタービルやワシントンDCにある国防省のペンタゴンを攻撃して以来、アフガン戦争やイラク戦争が起きた。この戦争の直接的な原因はアメリカの大規模な武力行使である。しかし、もう少し歴史的に考え、欧米によるイスラム諸国の植民地化が原因であるという説明がよくなされている。

筆者はイスラム国を訪問したことが無い。しかし以下の中国での話は、植民地支配への怨念の深さを示している。外国体験のいろいろ(10)の一部を抜粋して再録する。

@中国人の植民地主義への怨念

中国5000年の歴史で、西洋人に侵略され植民地になったことは歴史的大事件であり、その期間は清朝から1949年の共産国家成立までの約百年に及ぶ。北京の大学へ集中講義に行った際、親しくなった教授から「59年にソ連と中国が大喧嘩をした理由を知っていますか」と聞かれたことがある。「日本の新聞では、イデオロギー路線の論争でソ連が絶交して出て行ったことになっている」と私。

この教授は苦笑いして「イデオロギー論議なんて高尚な話ではない。ソ連の空軍と海軍が中国全土の空港と港湾を自由に使い、すべての軍事作戦の指揮権をソ連に与えよと要求したからである。簡単に言うと、中国全土がソ連の植民地になるということだ」「それは知らなかった」「毛沢東は断固拒絶した。ソ連は中国全土から引き揚げる時、無償供与した工業設備をネジ一本まで貨車に積んでシベリア鉄道で撤収した。私の大學でもすべての実験装置が持って行かれ、ガランとした建物だけが残った」。

昔、上海の英国租界の公園に「中国人と犬は入るべからず」という看板があった。この看板を中国人は今でも忘れない。靖国問題を非難する中国にはいろいろな理由がある。しかし、中国全土の国家重点工業特区に、欧米や日本の企業が立派な工場をつくった1990年ごろからこの問題が大きくなった。工業団地は周辺の貧しい農村とあまりにも違う。特区の恩恵にあずからない貧困農民には、工業特区がかつての外国租界や植民地と同じように見えるに違いない。

特に、内陸部の生活格差の不満を解消するには、日本のかつての軍国主義と植民地主義を攻撃しなければならない。欧米列国は租界をつくったが、広範に武力占領をしたのは日本のみである。1990年代に河北省の工業団地へ何度か行ったが、日本の工場進出歓迎は尋常でない。しかし、映画館のポスターには日本軍閥粉砕の赤い字が大きく踊っていた。「あの映画はなんです?」「あ、あれは娯楽映画ですよ。現在の日中友好に関係ないです」と、特区の幹部は軽く答える。

====================以下省略==========

中国人は礼儀正しいから、日本人である筆者には直接何も言わなかった。

しかし、満州国という植民地、そして南京虐殺などへ日本人の子孫として罪悪感を感じ、深く反省せざるを得ない。

以上の体験からだけでイスラム諸国の欧米への怨念の深さを短絡的には説明するつもりはない。

アメリカ追随も良いが日本人は近代の歴史を少し考えてみることも重要である。

(終わり)


春節の飾りをした立川中華街

2009年01月19日 | 写真

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立川中華街はJR立川駅の南口のグランデュオというビルの7階にある。

中国のお正月は旧暦に近い農歴のなので毎年2月に来る。立川中華街には北京、上海、四川、広東、香港、台湾の各地の料理店がそろっている。まもなく来る春節のお祝いの為の飾り付けが華やいでいる。

中国の春節には都会に出て働いている人々が一斉に故郷に帰る。1週間か10日以上の休日なのだ。中国にいる日本人が仕事にならないとよくぼやく季節でもある。しかし中国人にとっては離れ離れの家族が会える一番重要な休日なのだ。そのような喜びが立川中華街にも溢れている。働いている中国人が故郷を思っているのだろう。

昨日は小生の73歳の誕生日で、家内が北京料理をご馳走してくれた。龍福園という店である。昼でも、「夜のメニュー」の料理はもとよりメニューに無い料理でも出してくれる。

立川中華街では料理人やウェイトレスは中国人なので、中国語が飛び交っている。味を日本人向けに変えていない本場の味である。横浜の中華街には及ばないが試してみる価値はあると思う。ご存じの方も多いとは思うが、ご参考までに写真数枚とともにご紹介いたします。

尚、全ての料理店の詳細な情報は「立川中華街」として検索すると出てくる。 (終わり)


日本人とアウシュヴィッツのかかわりを考える(1)論理ではなく感じ方を

2009年01月19日 | インポート

[ベルリンに住んでいる若い中村真人さんへ、73歳の筆者から送ったメールの一節]

ーーーー前の部分の文章は省略ーーーーー

戦前生まれの日本人は「無抵抗のユダヤ人を600万人殺戮した国」と軍事同盟したのですから、アウシュヴィッツへ全然関係がないとは言いきれないと感じています。

このような感じ方を他の日本人へ話すと、関係ない!という意見が多いのです。
また、 戦後生まれの日本人には罪が無いという主張もよく聞きました。それら全ての人々の考えは論理的には正しいのかも知れません。しかし個人の感じ方は人それぞれで、色々な感じ方があるのが自然です。

私自身の感じ方を書きます。ヒットラーが行ったユダヤ人600万人、ジプシー60万人その他身体障害者などの大量殺戮については、罪悪感を感じます。

===中村真人さんからの返事のメールの一節===
おっしゃっていることには非常に共感できます。
戦争の痕跡が今も至る所に見られるベルリンという町に身を置いてみますと、60年前というのがそんなに昔ではないことが実感できます。
そのようにして、過去の人々、文化、歴史というものと現在の自分はどのようにつながっているのだろう、その接点を見出すことに興味を持つようになりました。
あの戦争は自分の世代が引き起こしたものではありませんが、親や祖父母など自分の身近な人々は直接関わり、場合によっては大きな苦しみを体験したのですから、他人事とは
思えません。
アウシュヴィッツを訪れたのは、なぜこんなことが起こりえたのかを知りたいという興味、
そして犠牲になったユダヤ人と同じ場所に身を置いて少しでも追悼したいという気持ちが
あったからではないかと思います。

ブログで過去の暗い話題を書くとアクセス数が減るかも知れない。もうこの様な暗い話は止めにしようと思っていました。

しかし戦後生まれの中村さんから共感できます、という返事を貰ってしまった。やっぱり書かずにはいられない。

明治維新以後の日本人はイギリス、ドイツ、フランス、アメリカなどを模範として国を作り上げて来た。科学や技術を学び、議会政治を導入し日本を軍事的にも強い国にして来た。

その過程において欧米人を優れている人種として尊敬もしてきた。「汝の敵を愛せよ」と言うキリスト教も崇拝する傾向があった。クリスチャンであるはずのドイツ人が異教徒のユダヤ人の大量殺戮をしたのだ。ヒットラーはユダヤ人の殺戮の命令者であった。しかしヒットラー個人のみでは実行出来る筈はない。多数のドイツ兵が協力して実行したのだ。私自身がドイツ兵であったとしたら、きっと殺戮へ協力し実行したであろう。ホロコーストの本当の怖さはここにあると思う。

中村さんは言う、「過去の人々、文化、歴史というものと現在の自分はどのようにつながっているのだろう、その接点を見出すことに興味を持つようになりました」、と。

これは彼の感性の問題であり、すべての人々がそうあるべきと主張しているのではない。

今日から、「日本人とアウシュヴィッツのかかわりを考える」と題したシリーズ記事を書いて行く決心をした。この題目通りの内容ではないときもあるが、「過去の人々、文化、歴史と自分の関わりを探す旅へ」へ出発したいと思う。

そんな決心をさせてくれた中村真人さんへ深い感謝を覚えています。(続く)