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「錦小路」(にしきこうじ)

2007年05月17日 22時09分03秒 | 古都逍遥「京都篇」
 錦小路は、東は寺町通から西は高倉通まで、約390㍍、巾3㍍の間に130軒あまり、魚貝、肉類から京野菜、生湯葉、生麩、漬け物に惣菜まで、ありとあらゆる食材を扱っている小さな店が通りを挟んで両側に並んでいる。
 通り名の由来は諸説あるが、具足(携帯品や調度類)を売る店が並んでいて「具足小路」といったが、天喜2年(1054)に錦小路と改められたといわれている。
 その謂れが、「宇治拾遺物語」第19話「清徳聖奇特の事」の説話の中に 「くそ(糞)の小路」と呼ばれていたのを、時の帝により、四条の南に綾小路があり一対となるよう 「錦小路」とせよといわれたとある。

 これにまつわる伝説はこうだ。
 母親の供養のため3年間、何も食べなかった聖(ひじり)を、時の右大臣が屋敷に呼んで白米を食べさせた。ところが、米を食べているのは何と聖についてきた数万の鳥や獣で、やがて食べ終わると四条通の一筋北の通りにやってきては、一斉に糞をし始めた。この異様な光景から人々は、いつしかこの通りを「糞小路」と言うようになった。これを聞いた帝(みかど)は、四条通の一筋南側の通りが綾小路だったので、綾錦に因んで「錦小路」と呼ぶよう命じたというのだが…、どうもこれは嘘くさい物語で、やはり「具足小路」というのが訛って「糞小路」となり、このような伝説が生まれたのだろう。

 現在のように魚鳥の市場として開設された年月は明らかではないが、豊臣秀吉の天下統一後と思われる。この界隈が人口の密集した中枢部にあたることと、良質な地下水が涌き出るので魚鳥の貯蔵等に便利であり、御所への魚鳥の納入の往き返りに自然にこの地に魚鳥の市場が出きたといわれている。
 本格的な魚市場となったのは江戸時代に入ってからで元和年間(1615~1623)幕府より魚問屋の称号が許され、万治・寛文(1658~1672)の頃、都では上の店、錦の店、六条の店(問屋町)3ヶ所が最も繁栄を極め、これを三店魚問屋と称した。
 特に錦に店をもつ商人は、公儀から鑑札を得ることにより独占的な営業をしたという。
 明和7年(1770)に錦小路高倉に青物立売市場が奉行所により認められ、安永8年(1779)魚問屋のそばに野菜の市場が開かれた。

 三店魚問屋の特権も明治維新後は廃止され、魚問屋等も自由に開放営業されたが、同業者間の競争が激しくなり、そのため明治16年頃には倒産するものが続出し7店程になったともいわれる。
 その後、同業組合等を設け、自主的に規約を厳守し、同業競合の弊害を避ける事に勤め再び繁栄を取り戻した。
 ところで錦小路は、もともと平安京の東西道路の1つで、当初、道幅は12㍍もあったらしい。いったん荒廃し、再び活気をおびてきたのは室町時代の中頃で、現在の錦市場の西の端あたりに魚の市場ができていたという記録もある。

 錦小路通の東端に「錦天満宮」が鎮座している。社伝によると、創建はいまからざっと千年程前、場所は六条通の鴨川の西側あたりに、菅原道真の屋敷の建物を移して寺が建てられ、「歓喜光寺」と名付けられた。その後、豊臣秀吉の京都都市改造計画によって移転し、寺の境内に祀られていた天満宮が、錦小路に面していたことから、「錦天満宮」と呼ばれるようになった。
 錦天満宮の東側に、新京極と寺町通に挟まれて小さな石の鳥居が建っている。この鳥居は一風変わっていて、鳥居の上に横に渡された石の端が隣の店の建物にくいこんでいる。偶然か謂れがあるのかご利益を共存した姿とも言え、このような鳥居は錦天満宮だけにみられる。

 所在地:京都府京都市中京区錦小路通。
 交通:JR京都駅から京都市営地下鉄で四条駅下車、徒歩3分、阪急電鉄河原町駅下車、徒歩4分、京阪電鉄四条駅下車、徒歩7分。
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