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「神童寺」(じんどうじ)

2008年11月11日 22時36分23秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都の南・木津川を見下ろす深い山の中、爽やかな鳥の声と柔らかで鮮やかな木々の緑に包まれ、千年以上の時を刻んできた古刹は、聖徳太子によって創建されたと伝わる神童寺がある。

 車で京都方面から国道24号線を奈良に向かって木津川沿いを走り、開橋の袂の信号を左折、平尾の三叉路に突き当りその信号を右折して進むと左側に山城森林公園と当寺の案内版がある交差点に行き会う。これを左折し山側に向かって進むと分岐点に案内版があるから表示どおりに進む。茶畑や棚田の山間を練って進む山里は、懐かしい郷愁にふれることができる。

 当寺は古くから奈良の吉野山と密接な関係を持つ修験道の霊地とされ、『北吉野山神童寺縁起』によると「推古天皇4年(596)に聖徳太子が開創し、千手観音を本尊として大観世音教寺と号した。のち白鳳4年(676)に役行者が来山し、石南花の大樹のもとで修行していたところ、吉野の子守・勝手・金精(こんじょう)の三神が童子となって現れ、この木で霊像を彫刻することを勧めた。これに従って役行者が蔵王権現像を彫刻したが、その時に天八百日尊(あめのやおひのみこと)と天三下尊(あめのみさがりのみこと)と称する神童2人が助力したので、たちまち霊像が完成した。

 聖徳太子創建時の本尊千手観音を祀る本堂とは別に、蔵王堂を建立して蔵王権現像を安置する。役行者に助力した二神童は伽藍擁護の神として寺の側の天神社に祭り、また霊像を刻むことを勧めた子守・勝手・金精などの吉野の神を寺の鎮守として勧請し祭った。そしてこれを機に、寺号を神童教護国寺(じんどうきょうごこくじ)と改め、これ以後は大和の吉野山と南北相対しているので、北吉野山と号した。その後も、当山には役行者の聖跡を訪ねて多くの高僧が来山し、その遺跡やゆかりの仏像が残っている。やがて治承4年(1180)に源平合戦の兵火によって焼失したが、建久元年(1190)に源頼朝が復興した。」とある。
 この縁起の内容は、必ずしも歴史的事実を伝えているとはいえないものの、神童寺の歴史を探るうえで重要な内容を豊富に含んでいて大変興味深い。

 山門は、興福寺の一乗院からの移築で、山門に鯱があるのは珍しく、本堂(蔵王堂)は室町時代の建立で、国の重要文化財に指定されており、収蔵庫には、国の重要文化財となっている藤原時代の木造不動明王立像、木造愛染明王坐像や木造阿弥陀如来坐像など多数安置されている。

 このほか境内には、行者の滝、鐘楼などがあり、春には桜の満開と同じ時期にミツバツツジが咲き、境内が一番きれいに見える時節。喧噪とは無縁の、実に豊かな時間がゆっくりと流れていくようで、生き返る思いがする。
 車で訪ねる場合、駐車場スペースがなく、門前には寺の車が常駐している。周囲の道は狭く駐車は難しいが、近所迷惑を覚悟しても1台しか駐車出来ない。取材と断り、地元消防団に家の前に丁寧に挨拶して駐車させてもらった。

 所在地:京都府相楽郡山城町大字神童子小字不晴谷112。
 交通:近鉄バス・京阪バス、京都奈良路線で高麗バス停下車、徒歩約30分。またはJR奈良線で棚倉駅下車、徒歩約30分。
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