矢嶋武弘の部屋

日一日の命 やれる時にやる やるのは今だ!
このブログは 私の「存在証明」である

過去の記事(7)

2017年05月27日 03時29分49秒 | 過去の記事

哀れな国・アメリカ
 
今月8日にアメリカ・アリゾナ州で、民主党のギフォーズ下院議員の集会で銃の乱射事件があり6人が死亡、14人が負傷する悲劇が起きた。ギフォーズ議員(女性)も重体だと伝えられている。
 ところが、意外なことに、この事件の直後からアメリカでは拳銃の販売が急増しているというのだ。要するに、自分の身は自分で守ろうということらしいが、銃規制が進む前に“買い溜め”をしておこうという動きもあるそうだ。一体、アメリカってどういう国なんだと思ってしまう。
 自分の身を自分で守れるなら、警察なんか必要ないのか。いや、警察は犯罪捜査に必要不可欠だからあって当然だが、なぜ銃の規制を本気で考えないのか。
 私が驚いたのは、銃撃されたギフォーズ議員自身が「銃所持」を支持していたというのだ。なに? それじゃ“自業自得”もいいところじゃないか! 銃の所持を認める議員が銃で撃たれたのだ。「ざま~見ろ!」と言っては残酷すぎるから言わない。それでは余りにも可哀そうだから。しかし、なぜ銃の規制に立ち上がらないのか!
 
銃がアメリカの「文化」であることは知っている。日本人の刀と同じだ。しかし、日本では歴史上も「刀狩」があって、刀の所持も厳しく規制されている。しかし、アメリカでは銃の規制が極めて緩い。
 アリゾナ州も規制が弱く、昨年には拳銃の「隠し持ち」も認められたそうだ。これでは、銃を野放しにするだけである。「銃は力なり。力は正義なり」というのがアメリカの保守派の考えのようだが、これでは、今後ますます銃の所持が増え、痛ましい乱射事件が次々に起きるだろう。要するに、100年以上も前の“西部劇”時代のままアメリカ社会は推移しているのだ。
 これ以上悪口を言っても始まらないから止めるが、銃文化を捨て切れないアメリカは“哀れな国”だと最後に言っておこう。なお、参考記事を末尾にリンクしておきたい。(2011年1月16日)
 
米国の拳銃販売急増・・・http://blogs.yahoo.co.jp/hiromichit1013/62176054.html

 

「ノーベル経済学賞」なんて、廃止しろ!

ノーベル経済学賞というものがあるが、最近、こんなものは必要ないという議論が一部で出ている。それと言うのも、世界的な金融パニックで経済が混乱しているのに、過去の経済学賞受賞者の中に、金融パニックの発生・拡大に貢献(?)した者が何人かいるというのだ。
私は経済学には素人だから専門的な話は分からないが、どうやら投機的金融資本主義の発展に貢献した者が何人もいるようだ。だいたい、ヘッジファンドやレバレッジ、サブプライムローンなどの話を聞いていると、いかにも怪しくていかがわしい気持になってくる。経済の専門家はそれが現代資本主義の“華”だと思っているのだろうが、素人の私には、マネーゲームやギャンブル(投機)のように思えてならない。理論は理論として尊重するが、先日、ある経済学者の講演を聞いていたら、これが「数学」と同じような確率があるのだろうかと疑わしくなった。素人だから質問はしなかったが、どうも怪しく感じてしまうのだ。

専門的な話は止めるが、今回の金融パニックについて経済学者はどう思っているのだろうか。仕方がないと言うのか。予測できなかったと言うのか。それは分からないが、彼らの多くが「リスクを恐れるな!」などと金融資本主義に発破を掛けてきたことは事実である。しかし、こんな大騒動になっても、彼らの中で「責任を取る」と言っている者はいないようだ。非常に無責任な感じがする。
これが戦争や政治、外交交渉だと、失敗すれば当事者は責任を取らされることが多い。しかし、経済の分野では野放しになっているようだ。やりたいだけやって後は知らないというか、まるで“やり得”の世界という感じがする。だから、カジノ資本主義だとかギャンブル資本主義などと呼ばれるのだ。やりたいだけやって、後は政府や国民の税金に助けてもらうというのだ。これでは、無責任以外の何ものでもない。

さて、先ほどのノーベル経済学賞だが、この受賞者はアメリカ人が圧倒的に多い。日本人はゼロである。世界第2の経済大国である日本からは、受賞者がいないのだ。(ご承知のように、物理学賞など他のノーベル賞は日本人も受賞している。)
初めは、日本人は経済の分野では頭が悪くて、アメリカ人にはとても敵(かな)わないと思っていた。しかし、最近はどうもおかしいと思うようになった。アメリカ人は何事にも積極的で良いのだが、とにかくゲームやギャンブルを好むようだ。それに対して、日本人は堅実で保守的な性格だから、新しい理論開発が苦手ではないかと思うようになった。そこで、ノーベル経済学賞の受賞者はゼロなのだろう。しかし、人間の心理がどうなるかも分からずに、数式だけで経済はこうなる、ああなると理論化することがそんなに適正なのだろうか。経済学の理論など素人には分からないが、そんなに正しいものであれば、大金融パニックなど起こるはずがない。逆に日本人は堅実な上に、経験論的に物事に対処するのが得意だから、あのバブル崩壊を除いて現実的に経済運営をしているのではないか。

ノーベル経済学賞については、スウェーデンの中にも廃止を望む声が強い。この賞だけは他の分野のノーベル賞と違って、1969年という遅い年から始まった。これまでの受賞者はアメリカ人が40人(うち1人はイスラエルの国籍も持つ)と圧倒的に多く、次いでイギリス人が8人、あとはノルウェー人が3人、スウェーデン人2人などとなっており、フランスやドイツもわずか1人ずつだ。完全に米英(アングロサクソン)に偏った受賞である。
それだけ、アメリカ人やイギリス人は「経済」に強いということだが、それなら、どうして今回のようなアメリカ発の金融パニックを見抜けなかったのか! どこが経済に強いと言うのか! 逆に経済面で“デタラメ”だから、こんなパニックを引き起こしたのではないか。
そう考えると、ノーベル経済学賞なんて何の意味があるのか。スウェーデン国内にも強い廃止論があるが、ギャンブル(投機)資本主義に貢献した者が何人もいるのであれば、こんな賞は世界に寄与したものではなく、逆に世界を混乱と危機に陥れた“大罪人”ではないか。 日本人の受賞者がゼロ(アジアではインド人が1人だけ)ということで、少し妬ましく思う所もあるが、今回の金融パニックに関わった受賞者がいるのであれば、罪を償うためにも「ノーベル経済学賞」は直ちに廃止すべきである。(2008年11月18日)

 

キャンドル・ベイビー

東日本大震災で、ほとんどの人が憂鬱な気分になっているだろう。私も同様だ。そこで、もやもやした気分を吹っ飛ばすために、思い切ってロマンチックでエロチックな話をしたい。少しは元気が出てくるかも・・・
関東地方は先週、かなりの計画停電があった。そこで思い出したのが、アメリカ・ニューヨークの大停電のことだ。ニューヨークの停電は過去に数回あったらしいが、最も有名なのは1965年11月9日のものだ。冬の寒さで暖房などの電力需要が一気に高まり、ナイアガラの発電所に不具合が生じたらしい。
このため、アメリカ北部やカナダで12時間も停電になったのだが、この後、大都市ニューヨークでの“出生率”が大幅に上がったと伝えられている。
 
それはそうだろう。12時間も停電になれば、若いカップルは手持ち無沙汰になり、あるいは不安になって寄り添うのが当たり前だ。私だって若ければ、この時とばかりに妻とセックスを楽しんだだろう。もっとも、今は年寄りなのでそんなエネルギーもパワーも何もないが。それに、相手がババアでこちらがジジイでは話にならない(笑) 話が逸れたが、ろうそく(キャンドル)の灯りの下で愛を育むというのもロマンチックではないか。何か神秘的な感じがする。
今回の計画停電の間に、関東地方の若者たちは愛を育んだだろうか。是非そうあって欲しいと思う。そうすれば、可愛い赤ちゃんが生まれるかもしれない。2~3時間の停電というのは、ちょうどほど良い長さだと思う。少子化時代だから、停電を逆利用して赤ちゃんの“増産”に努めて欲しいものだ。
こうして生まれた赤ちゃんを何と呼んだらいいだろう。「停電っ子」ではどうもロマンチックじゃない。少し考えたが、「キャンドル・ベイビー」ではどうだろうか。これならロマンチックで夢がある。キャンドルの灯りの下で愛が結実するのだから・・・
ところで、先のニューヨーク大停電の後に出生率が大幅に上がったという話で、停電と出生率には因果関係がないという説が今は出ているそうだ。
しかし、ウィキペディアで調べたら、1977年のニューヨーク停電、2001年のアメリカ同時多発テロ、2005年のハリケーン・カトリーナが襲来した時などに、出生率が上がってベビーブームになったというのだ。
つまり、人間は災害の時などは“不安”になるから、どうしても寄り添うようになる。一人では不安で寂しく感じるのだ。まして、若いカップルは愛し合うのが当然である。よく分からないが、社会心理学的にもそうだろうと思う。
東京など関東地方で、もしキャンドル・ベイビーが増えたとしたら、こんなに喜ばしいことはない。今後も計画停電が続くなら、その間、若いカップルは大いに励んで欲しい。
大震災でむしゃくしゃした気分だったが、今日は「キャンドル・ベイビー」の話ができて、少しは気分が晴れた。若い人たちよ、停電の間に大いに励め! (2011年3月20日)

 

電気こぼれ話

「電気予報」が毎日出る世の中だが、近代国家には電気が欠かせない。昔、ロシアの革命家・レーニンのことを何かの本で読んだことがあるが、革命を起こして政権を取った後、レーニンが最も頭を痛めたのが電気・電力のことだったと覚えている。
革命を起こす前は電気のことなど全く関心がなかっただろうが、自分が新政権をつくり「為政者」になって初めて、電気の重要性を知る羽目になったようだ。
レーニンはたしか、アメリカの電力会社の社長を招き、電気・電力のことをいろいろ教わったと記憶している。ロシア革命後の内戦や混乱の収拾も大変だったろうが、首相(人民委員会議議長)になればまず「電気」の確保が最大の課題だったのだろう。
先月、(北)朝鮮を旅行してきたが、あの国の最大の問題は食糧不足と電力不足である。首都ピョンヤンに着いた夜、市内のレストランでガイドさんと食事をしていたら、明りが何度も消えた。しょっちゅう停電になるようだ。朝鮮の人は慣れっこになっているから平気だったが、こちらはなにか変な気分になった。
しかし、ロウソクの灯りの下での食事も“乙”なものである。日本でも福島原発事故の後、「計画停電」があってロウソク暮らしの人が大勢いたと話してやった。
停電とロウソク暮らしで思い出したが、アメリカのニューヨークで昔、大停電が起きた後に赤ちゃんが大勢生まれたという話が伝わっている。私はこれを“キャンドル・ベイビー”としゃれて呼んでいるが、ロウソクっ子とか停電っ子と言うよりはロマンチックで良いだろう。つまり停電になれば、不安になった若いカップルが寄り添い、愛を育む機会が増えるということだ。そう考えると、停電もあながち悪いことばかりではない。ピョンヤンでもそうだったが、ロウソクの下で話し込むと、なんとなく親密感が増すような気分になる。
 
よもやま話になったが、電気というのは極めて大切なものである。生活面はもちろんのことだが、国のエネルギー政策の基本となるものだ。だから、電気と言うと色々な話が伝わっている。
日本では江戸時代に、平賀源内がエレキテル(摩擦起電機)を作った話が有名だ。エレキテルはオランダから伝わったが、源内はこれを自分の手で作ったという。もちろん、国内では初めてのことで、もっぱら見世物や医療器具に使われたそうだ。余談だが、平賀源内ほど天才的な人も珍しい。彼は医者で蘭学者、科学者であり、浄瑠璃作家で画家でもあり、発明家であった。こんな天才が日本にもいたのかと驚いてしまう。
ところで、源内のことを調べていたら、彼のエレキテルはアメリカのベンジャミン・フランクリンからの影響があったという説がある。“ほんま”かいなと疑うが、フランクリンと聞いてまず思い出すのが、彼の凧(たこ)を用いた実験である。
これは誰もが知っているだろうが、雷は電気であるということを証明するために雷雲の中に凧を上げた話だ。フランクリンはこれで一躍有名になったが、長くなるので彼のことを詳しく話すのは止めよう。フランクリンはアメリカ独立の英雄であり、“アメリカ人の父”と讃えられている人だ。
アメリカと言えば、発明王トーマス・エジソンだ。この人は電気に関する発明が異常に多い。電話、蓄音機、電気鉄道から電球まで物凄いものがある。調べてみると、発電から送電までの「電力の事業化」にも初めて成功した
というのだ。
ということは、エジソンは発明王と言うだけでなく、現在の「電力会社」の礎を築いた人なのだ。東京電力とか九州電力とか、日本ではロクな評判が立っていないが、あのエジソンが電力会社の基本をつくったことを肝に銘じ、もっと真面目に、もっと創造的に事業を展開してもらいたいものである。
今日はレーニンからエジソンに至るまで、すっかり取り留めのない話になってしまった。申し訳ない。しかし、電気に関して何か少しでも参考になってもらえれば、筆者としては書いた意味があったということだ。(2011年7月13日)

 

「グローバリズム」という妖怪

1)昔から、コスモポリタニズム(世界市民主義)や世界連邦主義はあった。しかし、最近はグローバリズムというのが注目を集めている。国際主義と言うのだろうか、あるいは地球一体化運動とでも言うのだろうか、定義はさまざまなようである。
私にはよく分からないが、経済的には市場主義と資本の論理の国際化を目指しているようだ。資本主義が世界的に拡大し、各国が経済的に緊密な関係を持つようになったのは事実だが、それを更に推進しようというのがグローバリズムなのだろうか。
それだけなら別に問題はない。世界経済はいやでも緊密化してきている。問題は、そうした動きを意図的に、強制的に更に進めようという点にあるのではないか。そこには市場主義の強制と、資本の論理以外のものを排除しようという意図が垣間見える。

資本主義が拡大、発展していくこと自体は問題ないだろう。これは今や“自然な流れ”と言ってもいいくらいだ。社会主義(共産主義)国もずいぶん資本主義化してきた。だからと言って、何もかも市場主義化せよと言うのには疑問が生じる。
全ての国で、全ての物が市場経済の中に放り込まれたら、優勝劣敗、弱肉強食の世界になってしまうだろう。資本の論理とはそういうものだから、勝ち残るのは巨大企業や強力な多国籍企業だけとなる公算が高い。これらの企業はそれで良いだろうが、弱小・零細企業は整理統合されて潰される危険性が大きい。
何を言うか、それが資本主義ではないかと一喝されそうだが、市場主義や競争原理だけから経済活動を一くくりすると、そうなるのが当然の帰結だろう。それは仕方がないと言う人もいるだろうが、弱肉強食、優勝劣敗のままでは堪らないという人たちが、反グローバリズムの運動を繰り広げているのではないか。

経済のグローバリズムは本来、全ての人たちを豊かにしようという「理念」があるはずだ。また、そういう「理念」がなければおかしい。ところが実際は、強くて巨大な国際企業(多国籍企業)だけが大儲けして、各国の弱小・零細企業は飲み込まれていくという構図だけが見える。
だから、全ての人を裕福にしていくはずのグローバリズムが、貧富の格差を拡大し、失業者を増大させるものだと非難されるのではないか。そこには金・金・金といった「資本の論理」だけが我が物顔でまかり通り、他の価値観や理念などはどこかに消し飛んでしまいそうだ。
私から見れば、グローバリズムとは「大が小を飲み込む」「大を生かして小を殺す」理念としか思えない。

2) 以上、グローバリズムを経済的な側面から見たつもりだが、もちろん、その中には効率化、合理化といった適切な要素も含まれている。しかし、効率化、合理化というものは、それだけを目標にすると得てして人間性や良き伝統を破壊することがある。
市場主義から見れば、それは当然ではないかと言う人がいるだろうが、現実は大量のリストラ、非社員化につながるだろう。フリーターや潜在失業者の増加を見れば、それは明らかである。だからと言って、企業は効率化、合理化を止めるわけにはいかない。企業は“慈善事業”ではないのだ。
ただし、こうした状況を放っておけば、フリーターなどの増加で貧富の格差はますます広がり、社会不安は増大するだろう。そこを調整するのが、政治の役割である。 日本はかつて“総中流化”社会と言われた。このため社会生活は安定していたが、今や間違いなく「格差社会」に突入している。それで良いと言うなら別だが、多くの国民は良いとは思っていないだろう。

話しが「格差の問題」になってしまったが、これはグローバリズムと無縁ではない。市場主義と資本の論理だけを追求していくと、必ずそういう問題が起きてくるのだ。また、ことは貧富の格差拡大だけではない。環境破壊の面から、グローバリズムを強く非難する声が起きている。
さらに、国や地域によって、文化や伝統、慣習といったものは全て違うのである。それを市場主義と資本の論理だけで画一化、統一化を進めようというのは、文化的な「ファシズム」と言っても過言ではない。誰がそんな「ファシズム」を歓迎するだろうか。
国や地域によって、民族も宗教も文化も全て異なる。それをアメリカ的(あるいは欧米的)な価値観で画一化、統一化しようとしても無理だ。絶対に無理である。 私は「グローバリズム」の一面しか見ていないかもしれないが、この言葉自体に、得体の知れない不気味なものを感じる。正に現代の“妖怪”といった感じだ。
冒頭に述べたコスモポリタニズム、世界連邦主義には少なくとも「理想」がある。しかし、グローバリズムに果たして「理想」があるだろうか。そんな高邁な理念が生きているだろうか。 私には、単なる経済的野心と露骨な資本の論理しか見えてこないのだ。(2008年4月18日)

 

原発エゴイズムは止めろ!

<原発を誘致した側にも責任がある>
あえて厳しいことを言いたい。
福島原発の放射能漏れ事故は、東京電力が第一の責任を負わなければならない。これは誰もが同じ認識だろう。原子力安全・保安院の責任もあるが、これは二の次の話だと思う。問題は原発を誘致した側の責任である。
受け入れ側の地元住民は放射能漏れで避難を余儀なくされ、あたかも“被害者”のような態度を取っている。しかし、それはおかしい。
原子力関係の施設受け入れについては、全国の至る所で問題になっている。町長や村長らが受け入れを表明したら、住民が猛反発して騒動になった所は幾らでもある。つまり「安全」を取るか、「金」を取るかの問題なのだ。
例えば、高知県東洋町では4年前、高レベル放射性廃棄物の最終処分場の受け入れをめぐって、推進派と反対派が激しく対立、町長選挙で反対派の候補が大差で勝利を収めた。このため、処分場を受け入れなかったのである。
ところが、福島第一原発については、地元の大熊町と双葉町が議会で受け入れを決めた。つまり、地元の町にも責任があるということだ。
 
原発を受け入れれば、国から多額の交付金などが支給される。地元が今までいくらもらったか知らないが、町興しや雇用、インフラ整備などにプラスになったことは間違いない。それは結構なことだが、原発を容認した見返りなのだ。
もちろん、東電から「絶対安全」と言われたろうが、今回、安全どころか「極めて危険」であることが立証された。これは地元の自己責任、自業自得というものだ。
そればかりではない。放射能は福島県内の周辺地域、さらに茨城や栃木など関東にも拡散し、首都圏にも水道水などの被害をもたらした。自分らが被害を受けるのは当然だが、それをはるかに上回る被害を東北から関東地方にかけてもたらしたのだ。(経済的損失は計り知れない。)
朝日新聞(3月29日)の記事によれば、双葉町は福島第一原発7、8号機の増設誘致に関して、毎年9億8千万円もの初期対策交付金を受け取ったという。これも「金」に目がくらんでのことだろう。交付金というのは、もちろん我々の税金から出ているのだ。地元が潤うのは良いが、そうした“ツケ”が原発事故で他の国民にも跳ね返ってきたのだ。
地元の町会議員らは「議会の責任は免れない」とか、「町民に申し訳ない」などと言っているそうだが、他県や周辺地域の人たちに「申し訳ない」と思っているのか。
ある町民がテレビのインタビューに対し、「我々は首都圏の電気の3分の1を供給してきたのだ」と開き直っていたが、冗談じゃない! ついでに放射能も供給したのか! 原発が無くても、火力発電所などが動いていれば電力は十分に供給されるのだ。(注・今度の大地震と津波で、東電管内の火力発電所も被害を受けた。)
他県や国民に対して、済まないといった気持がほとんど感じられない。ある方のブログにも、原発従業者が「(原発に)反対している人には悪いけど、これからも動かせるものなら動かしてほしい」と言ったという静岡新聞の記事が紹介されていた。(末尾にリンクしておく)
要するに、自分らの仕事が無くなることだけを心配しているのだ。こんな大事故を起こしておいて、よくも抜け抜けと言えるものだと呆れた。原発の操業停止で何千人が職を失うのか知らないが、他に何十万、いや何百万人もの国民が迷惑をこうむったことが分かっていないのだ。全く“エゴイズム”そのものである。
 
こんな話を聞くと、原発関係者に「ざまあ見ろ!」と叫びたくなる。しかし、何の関係もない国民が被曝の危険にさらされていることを思えば、そんなことは言ってられない。これは国民全体の問題なのだ。
安全なエネルギーは他にも色々あるだろう。太陽光、風力、地熱、マグマなど自然エネルギーが沢山あるのだ。何故それらを活用しないのか。最も危険な原発だけに頼っている地元の関係者に、エゴは止めてくれと言いたい。
先ほども述べたように、「金よりも安全」を選択して、原子力関係施設の受け入れを拒否した地方自治体は沢山ある。自分らの仕事が無くなるから、これからも原発を動かしてくれなどとよく言えたものだ。
少し厳しいことを言ったが、これ以上記事を書いていくと、私自身が“爆発”しそうだからもう止めよう。最後に一言・・・原発エゴイズムは止めてくれ! (2011年4月1日)
 
天空さんのブログ記事・・・http://blogs.yahoo.co.jp/jigenryu007/64224259.html
 
 

土地税制を見直そう 

 昨日から税制についていろいろ考えているが、消費税アップに賛成・反対は別として、なぜ他の税が話題に上らないのか不思議だ。税制全般を考えれば良いではないか。
私個人は「土地税制」を見直して、社会保障費の穴埋めにしたり財政赤字を減らすのが一番だと思っている。この件は消費税率アップに賛成の人からも支持を受けている。まだよく分からないが、土地税制には固定資産税、不動産取得税、都市計画税などがあるが、いずれも地方税である。「地価税」という国税があるが、これは12年前から適用が停止されている。
この地価税を復活させるなり、固定資産税などの一部国税化は考えられないのか。税率をアップさせるかどうかは別にして、固定資産税だけで年間8兆7800億円、都市計画税は1兆2200億円余りだから、合わせて年に10兆円余りの税収になっている。(以下を参照・http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/tochi.htm) 要するに、消費税率の5%アップ分に近いものだ。
 むろん、これは地方税だから全部を国税にするわけにはいかない。税率をアップした分だけを国税に入れるとか、先ほども言った地価税(国税)を復活させるなどすれば、相当の税収が見込める。もちろん「土地税」の引き上げなどでいろいろな影響は出てくるが、消費税率アップの逆進性よりはマシだろう。
消費税というのは「税額仕入れ控除」だとか、未だに「益税」と言って事業者が得をしている面(税の横取り)が残っていて、どうも評判が悪い。もっと税制全般を考えるべきではないのか。
「土地は国の基本」である。最も大切なものだ。それを利用したり活用する人たちから税を徴収することは当然であり、国税部分があまりにも少なすぎる。本来なら、土地は国有化・公有化しても良いものだ。利用者が国に“借地料”を払って運用しても良いものだ。そのくらいの価値がある。土地税制を真剣に見直すべきではないのか。(2010年7月18日)
 

「マニュアル人間」だらけの日本

日本人ほどルールや規則、マニュアルを順守する民族はないと思っている。その点は非常に真面目で良いが、マニュアル通りにいかないと途端に混乱したり、迷ってしまうようだ。また、日本人はルールや規則を大切にするが、それらを変更するのは苦手らしい。
ここで言いたいのは、規則通りに物事を処理する点では、日本人ほど信頼のおける人種はいないが、臨機応変に対応したり、即断即決で物事を運ぶのが不得手だということである。これには異論もあろうが、最近の事例を挙げて説明していきたい。
 
1カ月余り前だったが、JR北海道・石勝(せきしょう)線のトンネル内で列車火災が発生し、39人の乗客が病院に運ばれるという事件が起きた。覚えておられる人もいるだろう。
トンネル内の列車火災だからあわや大惨事になるところだったが、1人の死者も出ず本当に良かったと思う。原因は列車の脱線だったというが、結論から言うと、約240人の乗客が非常用コックを開けて脱出したから助かったのである。
その時、車掌は何をしていたのか。「車外に出ないでください」と言ったきり、避難誘導も何もしなかったのだ。「簡単に乗客を降ろしてはいけない」というマニュアルがあるそうだ。しかし、車外に出ないでくれと言われ、乗客がずっと車内に残っていたら、どれほどの死傷者が出たか分からない。ゾッとするような場面であった。
何故、そのような事態になったのか。それは乗務員が「マニュアル」通りに対応したからである。そこには、臨機応変の処置は何もなかった。
 
トンネル内でストップした列車からは煙が出ていた。事故だと知って乗務員は本社の運転指令センターへすぐに通報した。これは当然である。ところが、煙が出た場合の「マニュアル」がなかったという。炎を確認しないと、乗務員は乗客を車外へ誘導できないそうだ。
事件(業務上過失傷害の容疑)の詳しい経緯を述べるつもりはないが、指令センターと乗務員の間で1時間以上も、延々と連絡の取り合いが続いたようだ。しかし、その間、煙が車内にも充満したため、身の危険を感じた乗客らは我慢ができず、自らの判断で非常用コックを開け車外へ脱出、トンネル内を歩いて事無きを得たのである。しかし、大量の煙を吸って生きた心地がしなかったらしい。
 
以上が大体の経緯だが、普通に考えれば、いくらマニュアルが無くても、煙が充満すれば危険なのだから、乗務員は乗客を誘導するのが常識だろう。ただ、最終的には指令センターが、乗客を避難させるかどうかの判断を下すことになっているという。しかし、指令センターは現場の状況を見ることができない! だから、乗務員との間で延々と“不毛の連絡”を取り合っていたのだ。
こんな話を聞くと、何のためのマニュアルかと思ってしまう。マニュアルは大切だが、それはいつも「一定の条件」の下での対応をまとめたものである。不測の事態になれば当然、現場の乗務員が判断しなければならないだろう。そして、それを指令センターに報告し、直ちに行動に移るのが常識ではないのか。
 
こういう事例は他にもある。人身事故が起きて電車が次々と停車し、ホームに降りようにもドアが開かない。車掌は「そのままお待ちください」と言うだけ。これもマニュアルなのか。堪りかねた乗客が非常用コックを開けて車外へ脱出したとか、そんな話ばかりだ。 一体、日本人は「マニュアル」でしか動けないのか! マニュアルに縛られて、自分で判断できないのか! 
マニュアルは「一定の条件」の下では有効である。しかし、不測の事態には対応できない。不測の事態が起きると、日本人はそれを「想定外」だと言う。どこかの原発事故もそうだった。悲しいね~
マニュアル通りにしていれば、何かあっても人は「責任」を問われない。だからマニュアルに頼っている面もある。しかし、不測の事態が起きればマニュアルは役に立たないから、当事者は自分で判断し臨機応変に対処しなければならない。どうも、その辺が日本人は苦手らしい。
長くなるのでそろそろ止めるが、管理社会が徹底してくると、どうしてもマニュアル優先となってくる。それは良いが、逆に、とっさの判断とか自由な思考、機敏な反応といったものが失われてくる。その辺が現代社会の問題ではないか。そういった問題を、機会を見てまた論じてみたいと思う。(2011年7月7日)
 

末次一郎氏のこと

遠縁にあたる末次(すえつぐ)一郎氏のことをネットで調べたら、いろいろなことが出ていたのでびっくりした。末次氏とは“親戚の会合”ぐらいでしか会っていない。
彼は陸軍中野学校・二俣分校の出身で、戦後は青年海外協力隊を創設したり、沖縄返還運動、北方領土返還運動などに活躍していたことは知っていた。
しかし、私は縁戚ということもあって、政治的な話は一切しないことにしていた。あくまでも親戚の一人として見ていたのだ。
しかし、甥の結婚披露宴の時、席が隣同士だったから一度だけロシア(ソ連)の話を聞いたことがある。その時は彼も仕方がないと思ったのか、記者出身の私に対しいろいろ話してくれた。さすがに詳しく知っているなと感心したものだ。政治的な話はそれだけで、あとはあくまでも親戚付き合いだけだった。
 
末次氏は政治の世界では有名だが、人情家で実に優しく温和だった。10数年前、私の次兄が亡くなった時に病院へ飛んで行ったら、末次氏は“いの一番”に来られていた。彼は次兄を「吉隆君、吉隆君」と呼んで可愛がっていたようだが、弟の私よりも先に駆け付けてくれるとは有り難いと思うしかなかった。彼の奥さんの義妹が次兄の嫁にあたるのだが。
9年ほど前に末次氏が亡くなった時、彼の遺稿集だかが送られてきたが、その中に、モスクワなどの風景画(スケッチ)が何枚も入っていたのには驚いた。
彼はロシアの“つわもの”どもを相手に北方領土問題でやり合っていたはずなのに、寸暇を惜しんでスケッチに興じていたのだろうか。優しい人間性の一面を見る思いがしたのである。
 
フィリピンのルバング島から、元日本兵・小野田寛郎さんが戦後29年たって帰還した話は当時、大変なニュースになったものだが、小野田さんと末次氏は陸軍中野学校・二俣分校の同窓生である。 小野田さん帰国の陰で末次氏がいろいろ動いたのは事実だが、私は今でも“同期の桜”の熱い友情に感銘を受けるのである。
末次氏は佐賀県出身なのだが、ネットで調べてみると、同郷の原口一博総務大臣は末次氏の薫陶を受けたという。 また、沖縄返還運動に尽力したため、沖縄県の仲井眞弘多知事や稲嶺惠一前知事らも末次氏の盟友であった。
こういう話をし出すと、末次氏がいかに多くの人と交友を持ち、また影響を与えたか枚挙にいとまが無いのでもう止めるが、一民間人として彼が果たした役割は尋常のものではない。
 
もし彼が今でも存命中であれば、沖縄をめぐる基地問題についてどのように考えるだろうか。広く豊かな愛国心を持った末次氏のことだ。アメリカの“犬”に成り下がっているわけがない。何らかの行動をとっただろう。
彼が亡くなった時、東京・青山で葬儀告別式が営まれたが、参列してびっくりしたのが余りの人の多さであった。中曽根元首相が葬儀委員長をやっていたが、あんなに大勢の人が参列した葬儀はほとんど見たことがない。末次氏の交流がいかに幅広かったかを示すものだ。
彼の存命中にもっと政治的な教えを請うておけば良かったが、もう遅い。政治的なスタンスがどうも違う感じがして、私が避けていた面があるが、今日はまるで「末次一郎礼賛」の文になってしまった。彼が清廉潔白の“国士”であったことは間違いない。(2010年5月5日)

 

安部晋太郎家の夜回り

ヒマなので(いつもヒマだが)、むかし、安部晋太郎家の夜回りに行った話しをしたい。安部晋太郎氏というのは安部晋三首相のお父さんさんである。われわれ政治部記者は略して“アベシン”とよく言ったものだ。だから、アベシンと呼ばせてもらおう。その方が楽だ。(以下、政治家の敬称略)
アベシンは竹下登、宮沢喜一と並んでひと頃「アン・チク・ミヤ(安・竹・宮)」と呼ばれ、極めて有力な総理・総裁候補だった。ところが、不幸なことに1991年、総理を目前にしてすい臓癌で亡くなったのである。67歳だった。
人柄が穏やかで人懐っこいから、われわれは気兼ねせずによく安部家に夜回りをした。政治家・アベシンからは印象に残る話は聞いていないが、一つだけ妙に忘れられないことがある。それは安部家の年配の“お手伝いさん”から聞いた話だ。ということは、私は肝心の政治の話はアベシンから碌なものが聞けず、仕事にならなかったということか(笑)。
それはともかく、お手伝いさんの話によると、アベシンには3人の息子がいたが特に末っ子が可愛かったらしい。ところが、この子(岸信夫氏)は生まれて間もなく母方の実家の養子になったのである。つまり、アベシンは末っ子を手放さざるを得なかったのだ(次男が晋三氏)。
この時の彼の嘆きようは普通ではなく、本当に“泣き喚いた”そうである。よほど悲しく辛かったのだろう。ところが、奥さんの実父はあの元首相・岸信介だ。「昭和の妖怪」と呼ばれた政界の実力者である。彼も義父には歯が立たなかったのだろう。
この話を聞いた時、いかに政界のプリンスと言われたアベシンでも、義父には大いに世話になりどうしようもないのだと思った。彼はわれわれ記者には何も言わなかったが、親戚筋にも口が堅かったのだろう。岸信夫氏が自分が「養子」だと知ったのは、大学入学の際に取り寄せた戸籍謄本を見て初めて知ったのだという。その時は大変なショックだったらしい。
以上、安部家の内情を語ったが、アベシンは総理を目前にして亡くなった。さぞ悔しかったに違いない。しかし、息子の晋三氏が2度も総理になり、今や長期政権を目指そうとしているのではないか。息子は親父の分までやるつもりか(笑)。
アベシンが総理になっても大したことは出来なかっただろう。そんな政治の話よりも、彼が末っ子を養子に出さざるを得なかった心情を思うと、その方がずっと印象に残るのだ。以上、ヒマ潰しに駄文を書いたしだいである。

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原発を誘致した側にも責任がある (なかやん)
2012-03-05 10:39:08
おはようございます
>原発を誘致した側にも責任がある

そうなんですよねえ~
私の住んでる茨城県那珂市から直線で9km東に
那珂郡東海村の東海第2原子炉があります.

じつは,どこの県も嫌がる高レベル廃液が青森と茨城に一時保管されています.
廃液セシウム137が茨城県東海村に,福島で大気放出した分の約94倍が
保管されている.
青森県は約58倍.東海村のほうが膨大に保管されています

いずれ,保管場所は各地で不足します.原発設置さている県で,永遠に保管するようになる気がします.
原発を誘致した責任 (矢嶋武弘)
2012-03-05 11:17:13
なかやんさん、高レベル放射性廃液などは、原発を誘致した地元が保管すべきですね。それが原発を誘致した責任だと確信します。
どんなに国が金を出そうとも、全く関係のない地域が受け入れるべきではありません。それこそ「自己責任」ではないですか。
ある程度危険を覚悟し、誘致して大金を貰っているのですから、そのくらいのことは自己責任でやって貰いたいものです。
同感です (なかやん)
2012-03-05 16:17:57
こんにちは
>原発を誘致した地元が保管すべきですね
同感です
那珂市の隣が,那珂郡東海村
高レベル放射性廃液が東海村に保管されるのは
誘致した責任ですね.那珂市は誘致してないと言ってもそれは理由にはならない.

同じ事が,福島県の中間貯蔵施設です.
汚染土などを保管する施設の建設を
双葉郡双葉町や,南相馬市は拒否してるようですが,そうはいかなでしょうねえ
地元の「自己責任」 (矢嶋武弘)
2012-03-05 18:00:55
なかやんさん、全く同感です。原発などを誘致して大金を毎年貰い、他の市町村よりはるかに恵まれた生活を送ってきたのですから、廃棄・保管場所になって当然です。
中間貯蔵施設も、原発の恩恵にあずかってきた双葉町などが受け入れるのが当然でしょう。
これを「自己責任」と言います。

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