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「千本ゑんま堂」(せんぼんえんまどう)

2009年07月14日 07時42分27秒 | 古都逍遥「京都篇」
 光明山歓喜院「引接寺」は本尊に閻魔法王を祀っていることから、通称「千本ゑんま堂」として親しまれている。
 開基した小野篁(おののたかむら)(802~53)は、百人一首の歌人として知られるが、この世とあの世を行き来する神通力を持っていたとされ、昼は宮中に、夜は閻魔法王に仕えたと伝えられている。
 あるとき小野篁は、閻魔法王より塔婆供養と迎え鐘を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える法儀「精霊迎えの法」を授かり、この地をその根本道場として自ら閻魔法王の姿を刻み朱雀大路頭(現西陣の西北千本通り)に建立した祠(ほこら)が当堂の初めとされている。また、この地は「化野」「鳥辺野」と並び、篁が定めたと伝わる平安京三大葬送地のひとつ「蓮台野」の入口にあたり、現在も周辺からは多くの石仏群が出土している。当堂から蓮台野へ亡骸を葬った際に建立された石仏や卒塔婆が、この辺りには何本も無数にあったことから「千本」の地名が残ったといわれている。

 その後、寛仁元年(1017)藤原道長の後援を得た比叡山恵心僧都源信の門弟・定覺上人がここを「諸人化導引接仏道」の道場にするため「光明山歓喜院引接寺」と命名し、仏教寺院として開山した。ちなみに「引接」とは「引導」と同じ意味で、人々を導くという意味を持つ「諸人化導引接仏道」からといわれる。
 現在の閻魔法王(高さ2.4m、幅2.4m木製)は長享2年(1488)に作られたもの。
 
 ところで、ゑんまは地獄の支配者のように思われているが、人間を三悪道には行かせたくない為、怒りの表情で地獄の恐ろしさを語り、嘘つきは舌を抜くと説いている誠実で温かな仏である。

 5月に演じられる無形民俗文化財の「千本ゑんま堂狂言」は、壬生狂言、嵯峨大念仏狂言と並んで京の3大狂言の1つとされ全国的に名高い。他の2つが無言であるのに対して、ここの狂言は有言(セリフが有る)の仮面喜劇として広く知られている。寛仁年間(1017-21)定覺上人が教言として始めたのが起こりで、現在「千本ゑんま堂大念佛狂言保存会」によって演じられている。

 公演で最初に演じられる「えんま庁」と「芋汁」のみが笛・太鼓の囃子にのって無言で演じられる。鉄杖を持った鬼・不思議な力がある巻物を持った善人の亡者・閻魔法王・帳付(記録係)が登場するというもの。天正10年(1583)織田信長が上杉謙信に下された狩野永徳筆の洛中洛外図屏風の中にも、この「えんま庁」が描かれている。
 公演は5月1日~4日行われ、1・2日は夜のみ、3・4日は昼夜2回。見学所要時間は1演目につき約30分、見学無料。

 このほかの見どころは、紫式部の供養塔の傍らにある後小松天皇から下賜されたといわれる境内の「普賢象桜」(ふげんぞうさくら)が見事で、花の芯から双葉の芽が出て、それが普賢菩薩が乗っている象の牙の形に似ているところから名付けられたといわれている。遅咲きの八重桜で、散るときは花びらが散るのではなく、椿のように花冠ごと落ちる不思議な桜である。なんでも、花冠のまま落ちる散り様が、さながら斬首される囚人の姿に似てるため、中世の所司代は、この花を獄舎の囚人に見せ、仏心を起こさせたとも伝わっている。応永15年(1409)、後小松天皇の薦めで当山を参詣した将軍・足利義満は、境内に咲き誇ったこの桜に感服し、50石の知行米を与えたといるほどの銘木だ。現在の樹は、佐野藤石衛門の寄進。開花は4月下旬。

 境内の西北隅に紫式部の供養塔(高さ6m、幅・奥行き1.85m/花崗岩)が建立されている。南北朝時代の至徳3年(1386)圓阿上人の勧進により建立と刻銘がある。紫式部のあの世での不遇な姿を見て成佛させんがために建立した伝えられており、「十重塔」としても珍しく重要文化財にも指定されている。

 所在地:京都市上京区千本通蘆山寺上ル閻魔前町34番地。
 交通:市バスで千本鞍馬口下車、徒歩約2分。



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