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岩国城 パート2

2017年06月16日 17時00分38秒 | 日常の散歩にて感じた事

 

                          岩国城パート2

 

 

 

 

 

 

平成29年6月16日(金)に、午前中は畑けに野菜の水巻(キューリ、ナスビ、トマト、
スイカ、カボチャ、等に)に行きました。午後は、友達のMさんと岩国城にでも行
って見ようと相談しますと、彼は(Mさん)40年も岩国に住んで居るのに岩国城を
見学した事がないと返事が返って来ました。それは是非行きましょうと私は誘いま
した。私は度々岩国城は見学して居ますが、最近私はブログを更新して居ませんの
で丁度良いチャンスと思いこれを今回のブログに入れる事にしました。

◆それではいつもの様に岩国城を少しお話し致します。

◎城下町岩国の沿革

岩国地方には、平安末期に「岩国氏」と称する 「平安」に属する一属がいて、相当
の勢力を持って居ましたが寿永4年(1185)「壇ノ浦の合戦」でその地位を失いました。
之に代わって勢力を振るったのが「弘中氏」で、鎌倉時代末期には周防国防護職であっ
た「大内氏」の武将となっていました。
しかし、弘治元年(1555)「厳島戦争」で「毛利元就」に敗れ滅亡しました。
戦国時代の末期、中国地方のほとんど(8ケ国3郡)を領有し、112万石の大大名となった
「毛利氏」も慶長5年(1600)、「関ヶ原の役 」ののち、防長2国に厳封され。
出雲の国富田城(12万石)にあった「吉川家」も岩国3万石(後に6万石)に転封されました。
吉川氏の家系は藤原氏の分かれで、元々関東が地盤でした。「吉川氏」の始祖「経義」は
駿河の国に始まり、正和2年(1313)5代「経高」は安芸国に移り、13代271年間の活躍
をしました。
尚、初代岩国藩主「吉川広家」はサンフレッチ(3本の矢)の教訓状を書いた「毛利元就」
の子「元春(吉川氏の養子)」の三男にあたります。岩国藩は271年間、藩政の方針として、
文化の向上につとめ、尚、2,000余町歩に及ぶ大拓を行い、産業の振興、勤勉貯蓄の美国
に努めました。この結果、岩国藩の石高は、幕末には実質10万石以上と言われる程になり
ました。

◎悲運の岩国城

岩国に移った「吉川広家」は、要衝の地横山の山頂に要害を、山麓に居館を築くことにし、
慶長8年(1603)山頂の起工式を行い、同13年(1608)に岩国城が完成しました。
横山にの三方を迂回する錦川は天然の外堀で、川向こうに町割を行い城下町が形成されて
いきました。緑の山頂にそびえる白亜の天守は、3層4階の上に物見を置くという、桃山
風南蛮造りの山城で、藩の象徴として仰がれていましたが、元和元年(1615)江戸幕府の
「1国1城令」により、完成からわずか7年で破却の運命に見舞われました。
以来、山下の居館だけで藩の政治が行われました。第2次世界大戦後、岩国城再建の動き
が活発になり、昭和32年には遠く「ハワイ岩国市人会」をはじめ、市民より多額の募金
が寄せられ、昭和37年に復元されることになりました。

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