矢嶋武弘の部屋

必ず なるようになる
ならないようには 決してならない 
だから 余計な心配はするな!

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2017年05月27日 03時35分25秒 | 過去の記事

新たな「人民戦線」を樹立せよ!

 今年は大震災や原発事故で日本は苦境に立ったが、政治も経済も停滞した1年であった。民主党政権がいかにだらしないかは、ここで述べ出したら切りがないだろう。2年前の夏、素晴らしいマニフェストを掲げ総選挙に圧勝した時は、21世紀の日本の夜明けかと、民主党政権に大いに期待したものだ。たぶん、多くの国民がそう思ったかもしれない。
 ところが、その後、鳩山、菅、野田と続く政権の中で、多くの国民の期待は見事に裏切られた。マニフェストで公約したことはほとんど実行されず、逆に消費税の増税やTPP交渉参加など、反国民的な施策が行なわれようとしている。2年前には思ってもみなかったことだ。こんなに国民の期待を裏切った政権は、過去にない!
 もちろん、大震災や原発事故など不測の事態が生じたとはいえ、今やどれほどの人たちが民主党政権を支持しているだろうか。「ご苦労様です」「大変ですね~」と言って、現政権に同情するだろうか。同情したい人は勝手に同情しろ!
 私は同情するどころか、嫌悪と侮蔑の念を持つだけだ。ここで、民主党政権の失政や間違いをいちいち挙げるつもりはない。そんなことを仕出したら、いくらスペースがあっても書き足りないくらいだ。私が言うよりも、賢明なる読者諸氏の方が、ずっとよく分かっているはずだ。
 
ここで言いたいことはただ一つ、反国民的な施策を続け“右傾化”する現政権に対して、断固たる戦いの火蓋を切るべきである。そのためには、民主主義諸勢力が広範な統一戦線を組み、反動的な現政権に対抗すべきだ。
 過日、TPPをめぐって事実上の統一戦線が組まれた。今度は消費税増税に対抗して、新たな戦線を構築すべきである。これを「国民共同戦線」と呼びたいが、分かりやすく言えば、歴史的に名高い「人民戦線」と言っておこう。
 名称はともかく、増税などの反国民的な施策に対して、新たな人民戦線を樹立すべきである。共産党や社民党などがその中心になることは当然だが、消費税の増税に対しては、民主党支持者の中にも反対する人が大勢いる。それらの人たちを糾合して、一大人民戦線を築くべきである。
 消費税の問題を細かく論じる時間はないが、これほど反国民的な税制はない。断固として増税を粉砕すべきだ。
 他にも、沖縄の普天間基地移設問題など色々あるが、政治面でも外交面でも、野田政権は完全に右傾化し、反動的な性格を露(あら)わにしてきた。こんな政権は一日も早く打倒すべきである。
 
そんなことを言っても、私はもちろん、以前のような自公連立政権を望んでいるのではない。そうなれば、ますます悪くなるばかりだ。そうではなく、民主党左派や共産党、社民党などが連合した新政権を望んでいるのである。
 なぜか? それは経済的な苦境の中で、明らかにファシズムの足音が聞こえてきたからだ。先の大阪市長選などを見ていると、政治不信や現状への不満、そして既存政党への拒否反応から、橋下徹候補が圧勝したのである。私は橋下氏を「ファシスト」だと言っているのではない。ただし、そうした要素が垣間見えるのだ。彼の評価をここで詳しく述べるつもりはないが、経済が疲弊し、社会が閉塞感に満ちてくると、必ずファシズム的な傾向が現われてくるのだ。これは歴史的事実である。まして、既成の政党がだらしなく頼りにならないと、その傾向はさらに強まるのだ。
 こうした場合、保守的な政党はファシズムと“妥協”しようとする。今の自民党がそうだ。妥協するのは勝手だが、問題は中道や左派の政党である。これらの政党は団結し、統一戦線を組まなければ、将来必ずファシズムに敗れるだろう。
 
歴史を見れば明らかだ。ファシズム阻止で成功した例と失敗した例を挙げよう。フランスでは1934年、右翼・ファシストが議会を攻撃する事件が起きたが、これを契機に、有名な作家であるロマン・ロラン、アンドレ・ジッド、アンドレ・マルローらが呼びかけていた反戦反ファシズム運動が、人民戦線の樹立へと発展していった。その過程で、フランスの社会党と共産党は団結して選挙で圧勝、社会党のレオン・ブルムを首班とする人民戦線政府を成立させたのだ。
 これとは逆に、ドイツではヒトラーのナチスが台頭してきた時に、共産党は社会民主党と団結せず、反対に社会民主党を非難・攻撃した。もし、共産党と社会民主党が手を組んでいれば、ナチスの政権奪取を防げたかもしれない。つまり、人民戦線を組めなかったのだ。
 余談だが、この時はスターリンが指導するコミンテルンが、「社会民主主義はファシズムと同じだ」という間違った方針(社会ファシズム論)をドイツ共産党に押し付けたため、ドイツでは人民戦線が樹立できずナチスにみすみす政権を取られてしまった。
 いま述べたように、ファシズムが台頭してきた時は、民主主義勢力や左翼はそれに対抗して団結し、統一戦線を組まなければならない。そうでなければ、ファシズムに敗れるだろう。近い将来、日本でも起こりえるかもしれない。(2011年12月9日)
 

 諸悪の根源は「官僚支配」だ!
 
昨日は、わが所沢市(埼玉県の田舎)へやって来た友人・Y君と一杯飲んだ。所沢では、年に4回ぐらい大規模な“古本市”が開かれるが、ジャーナリストで作家のY君は必ずと言っていいほどやって来る。
 その度に居酒屋で一杯やるのが通例だが、昨夜も飲みながら大いに議論した。先日、私は「一観光客」として北朝鮮へ旅行したのだが(以下、朝鮮と記す)、朝鮮通のY君は手ぐすねひいて待っていたのか、びしびしと追究してくる。彼はもの凄い知識人で、私よりもはるかに多くのことを知っている。何でも知っている感じだ。したがって、だいたい私がやり込められることが多い(笑) でも、勉強にはなる。
 Y君は朝鮮の金正日体制が大嫌いだ。人民を不幸にしているあの独裁体制が許せないと言うのだ。分からないではない。私も以前は、あの金正日体制が大嫌いだったから、そういう記事もずいぶん書いた。しかし、それと日朝国交正常化とは別問題だろう。あの国も開かれてくれば、おのずと変わってくると見ている。
 しかし、Y君は国交正常化どころではないという感じだ。完全に「反朝鮮」である。そこで、いくら議論しても歩み寄りはなく平行線をたどった。
 
他にもいろいろ議論したが、唯一、二人が一致したテーマがある。それは「官僚支配の打破」ということだ。これは完全に一致した。
 日本は官僚天国、役人天国である。その弊害があまりに多く出ているから、2年前、官僚支配を打破しようと、民主党政権が誕生したのである。その点で多くの国民が新政権に期待した。しかし、この2年間、民主党政権は何をしてきたか。
 官僚支配の打破どころか、逆に官僚に良いように操られているではないか。脱官僚・政治主導の理念はどこかへ消えた感じだ。Y君によれば、官僚の“天下り”は自民党政権時代よりも増えているという。公務員給与の削減はどうなったのか。公務員制度改革はどこかへ消えたのか!
 私もY君も、民主党政権の体(てい)たらくに憤然として議論を進めた。いろいろ話したが、例えば財団法人「日本宝くじ協会」などは酷いものだ。人数は忘れたが、大半が天下り役人で、2兆円の収益のうち1兆円を自由に使い、某理事長の月収は何と300万円なのだ! しかも、理事長は1週間にせいぜい2日ぐらいしか出勤してこない。以上はY君の話だが、こんな馬鹿なことがあるだろうか。
 
実は「日本宝くじ協会」については一昨年、例の“事業仕分け”の対象になり、事業廃止の方向が打ち出された。これは当然である。こんなデタラメな協会があって良いわけがない。
 ところが、その後どうなったのか。民主党政権は議論だけして一向に廃止しない。こんなケースは他にいくらでもあるのだ。あの事業仕分けは単なる“パフォーマンス”だったのか。つまり、初めは良い格好だけ見せたのだが、民主党政権はその後放ったらかしにしているのだ。悪賢い官僚たちが裏でいろいろ動いたことは、容易に想像できる。
 官僚の手玉に取られた民主党政権は全く存在価値がなくなった。Y君は「みんなの党」が良いと言う。確かに、みんなの党は公務員制度改革などに熱心だ。私は最近、ブログで共産党関係者と仲が良いが、「共産党なら官僚支配の打破に力を振るうだろう」と言ってやった。
 すると、Y君は「何を言うか! 共産党こそ多くの公務員に支えられているのだ。話にならん!」と叫んだ。よく知らないから私は共産党の話を止めたが、彼は産経新聞流の行政改革論者なのだろうか。
 
「官僚支配の打破も行政改革も、野田新政権では何も期待できそうもないね」と言ったら、Y君は「やはり、小沢一郎しかいないよ」と答えた。これには同感だ。
 本当に官僚支配体制を覆すには、小沢一郎の剛腕に期待するしかない。だから、官僚は小沢を恐れているのだ。しかし、小沢は今や刑事被告人だ。これから裁判を受ける。
 私が「小沢は無罪だろう」と言ったら、Y君は意味ありげに「いや、有罪になると思うね」と答えた。そうかな~~、無罪だと思うが、私はそれ以上小沢問題に触れなかった。
 官僚支配の打破という一点だけはY君と一致したが、今の民主党政権ではほとんど何も出来ないだろう。みんなの党が政権に入ってくる可能性は極めて低い。官僚支配の打破はますます遠のくのか。
 3・11以降、世の中は大震災対策と原発事故の収束で手一杯という感じだ。公務員制度改革などの懸案はどこかへ消えてしまったようだ。しかし、民主党政権の本来の重要なテーマは、脱官僚・政治主導の推進にあるはずだ。それを決して忘れてはならない。そうでなければ、政権交代を果たした意味がないではないか。
 私はY君と議論した後、改めてその思いを強くしたのである。(2011年9月1日)

 

「君が代」は国歌にふさわしくない。新国歌の制定を!

 大阪府の橋下知事が、国歌斉唱などの際に起立しない教員は免職にすべきだと発言し物議を醸している。たしかに、公務員は国歌や国旗に敬意を払うべきだろう。
 しかし、問題は国歌「君が代」にあると思う。「日の丸」は問題ないとしても、「君が代」が今の民主主義国家・日本にふさわしいものだろうか。私は全く違うと思う。
 このことはずっと以前から言ってきたのだが、日本が戦前のように君主制の国なら「君が代」が国歌であって良い。しかし、日本は戦後「民が代」、つまり民主主義・国民主権の国家になったのだ。それならば、それにふさわしい国歌があって当然ではないか。
 もちろん、大勢の日本国民が皇室を敬愛し、尊崇していることはよく分かる。私も皇室に敬愛の念を抱いている。天皇・皇后両陛下が大震災の被災地を慰問されるのを見ると、胸にジ~ンとくるものがある。多くの日本国民は皇室を敬愛しているのだ。
 しかし、歌詞の内容から言って「君が代」は国歌にふさわしくない。それは先にも述べたが、「君が代」は皇室を敬愛し、尊崇する歌として残せば良い。きっと歌い継がれていくだろう。
 したがって、私はこの際、国会に「新国歌制定委員会」(仮称)なるものを設置し、国民主権国家にふさわしい国歌を制定するよう訴えたい。日本の民主主義は国民の間に定着しているのだ。
 「新国歌制定委員会」は首相や文科相が主宰するとしても、その下に立派な歌人、詩人、作曲家らが委員となり、国民から国歌を公募すれば良い。きっと大勢の人が応募するだろう。その中から、最もふさわしい作品を軸に、委員らが手を加え歌詞を練り上げれば良い。実は私だって、新国歌の歌詞草案を持っている。まだ出せないが・・・(笑)
 それはともかく、一つだけ注文したいのは、新国歌は生き生きとした躍動感にあふれるものにして欲しい。「君が代」は荘重で厳かな雰囲気があるから、皇室を称え敬愛するにはふさわしい歌である。
 しかし、新国歌は日本の明るい未来を目指し、希望に満ちたものにしてもらいたい。歌詞が決まれば、あとは作曲家の出番である。これも先ず曲を公募し、委員の作曲家らが手を加えていけば良いのではないか。
 新国歌の制定は思いつきで言っているのではない。私はずっと以前からそれを訴えてきたのだが、保守的な論客の中にも、「君が代」は日本国憲法の基本原理に反すると言っている人もかなりいるのだ。
橋下知事の発言に触発されて、新国歌制定を提唱する次第である。日本は前向きに明るく進んでいこう!(2011年5月19日)

 

生っちょろい国・日本

日本は恵まれた豊かな国だと思う。北朝鮮(以下、朝鮮と記す)旅行から帰国したら特にそう思った。しかし、何となく生(なま)っちょろい感じがしてならない。日本の民主主義社会は全体主義の朝鮮より良いと思う。しかし、自由はあるものの、どこかいい加減でルーズなのだ。
 訪朝の間、日本の政治や行政のことをすっかり忘れていたが、大震災や原発事故の対応もノロノロ、モタモタしている。例えば日赤などに2500億円を超える義援金が届いているのに、まだ15%しか被災地に配られていないという。震災から3カ月も経つというのに、行政は何をやっているのだろうか。
 民主主義社会は良いが、こんなことは朝鮮などでは考えられないことだ。もっと早く果断に被災地に届けられるだろう。原発事故の対応も、避難区域の設定など実にモタモタしていた。パニックを起こしてはいけないと、放射能汚染のデータを隠していた面がある。社会主義や全体主義の国なら、もっと早く対応していたはずだ。何もかも遅い。
 
民主党政権の動向も見ていると嫌になる。菅の退陣は決まったようだが、これもズルズル、ノロノロしている。8月一杯で退陣するそうだが、これもどうなるかまだ分からない。とにかく、やることがルーズで遅い。
 だいたい「不信任案」が否決されたら、その内閣は続投するのが当然だ。ところが、指導力も人気もないから退陣するという。変な政治ではないか。不信任案を否決したのに退陣する。論理に合わない。もちろん、菅を支持しているわけではないが、これが議会制民主主義なのかと思ってしまう。どこかおかしい。
 
話は変わるが、過日、「生活保護世帯」で妻が夫を焼き殺す事件が起きた。家庭内暴力が絶えなかったという。そこで調べてみたら、約200万人が生活保護費を支給されているそうだ。その数はこれから更に増えるという。
 本当に生活に困っている人は生活保護費を受けて当然だが、そうでもない人もいるようだ。これも問題ではないか。働こうとしないのだ。しかも、国民年金の給付額を上回る保護費を受けているという。これじゃ馬鹿馬鹿しくて、国民年金の負担なんか止めてしまいたくなる。皆が生活保護を受ければ良いのだ!
 これもおかしいではないか。私は左翼的な人間だが、こうしたデタラメを認めるわけにはいかない。どこか狂っている。生っちょろい日本の現実だ。
 
「AKB48」が若者に人気があるそうだが、あれもおかしい。金のなさそうな若者が同じCDを何万円も何十万円も買っている。中には箱ごと買っている者もいた。そんなことは普通あり得ない。
 AKB48のメンバーはそれぞれプロダクションに所属しているようだが、プロダクションが若者たちに金をばら撒き、CDを買わせて人気を煽っているのではないか。そう疑いたくなる。
 AKBは可愛い子が多くし、青春時代に夢中になっておかしくはない。私も若い頃は、吉永小百合や栗原小巻に夢中になった。しかし、その想いは純粋だった。
 ところが、最近のアイドルグループを見ていると、どうも仕組まれている感じがしてならない。テレビを利用し、またそれに利用されつつ組織的に売り込んでいる感じだ。純粋でも何でもない。
 まあ、言いたいことは他にも色々あるが、金日成の国・朝鮮から帰国すると、日本は生っちょろい感じがしてならない。 (2011年6月10日)

 

エリザベス・テイラー逝く

(以下の記事は、2011年3月24日に書いたものです。)
 ハリウッドの大女優エリザベス・テイラーさんが死去した。79歳。謹んで哀悼の意を捧げたい。
 小学生の頃、彼女の映画を初めて観て、その美しさに茫然自失とした。アメリカにはこんなに美しい人がいるのかと思ったものだ。戦後、アメリカの栄光を象徴するかのような大女優であった。
 以下の文は一昨年7月に書いたものだが、“永遠の美女”エリザベス・テイラーを偲んで原文のまま復刻しておきたい。リズよ、いろいろ楽しませていただきありがとう! ご冥福をお祈りします。(2011年3月24日)
 
<永遠の美女>エリザベス・テーラー
 1) ユーチューブ(You Tube)を検索していたら、エリザベス・テーラーやマリリン・モンローらの映像が沢山あるのを発見した。嬉しくなっていろいろ見ていたら、つい最近だろうか、すっかり老けこんで車椅子に乗ったエリザベス(リズ)・テーラーの映像が出てきたので少しがっかりした。絶世の美女と言われたリズのこのような映像は見たくない! しかし、アメリカ人というのはオープンな性格なのだろうか(それも良いのだが)、77歳の年老いたリズでも平気で映すようだ。
 日本だと例えば、原節子(今でも御健在のようだ)のような美人女優は、年を取れば決して人前には現われない。また、周囲も気を使って老醜を撮るようなことは控えるだろう。その点がアメリカと日本の文化やデリカシーの違いかもしれない。
 それはともかく、若き日のエリザベス・テーラーの様々な映像を見ていると、私はどうしてもリズのことを書きたくなってきた。そうは言っても、実は3年ほど前に一度記事にしたことがあるので、一部を復刻しながら再度「エリザベス・テーラー」に“挑戦”しようと思う。末尾にリズの映像(最近の老醜の姿は除く)をたっぷりとリンクしておくが、とにかく彼女のことを書くと元気が出てくるのだ。
 
2) エリザベス・テーラーに“衝撃”を受けたのは、55年以上も昔の小学生時代だった。初めてリズの映画を見たのは小学5年の時だったと思うが、当時、静岡市に住んでいた私はある日、父に連れられて洋画館へ行った。 上映されていたのは『可愛い配当』という映画で、これは後で分かったのだが『花嫁の父』という映画の続編というものだった。
 “可愛い配当”とは孫のことで、嫁いだ娘(エリザベスの役)が赤ちゃんを産んだので、祖父役のスペンサー・トレーシーが大喜びして可愛がるのだが、乳母車に乗せて散歩している間にある失敗をおかして孫を見失い、大騒ぎになるというドタバタ喜劇であった。
  一緒に見ていた父は、私の姉のところに生まれた孫を思い出してか大笑いして映画を見ていたが、小学生の私はその時、エリザベス・テーラーの美しさに茫然自失としていた。 こんなに美しい人が世の中に存在するのかという思いだった。その美しさは表現の仕様もないほどだった。あえて言わせてもらえば、溢(こぼ)れんばかりの美しさだった。
  彼女は当時19歳だったが、その頃が青春の最も美しい輝きを発していたのだろう。 私は父からエリザベス・テーラーの名前を初めて教わったのだが、その後、リズの映画を事あるごとに見るようになった。アメリカにはこんなに美しい人がいるのかと思うと、アメリカ自体がますます豊かで素晴らしい国であるかのように感じた。
  当時は、第二次世界大戦でアメリカに完敗し連合国の占領下に置かれていた日本が、ようやく独立を回復したばかりの時期だけに、とにかくアメリカが強大で素晴らしく見えたのである。 従って、エリザベス・テーラーだけでなく、ジョン・ウェインやゲイリー・クーパーらハリウッドの大スターは皆輝いて見えた。
  その後も、グレゴリー・ペックやバート・ランカスター、カーク・ダグラスといった俳優の他に、女優ではマリリン・モンロー、オードリー・ヘプバーン、グレース・ケリーらが銀幕に続々と登場し多くの日本人を魅了したのである。 フランスやイタリアの映画も人気を博したが、ハリウッドに代表されるアメリカ映画が圧倒的な影響を日本に与えたことは間違いない。
 
3) エリザベスの映画は『陽のあたる場所』『ジャイアンツ』『熱いトタン屋根の猫』などと続いていくが、彼女が31歳の時に出演した『クレオパトラ』は特に印象深い。すでに大スターになっていたが、クレオパトラの役柄は当時はリズ以外の女優では荷が重かったと思う。
  丁度その頃、私は某テレビ局への就職が内定し職場で研修を受けていたが、ある日、『クレオパトラ』で彼女が身に着けていた衣装や首飾りがスタジオに展示されたため、同僚と共に見に行ってそれに触れたことを思い出す。その時、憧れの大女優に接したかのような“錯覚”を味わったのである。
  しかし、その頃から(あるいは、それより少し前から)、エリザベスは太り気味になっていた。銀幕を通して見る彼女は明らかに豊満な体つきになり、20歳前後の頃の清楚なイメージは失われていったのである。どこか妖艶な雰囲気を漂わせるようになっていた。 同じ妖艶でも、その頃亡くなったマリリン・モンローとは趣が違うが、要するに“熟した”といった感じなのである。
  果たせるかな、妖艶なエリザベスは次々に結婚と離婚を繰り返していく。すでに親友の夫と“略奪結婚”をしていたが、、『クレオパトラ』で共演したリチャード・バートンとも不倫の恋の末に結婚、そして離婚、またバートンと再婚して離婚、そして結婚、離婚、結婚、離婚・・・都合、8回の結婚と離婚を繰り返した(夫が不慮の死を遂げたのもある)。こういう人は滅多にいないだろう。
  このため彼女は“スキャンダル”に彩られた人生を送ったことになる。リズを悪く言う人は大勢いる。やれ傲慢だ、名声に驕り高ぶっている、男を食い物にしている、鼻持ちならない等々・・・ しかし、絶世の美女というのは昔からそういうものだろう。美人だからいつも注目され、男から言い寄られる。さんざん誉められ、さんざん貶(けな)されるのだ。
  どうやら、私はエリザベス・テーラーを弁護しているようだが、ギリシャの伝説に出てくる稀代の美女(傾国の美女)・ヘレネもそう描かれている。 ゲーテの『ファウスト』に登場する彼女は「さんざん誉められたり、貶されたりしたヘレネです」と挨拶するのだ。“現代のヘレネ”も多分そうなのだろう。
 
4) リズは気品面では、同じ美人女優のイングリッド・バーブマンに及ばなかった。また、妖艶さや色気ではマリリン・モンローに敵(かな)わなかったと思う。彼女は身長が162センチだから、外国の女優の中ではプロポーションが抜群というわけではない。 しかし、小学生時代にたとえようもない衝撃を受けた私としては、地球上でエリザベス・テーラーが最も美しい人に見えてしまったのだ。だから、リズの映像はDVDで子役の頃のものを含めて数多く持っている。
 彼女の顔の美しさは抜群である。目も鼻も唇もなにもかも花のように輝いている。あまり具体的なことを記すとペダンチックと受け取られかねないが、リズの瞳は何か神秘的でさえある。彼女の虹彩(こうさい)が世にも珍しいバイオレット(すみれ色)だからだろうか、あの瞳に見つめられたら大抵の男はフラフラっときてしまうだろう。
 若い頃、形容しがたいほどの美女だったエリザベス・テーラーも、今や車椅子に乗る老女と化した。長生きすればどんな美人も老醜をさらけ出すことになる。これは仕方のないことだ。人生の最終コーナーにきて、永遠の美女の自重自愛を祈るしかない。(2009年7月1日)
 
エリザベス・テーラーの各種映像
 http://www.youtube.com/watch?v=qBonKdy7t4o(3分33秒)
 http://www.youtube.com/watch?v=s0l6gfn54-E&feature=related(バイオレットの瞳・3分13秒)
 http://www.youtube.com/watch?v=wVupzIUmcwo&feature=related(映画「陽のあたる場所」・3分38秒)
 http://www.youtube.com/watch?v=L8ShhFMvbCM&feature=related(幼少時からの映像・7分34秒)
 http://www.youtube.com/watch?v=0qIEoGrSY8M&feature=fvw(幼少時からの映像・9分16秒)
 http://www.youtube.com/watch?v=IWiF3uF0B1Q&feature=related(5分30秒)
 

若草物語

この題名を聞くと、ほのぼのとした気持になる。昨日、大女優エリザベス・テイラーが死去した記事を書いたら、ある方が映画「若草物語」(1949年)を観たとのコメントを寄せてくれた。
 そこで、家にあるエリザベス(リズ)出演のDVDの中から、久しぶりにこの映画を選んで観た。実に温かみのある内容で、ほのぼのとした気持になった。主演のジューン・アリソンが次女のジョーに扮していたが、リズは三女(?)のエイミーを演じる“脇役”である。わがままで気取った女の子の役でよく似合っていた。
 後で妻に話したら、「エイミーは四女よ」と言う。えっ? 四女(?)のべスはマーガレット・オブライエンが演じているではないか。エイミーの方がべスより大柄だし、調べたらリズはマーガレット・オブライエンより5歳も年上なのだ。三女と四女を入れ替えたのだろうか。
 しかし、原作ではエイミーが四女になっているという。どうでもいいことだが、私はオルコット原作の「若草物語」を読んだことがない。この小説や「赤毛のアン」などは、女の子向けだと思っていたから読んでいない。子供の頃、男の子は「トム・ソーヤー」とか「ハックルベリー・フィン」などの冒険小説を読んだもので、少女小説には関心がなかった。
 
ところが、映画を観るかぎり「若草物語」は決して“少女小説”ではないようだ。4人の姉妹がいろいろな経験を積み重ねていく物語で、べスは早世するが、残りの3人はそれぞれ大人へと成長していく。
 原題は「リトル・ウィミン」(Little Women)と言うが、これは著者オルコットの父親が娘たちをそう呼んでいたらしい。もう幼い女の子ではなく、可愛らしい娘たちといった意味なのだろうか。これを日本語の表題で「若草物語」としたのは素晴らしい。若い芽がすくすくと成長していくようで、実にういういしい感じを受けるのだ。
 余談だが、私は中学時代、1年後輩の女の子に好意を持って純情な交友を重ねたことがある。その日記を「若草物語」と名付けた。もちろん、日本語の表題をいただいたのである。
 私の「若草物語」はその後、大学時代に“学生運動”の苦悩や挫折から焼却してしまった。しかし、今でも「若草物語」の清々しい思い出は残っている。長い人生の中で、あの中学時代が自分にとって最も輝いていたのではないか。それは「若草物語」があったからだろう。(2011年3月25日)

 

憲法改正は日本の常識! 護憲派は『守旧派』である

護憲派は一言でいって「守旧派」である。 現行憲法の3大原則である基本的人権の尊重、国民主権、平和主義は絶対に守られなければならない。どのような憲法改正が行われようとも、この3大原則は磐石のものでなければならない。 その点では、護憲派は勿論正しいし、大いに「守旧派」であって良い。

 しかし、現行憲法では安全保障を始め実に多くの点で、時代遅れになっているもの、現状にふさわしくないもの、また現実に対応できていないものが数多く見受けられる。そういった不備を改正しようというのが、改憲派の考えであり、従って改憲派は「改革派」と言って良い。

 現行憲法が制定された第2次世界大戦の直後から、すでに半世紀を優に超える歳月がたった。その間、我々国民を取り巻く社会情勢や諸々の価値観、文明、科学技術などは大きく変化した。また日本を取り巻く国際情勢も激変してきた。 これは半世紀以上もたてば当然のことであり、諸々の変化や進歩は人類の歴史にとって当たり前のことである。

 そうした中で、国の『最高法規』である憲法といえども、時代に適応しなくなってくるのは不可避なことである。世界中のほとんどの国が、50年以上の間に自国の憲法を改正しているのは当然であり、また極めて自然なことである。 ドイツにいたっては、50回近くも憲法改正を行ってきた。これは余りに極端なので、好ましい例とは思えないが、現状に即して常に憲法を見直すという姿勢は評価したい。

 ところで我が日本国の場合は、55年間一度も憲法改正が行われずに今日に至っている。これはまったく異例のことと言わざるをえないが、どうしてこのような「異常性」が続くのだろうか。旧憲法の「万世一系の天皇」ではないが、「万世不易の憲法」と言うのだろうか。 

 現状に対応できない憲法が続くと、国民の意識というのは次第に膠着してゆき、やがて活力を失ってしまう。憲法に限らず、どのような組織どのような国家でも、現状に対応できなくなれば活力を喪失していくのだ。

 半世紀以上も前には、予測もつかなかった諸々の問題、課題が今の日本には起きている。安全保障のあり方だけではなく、環境問題、知る権利、アクセス権、プライバシーの保護、参議院のあり方、犯罪被害者の権利、緊急事態への対応、地方自治のあり方、憲法裁判所の設置や首相公選制の是非等々、数え上げればきりがない。 こうした問題や課題には、現行憲法の枠内では対応のしようがないものが多い。従ってこの際、早急に憲法改正を前向きに議論すべきである。

 しかるに、護憲派と呼ばれる人達は、前向きに憲法の問題を考察しようとしているのだろうか。残念ながら、ほとんどそうした姿勢が見えてこない。財政改革や行政改革、構造改革等については議論をしても、憲法問題については、これを「タブー」として触れない姿勢が一貫して続いているのだ。 従って私は、護憲派の人達を総称して「守旧派」と呼ぶ。

 繰り返して言うが、憲法とは国家の『最高法規』であり、聖書でも教典でもない。聖書や教典は変えようがない。しかし、憲法は時代に即応して姿を変えていって当然である。いや、時代に対応して変えていくべきものである。それをしないのは、正に怠慢と言うほかはない。

 現行憲法を改正するにしても、決して変えてはならない原理、原則があるはずである。冒頭で述べたように、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義の3大原則は絶対に変えてはならないものである。その上に立って、現状に即した憲法改正の議論を進めていくべきだと思う。

 「不磨の大典」という言葉がある。聖書や教典は不朽のものであっても、憲法は不朽ではない。聖徳太子の17条憲法以来、時代々々に即して最高規範や諸法度は変わってきた。 戦前は、「大日本帝国憲法」が「不磨の大典」と思われていただろう。しかし、大日本帝国の崩壊によって、今の憲法に変わってしまったのである。

 護憲派の人達は、現行憲法を「不磨の大典」だと思っているのだろうか。もし、少しでもそう思っていたら、時代錯誤もはなはだしい。ドイツのように50回近くも憲法を改正するのは、いかがなものかと思うが、時代の変化に対応していくためには、20年ぐらいに一回は見直さないと、憲法も陳腐なものになってしまうのだ。 そして、戦前の日本のように、「大日本帝国憲法」にしがみついているうちに、国家が崩壊の道をたどっていったように、今の憲法をただただ後生大事と思っているうちに、国家は衰退の道を歩んでいくだろう。 時代に対応できない国家、国民は次第に活力を失い、やがて気が付いた時には、「時すでに遅し」ということになるのである。
 日本国民の活力を取り戻し、日本政治の活性化、民主主義国家の発展のためにも、21世紀に入った今日、今こそ憲法改正に積極的に取り組むべきだと思う。 (2002年1月20日)

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