矢嶋武弘の部屋

風林火山
日一日の命 日々新たなり

第2部・啓太がゆく(労働組合騒動・その4)

2017年07月12日 03時18分19秒 | 文学・小説・エッセー

なかなか寝付かれない。今村や小出、それに木内典子ら組合員の顔が脳裏の浮かんでくる。彼らは啓太をじっと見据えて、「組合を脱退するのか?」と詰問しているみたいだ。それらの“幻覚”を振り払って啓太は眠りにつこうとする・・・しかし、眠れない。
彼はベッドの上で上半身を起こし、しばらく放心状態になった。どうして俺は眠れないのだろうか。俺はそんなにも小心で気が弱いのか。啓太は自分が情けなくなった。両親にも石浜部長にも組合を脱退すると約束したのに、いざとなるとひるんでしまうのか。自問自答にもならない不毛の想念に、啓太は次第に疲れてきた。
また横になって2時間、3時間・・・結局、彼は一睡もできずにその晩を過ごした。これなら、仮眠を取らず起きていた方がよっぽど良かったではないか。啓太は疲労を感じながら、再び職場に戻った。曽我と中野は愛想よく彼を迎え、3人で朝ニュースの放送準備に取りかかる。大した事件などは起きなかったので、放送は難なく終了した。
いつもの出前の朝食を済ますと、啓太はようやく落ち着きを取り戻した。疲れてはいたが、覚悟を決めて今村たちの出勤を待つ。そして9時半ごろ、日勤の報道部員らが次々と出社し、その中に今村も小出もいた。啓太は2人をすぐに報道の部屋の隅に呼んだ。
「もうじきカメラの取材に行くんだよ。何かあれば簡単に言ってくれ」
小出は撮影取材班と掛持ちで、今日は午前中に仕事がある。
「うん、分かった。簡単に言おう。僕は組合を脱退することに決めたよ。それだけだ」
今村が驚いた表情を浮かべ聞いてくる。
「えっ、組合を辞めるだって? それは本当か?」
「ああ、本当だよ」
「よく考えて決めたのか?」
「もちろん、よく考えた」
「誰かに何か言われたのか?」
「特にないよ。自分の判断で決めただけさ」
今村の矢継ぎ早の質問に、啓太は動揺することもなく答えた。もちろん、石浜部長や両親との話し合いについては伏せている。今村がさらに追及してきた。
「それは意外だな。山本は組合に理解があったじゃないか。考え直す気はないのか?」
「もう決めたことさ。すぐに脱退届を出すことにした。申し訳ないが、いま話せるのはそれだけだ」
啓太が答えると、小出が口を入れてきた。
「俺はカメラ取材に行かなければならない。山本、よく考えろよ!」
小出はそれだけ言うと、忙しそうに撮影の部署へと戻っていった。今村が言った。
「そうか、それは残念だな。見損なったよ」

彼は冷ややかにそう言うと、くるりと背を向けて立ち去った。啓太はしばらくそこにいたが、やがて昼ニュースの手伝いをしようと職場に戻った。通信社のゲラなどを整理するうちにニュースの時間が来て、それが終わると仕事から解放された。
そして、啓太が帰ろうとすると木内典子が声をかけてきた。
「山本さん、組合を辞めるんですって? 先ほど今村さんから聞きました」
「ああ、そうですよ」
「残念ですね。でも、山本さんの立場なら仕方がないでしょう」
妙に分かったような彼女の口ぶりに、啓太は興味をそそられた。
「どうしてそう言うの? 今村なんかとずいぶん違うな」
「だって、山本さんは石浜部長と深い関係ではないですか。こうなると思ってましたわ」
典子の言い分に啓太は返事ができなかった。一本とられた感じだ。
「ちょうどいいわ。山本さんに話があるの。食事を一緒にしませんか?」
彼女の誘いに彼は抗する気にもなれず、2人は連れ立って歩き始めた。典子は大柄な女性なので、背は啓太ほどある。一緒に歩くと少し圧迫感を覚えるが、知的で優しい面が職場の男性に人気があり、仕事ぶりも堅実で真面目だ。啓太は何の話かと興味を持った。
2人は社員食堂に入るとありきたりの定食を注文し、片隅のテーブルに向い合せに座った。典子は食事をしながら、啓太に話しかけてくる。
「山本さん、こういう話に驚かないでね」
「えっ、どういうこと?」
それから典子は手短かに話し出したが、その内容に啓太は驚かないではいられなかった。それはつい最近、組合の岡山委員長と島村副委員長が陣内社長の自宅を訪れ、労働組合を解散する意向を伝えたというのだ。理由は組合問題で社内の融和が完全に破壊され、職場での人間関係が“泥沼”のように醜悪な状態に陥ったからだという。
典子の説明を聞いて啓太はすぐに尋ねた。
「組合が解散するって、社長は喜んだのかな?」
「それがまったく予想外だったのです。陣内社長は、お前たちはそれでも男か、一遍やると言ったらとことんやれ、そうでないとお前たちの立場は駄目になるだけだ、社長はそう言ったというのですよ」
啓太は愕然とした。あれほど組合を嫌っている陣内が、どうしてそんなことを言ったのだろうか・・・それにしても、典子はどうしてそういう情報に詳しいのだろうか。

「信じられないような話だな。でも、木内さんはよくそんなことを知っているね。どこから情報を得ているの?」
啓太は思わずそう聞いた。そう聞いたが、すぐに彼女が組合の執行部に深く関わっていることを思い出した。
「別に。ただ話が伝わってきただけです」
典子はそう言ってニコリと笑った。その瞬間、啓太は彼女が執行部の山村邦男と仲が良いことを思い出した。そうだ、典子は山村から情報を得ている!? 彼と典子は都立NISHI高校の先輩・後輩の間柄だし、2人は“交際中”だという噂も聞いている。それで合点が行った。しかし、啓太は2人の仲については触れずに聞いていった。
「でも、岡山さんと島村さんが組合を解散する意向だというと、それに反対する人も当然いるだろうね?」
「そうよ。せっかく苦労してつくった組合を解散するなんて、許されることではありません。私は組合員の1人としてもちろん反対です。でも、それを陣内社長から言われるなんてなんと“皮肉”なことでしょう。複雑な気持になります」
典子はそう言って俯いてしまった。どこか悔しそうな素振りである。啓太は岡山と島村が陣内社長に振り回されている感じがしたが、では、なぜ陣内は組合の解散に反対したのだろうか。どうしてもその点が気になる。降伏した相手に寛大な姿勢を示したのか。それとも、何かほかの意図があったのだろうか・・・
そんな疑問が湧いてきたが、ここでそれを詮索しても仕方がない。啓太はさらに聞いた。
「僕が組合を脱退するというのに、木内さんはどうしてそういう話をするの?」
すると、典子は顔を上げた。
「ご想像にまかせます。私はこういう話を聞いて我慢ができません。それにこの会社にいても、どうせ1年ちょっとで定年になります。だから、山本さんに話を聞いて欲しかったのですね。お時間を拝借してどうもすみませんでした。そろそろ帰りましょうか」
そう言って、典子は晴れやかな笑顔を浮かべた。なにか吹っ切れたような感じである。食事を済ませると2人は別れたが、啓太は彼女の話が頭にこびりついて離れなかった。陣内社長と岡山委員長らとの面会、それに典子の告白のような話・・・どちらも意外なことだった。
彼女が我慢できない、どうせ1年ちょっとで定年になると言ったのは、もう会社を辞めようということか? あの吹っ切れたような笑顔が脳裏に浮かんでくる。それにしても、組合を脱退する自分に内心をさらけ出すような話をして、典子はどういう気持でいるのか。いろいろな疑問が啓太の心に湧いてきた。

それから数日以内に、彼は組合の脱退と協議会への入会手続きをすませた。木内典子とはその後ほとんど話さなかったが、彼女がある決意を固めたことはなんとなく読み取れる。というのは、あれほど真面目な典子がよく休むようになったからだ。職場に迷惑をかけることもあまり気にしない様子である。
季節は3月に入り初春の頃を迎えた。浮き浮きするような春の息吹を感じる頃だが、報道の職場は、いや会社全体がなにか重苦しい雰囲気に包まれた気配である。そんな折、ある奇妙な噂が立った。それは労働組合の執行部に対して、執行委員の山村と植木の2人が辞表を提出したというのだ。
啓太ははじめ気にも留めなかったが、どうやら2人は岡山委員長らの行動に抗議して辞めることになったという。つまり、岡山と島村が陣内社長に会って組合の解散を申し出たことに強く反発したようだ。組合はどうなるのか・・・啓太はようやくそういう動きに関心を持った。
彼は今村に話を聞こうと思ったが、今村はもう啓太を相手にしていない。ほぼ絶交状態になっている。他の組合員も、啓太が組合を辞めたことに怒っていた。彼を見る目付きが険しい。技術部のある組合員は、啓太の顔を見るなり「どうしたんだよ!」と悪態をついたほどだ。明らかに敵意を感じる。
彼は組合のことを忘れて、仕事だけに専念しようと思った。そうするしかない。とにかく前向きに生きるしかないではないか。 そう心に決めたある日、啓太は仕事を終えて退社しようとすると、典子から声をかけられた。
「山本さん、少し話をしませんか?」
「ああ、いいですよ。喫茶店へでも行こうか」
まるで偶然のようだが、啓太はその時を待っていたのだ。彼は典子の異変について聞こうと思っていた。
「最近、わりと休むね」
「ええ、どうもすみません。それもお話ししましょう」
啓太の問いに彼女はそう答えるだけだ。
2人は連れ立って歩き始めたが、彼は曙橋(あけぼのばし)にあるN喫茶店へと向かった。ここは独りでくつろぐ時などよく利用する。啓太は典子と話すならここが最もふさわしいと思っていた。店に入ると、どうやらFUJIの社員は他に見当たらないようだ。2人は奥まったボックスに座るとコーヒーなどを注文したが、しばらくして典子が口を開いた。
「山村先輩は結局、会社を辞めるそうです」
「えっ、そんな・・・辞めてどうするの?」
啓太が驚いて聞き返すと典子が答えた。
「辞めて好きな農業を始めるそうですよ」

「農業だって? そういう仕事を山村さんは本当にするの?」
啓太がまた驚いて聞くと、典子が説明を始めた。それによると山村は組合運動にすっかり絶望し、会社を辞めてもともと好きな農業を本格的に始めるというのだ。“無農薬農業”とか言って、まだあまり普及していない新しい農業に取り組むのだという。
「無農薬農業だって? そんなの聞いたことがないな」
「無農薬農業とか有機農業とか、私もよく知らないことを言ってましたよ。それも、筑波山麓で始めるんですって・・・」
典子も農業のことは素人だから、その辺のことはしっかりと説明できない。ただ、彼女が山村の将来について気になっていることは明らかだ。啓太は典子の本心が聞きたくなった。
「それで木内さんは、山村さんについていく気があるの?」
すると、典子は黙ったまま俯いてしまった。しばらくして、彼女は訴えるような表情で顔を上げた。
「私、迷っているのです。山本さん、私、どうすればいいのでしょうか? 決心がつかないのです」
そう言って、彼女はまた俯いた。典子が本心を打ち明けたのは間違いない。しかし、啓太はどう答えていいのか分からず黙っていた。すると、彼女はまた顔を上げ、今度は鋭い目付きで啓太を見据えて言った。
「私、定年まで1年あまりしかないですから、もう会社を辞めたいと思います。早めに辞めて、将来のことをよく考えるつもりです」
典子は山村との関係については触れなかった。しかし、退職の意志は固いのだろう。啓太はすぐに同意はできず、ありきたりの返事をするしかなかった。
「木内さんが辞めるなんて本当に惜しいよ。たとえ1年あまりとはいえ、定年まで勤めて欲しいね。だって、君はベテランの報道部員じゃないか。もう少し考え直してみてはどうなの?」
すると、彼女はコーヒーを一口飲んでから語った。
「私、女子25歳定年制という制度に我慢できません! これに抗議する意味でも、定年前に辞めたいと思います。依願退職の理由にも、そのことをきちんと書くつもりです。それでいいかしら?」
「それは結構だ。でも、滝川さんは定年までしっかりと働くよ。それが本当じゃないかしら」
「和江さんはそのあとすぐに結婚します。国枝さんとです」
「えっ、そうか・・・それはめでたいな。ところで、国枝さんは元気にやってるのかしら」
啓太がそう聞くと、典子がうらやまし気な表情で答えた。
「元気らしいですよ。編成部がけっこう合っているみたい。和江さんとの結婚が近いから、余計に張り切っているんでしょ」
典子はそう言って苦笑いを浮かべた。

国枝は1年たったら報道に返してくれと石浜部長に直訴したはずだが、今や編成部で生き生きと仕事をしているのか。他人事ながら、啓太はそれも結構だと思った。また、滝川和江はもうすぐ25歳の定年退職を迎えるが、そのあと国枝先輩と結婚する。それも大いに結構だと思っていると、典子が明るい声を上げて聞いてきた。
「そうそう、山本さんは“ユカリスト”ですって? この前、植木さんから聞きましたよ。ドラマ制作へ行った時、植木さんと一緒に仕事をしたのですか。ドラマって面白いでしょうね」
急に話が変わった。典子は組合の活動で植木とも仲が良いのだろう。植木亮介、彼は山村邦男と共に労働組合の結成に最も熱心に関わった1人だ。つい最近、岡山委員長らの対応(組合解散)に抗議して、執行委員を辞めたばかりである。啓太がドラマ制作部にいた時、『まためぐり合う時』のドラマの仕事を一緒にした仲だ。
「へえ~、植木さんがそう言ってたの。そうね・・・僕はユカリストかもしれないな。でも、それがどうしたの?」
ユカリストとは女優・吉永ゆかりのファンだということである。啓太が聞き返すと、典子が笑って答えた。
「こういう話は面白いわ。山本さん、その時のことをもっとくわしく教えて」
そう言って彼女がいろいろ聞いてくるので、啓太は適当に答えていった。特に俳優・蔵原圭一の自殺未遂については慎重に話したが、1年ほど前のあの頃、仕事に没頭できたことを懐かしく思い出した。それに比べると、今はなんとぎすぎすした棘(とげ)のある社内環境だろうか。
そう思ううちに時間がたっていく。やがて典子が言った。
「今日は楽しかったわ。山本さん、どうもありがとう。でも、ここだけの話にしておきましょう。いずれ、知れ渡ることですが」
彼女はそう言って、話に区切りをつけようとする。啓太も遅くなるのは嫌なので、N喫茶店を出ることにした。2人は外に出ると別れたが、啓太は典子の人なつっこい振舞いにある種の快感を覚えた。彼女は自分に好意を持っているのだろうか・・・そんなことはないはずだ。
組合を脱退した自分に、木内典子が好意を抱くはずはない。それなら、なにか他の意図があるのだろうか。そんなことを考えながら啓太は帰路についたが、彼女の明るい笑顔が妙に脳裏にこびりついていた。

3月も終わりに近づくと、人事異動の内示が行われた。注目されたKYODOテレビ社員のFUJIテレビへの移籍は、準備が整わなかったのかもう少し遅れるという。しかし、それは時間の問題だ。この頃になると、啓太はKYODOテレビの社員といっそう親密になった。彼らは希望に満ちた表情に見て取れる。付き合っていると気持がいいのだ。
そんなある日、石浜が啓太に声をかけてきた。
「山本、今日は都合はどうだ?」
「ええ、大丈夫です」

石浜と啓太の関係は最近すっかり良くなっている。
「それじゃ、歌舞伎町で一杯やるか」
「ええ、いいですよ」
啓太はこころよく答えた。石浜の話ではその日、川崎松之助とNIPPON放送の杉山宏、それに同盟(全日本労働総同盟)書記局の松坂伸男が同席するというのだ。松坂は労働運動に携わっているが、石浜とは旧知の間柄で飲み仲間でもあるという。
仕事が終わると、石浜と川崎、啓太の3人はタクシーで歌舞伎町の某居酒屋に赴いた。やがて杉山が姿を現わした。彼とは以前、逗子で海水浴を一緒にしたことがある。啓太は、杉山が陽気で多弁だったことを思い出した。この日も石浜や川崎を相手に、彼はNIPPON放送の現状などを勝手にしゃべっている。
そうこうするうちに松坂が現われた。ずんぐりした体形で、石浜よりはかなり老けて見える。なんとなく貫禄があるのだ。石浜がみんなに松坂を紹介し、それぞれビールや日本酒を飲んでいった。彼が現われたせいか、話題は最近の労働運動や政治のことに移った。こういう話は石浜が最も得意とするものである。
彼はもっぱら松坂を相手に話していたが、途中で啓太にも声をかけてきた。
「ところで君は、政治家などになりたいと思ったことはないのか?」
急な問いに啓太は戸惑ったが、松坂も同席しているので、政治に前向きな姿勢を見せた方が良いととっさに考えた。
「ええ、できれば政治家にもなりたいですね。でも、なれるかどうか・・・」
そう答えると、杉山が面白がってはやし立てる。
「やってみろよ。君は若いんだから何でもできるぞ!」
すると川崎も続いた。
「山本君、これからは君たちの時代だ。大きな志を持った方がいい」
杉山や川崎におだてられ、啓太は悪い気がしなかった。酒も入り気分が高揚してくる。ところが、その時、松坂が甲高い声で怒鳴った。
「なんだって? 政治家になるって? 君は何を考えているんだ! そういう社員が会社を駄目にするんだ! 馬鹿なことを考えるな! もっと会社のことを考えろよ!」
一瞬にして、座は白けた。啓太は返事ができずにいたが、石浜は面白かったのかニヤニヤしている。彼は松坂に語りかけた。
「まあ、いいじゃないか。山本は本気で言ってるんじゃないさ。君が同盟の専従だと聞いて、政治に関心があるってことを言いたかったのさ。それだけだよ。さあさあ、飲もう!」
石浜が話を引き取ったので、ようやく座の雰囲気は元に戻った。しかし、啓太はショックを受けたのかしばらく無言のままだ。彼は自分自身に問う。会社に“忠誠”を誓うことがサラリーマンの責務なのか・・・ どうやら、今日の会合は石浜が仕掛けた罠(わな)だったのかと。

4月になった。大きな人事異動はなかったが、しばらくして滝川和江が25歳の定年を迎え職場から去っていった。KYODOテレビ社員のFUJIテレビへの移籍は少し遅れていたが、この時期に報道部員の最も注目を集めたのが、ニューヨーク特派員人事での窪川治男の内定だった。
ニューヨークは初の海外支局とあって、誰が特派員に選ばれるか関心の的だったが、窪川に白羽の矢が当たったのである。組合員からは「あの“ゴマスリ野郎”が」という声が上がったが、窪川は組合を脱退したあと、石浜部長ら会社側に忠実に仕えていた。その論功行賞なのか、組合を“踏み台”にして出世した印象を与えたのである。
一方、組合員への“差別化”は陰に陽に進んでいたようだ。例えば、啓太の場合は4月の昇給が順調に上がったのに、報道で同期の小出誠一は啓太よりも昇給が低かった。それが分かると、小出は悔しがって「小石が流れて、木の葉が沈んだ」と嘆いた。本来は小石が沈んで、木の葉は流れるものである。
それが道理というものだが、逆の形になったから、小出は“理不尽”だと嘆いて悔しがったのだ。その話を石浜が面白がって吹聴したので、みんなに知れ渡った。啓太は複雑な気持になったが、どうすることもできない。自分が小出よりも昇給が高かったのは、上の管理職が決めたことである。啓太はやむを得ないと思ったが、これを契機に小出との仲がいっそう冷え込んでいった。
それとは別に、同じ同期の今村直樹は急におとなしくなった感じがする。あとで石浜に聞いた話だが、3月のある日、今村の“継母”が石浜の家を訪れて真剣に頼みごとをしたそうだ。この継母は彼の父の後妻だが、とても人柄の良い女性だったので石浜は感服したと語っていた。彼女は誠意を尽くして頼みごとをしたのだろう。それもあってか、今村は組合員ながら報道部に残ることができたのである。
そして、4月中旬、KYODOテレビ社員のFUJIテレビへの移籍がついに実現した。総勢75人、待ちに待った移籍である。啓太は仲の良い坂井則夫に声をかけた。
「良かったね。これからもずっとよろしく」
「こちらこそよろしく。これで完全にFUJIテレビ社員だ」
坂井の声は弾んでいた。希望とやる気に満ちた感じである。ほかの“新入社員”ももちろん同様で、職場はぐっと盛り上がった雰囲気になった。KYODOテレビから来た報道部員には専門的な知識を持つ者がかなりいて、啓太らにとっては大いに良い刺激となる。職場の活性化につながるのだ。
こうして報道部の空気は一新されたが、社内は組合員への差別や嫌がらせで、相変わらず淀んだ雰囲気に包まれていた。ドラマ制作部の山村邦男が辞表を提出したのはこの時期である。啓太は木内典子との話を思い出し、彼女は一体どうするのかと案じた。典子は山村のあとを追ってやはり辞めるのか。
もう一度彼女と話し合って、退職をなんとか止められないか・・・そう考えながらも、啓太は自分の非力を覚らざるを得なかった。ちょうどそのころだったが、石浜部長が報道の別室に啓太を呼んだ。

「どういう御用ですか?」
啓太が気軽に聞くと、石浜はすぐに答えた。
「君、アメリカへ留学する気はないか? 半年か1年だよ」
「えっ、留学・・・どういうことですか?」
突然の話に啓太は面食らったが、石浜は簡単に説明していった。それによると、FUJIテレビではアメリカの先進的な放送メディアを学ぶために、3人ぐらい留学させる方針だという。CBSやNBCなどのテレビ局で実地研修をするのも良いし、大学でメディア論を学ぶのも自由だというのだ。そして、アメリカ行きの条件は帰国後、会社にレポートを提出すれば済むというからとても楽な留学である。
「どうだ、山本、行く気はないか? 君も組合問題ではけっこう苦労したからな」
石浜の問いに、啓太は承諾するかどうか一瞬迷った。これも論功行賞なのか・・・しかし、彼にも意地がある。ここで承諾すれば、誰かのように“ゴマスリ”で留学することになるのではないか。
「部長、これは“業務命令”ですか?」
「違うよ。留学する気があるかどうか聞いているだけだ」
「それなら結構です。せっかくの話ですが、業務命令でなければ行きません。それより一日も早く現場の記者に出させてください。事件記者でもなんでも結構ですから」
啓太が正直に一気に話すと、石浜は笑い声を上げた。
「ハッハッハッハ、山本、お前は意地っ張りだな。分かったよ、人事部長に話しておく。現場に出るのはもうちょっと待ってくれ」
そう言うと、石浜は席を立って部屋から出ていった。留学の話は少し惜しい感じもしたが、啓太は断って良かったと思う。彼はこの前、同盟の松坂に怒鳴られたことを思い出していた。「君は何を考えているんだ! もっと会社のことを考えろ!」といった言葉が浮かんでくる。
会社に忠誠を誓うことだけが全てではないが、今は『非組合員』だけが優遇されるのは良くない。組合員の反発を招くだけだ。そう考えて、啓太は納得したのである。

それから数日後、人事異動の時期は終っていたのに気になる動きがあった。それは内勤の木内典子が番組制作班のドキュメンタリー担当に移ったことだ。変な異動だなと啓太は思ったが、部署が違うし彼女はほとんど席を外しているので、その辺の事情をすぐに聞くことができない。
気がかりではあったが、啓太は通常の仕事に没頭するしかなかった。そのうちに、典子の先輩である山村邦男の依願退職が認められた。彼はやはり筑波山麓で無農薬農業に取り組むのだという。ところが、山村が退職した直後から、彼は“共産党員”ではないかなどのいろいろな噂が表面化してきた。

こういう噂が出る一方で、社長の陣内は組合結成の背後に左翼、特に共産党の工作があると信じて疑わなかった。事実、FUJIテレビの労働組合は結成時に左翼色の強い「民放労連」に直ちに加入し、かなりの社員の反発を招いたことがある。このため、陣内は組合の中心人物の割り出しに懸命になっていたのだ。彼が岡山委員長らの組合解散の方針にあえて反対したのも、そういう意図があったからだろうか。
啓太はこの話を先輩の川崎たちから聞いて、山村が“首謀者”の1人だと思った。しかし、彼は会社を辞めたのだ。また、同僚の植木亮介も美術部の関連会社に出向という形で飛ばされている。こうなると今さらあれこれ調べても、あまり意味がないと啓太は思った。それよりも現実問題として、女子社員25歳定年制をなんとか変えられないのか。
彼は木内典子のことが頭から離れなかった。そこである日、啓太は思い切って石浜部長に質問をぶつけてみた。
「25歳定年を、少なくとも27歳とか28歳に引き上げられないのですか?」
石浜はしばらく考えていたが、やがて啓太を見据えて言った。
「むずかしいね。そうすると対象者は何十人にも増える。それは社長が認めないと思うよ。少し時間がかかるな~」
「それじゃ、女子アナウンサーのように1年契約で延長できないのですか?」
「う~む、それもむずかしいな。人事部長と相談してみるけどね。君は木内君らのことを考えているのか?」
木内典子の名前を石浜が言ったので、啓太は少し顔が赤らむのを覚えた。彼は素知らぬ振りをして石浜の元から離れたが、やはり典子のことが気になって仕方がない。今度彼女に会ったら、いろいろ聞いてみるしかないか・・・
やがて、季節は5月になり爽やかな日々が訪れた。ところが、25歳定年に絡むある問題が起きたのでる。それはFUJIテレビの女子アナウンサーの幾人かが、あろうことかTOKYO放送に移るというのだ。その中には啓太と同期の中畑公子も含まれている。
彼女らはFUJIテレビを見限って待遇の良いTOKYO放送に移るのだが、これを聞いて啓太は愕然とした。要するに、このテレビ局はTOKYO放送の“養成所”になったのか。もし、そうなら馬鹿じゃないのか! 22歳で大学を卒業しアナウンサーになっても、25歳くらいではまだ未熟な者が多い。25歳を過ぎるぐらいから、ようやく花が開いてくるのだ。
そこに25歳定年制の壁があるから、彼女たちはFUJIテレビを見限って他局に移る。こんなことでは堪らない。なんとかしなければ・・・ 啓太はもう一度 石浜に話をしてみることになった。しかし、女子アナウンサーの実情を語っても、石浜は「う~む」と呻くだけである。
これでは仕方がない。啓太が諦めかけていると、数日後に木内典子と会う機会が訪れた。彼女はあるドキュメンタリー番組の取材を終え、職場に戻ってくるところを啓太に出会ったのだ。
「元気にやってる?」
彼が気軽に声をかけると、彼女はニコリと笑って答えた。
「ええ、とてもやり甲斐のある仕事よ。私、やはり記者になろうかしら」

「うん、わが社の女性記者第1号だね。ところで、今日は時間がとれないかな」
啓太が気持よく応じて聞いた。
「今日はドキュメンタリーの編集などで遅くなりますから、無理です。明日かあさってなら大丈夫だと思いますから、連絡しましょうか?」
「うん、そうしてくれる、待っているよ」
啓太がそう答え、2人はなごやかな気分で別れた。そして、翌日は典子の都合がつかなかったため次の日、2人は曙橋のN喫茶店で落ち合うことになった。この場所は東京女子医大に通じるFUJIテレビの正面玄関とは逆方向なので、比較的静かな所だ。会社の同僚らと会うことも少ないので、ゆっくりと話ができる雰囲気である。啓太が喫茶店で待っていると、やがて典子が現われた。
「お待たせしました。ようやくドキュメンタリーを仕上げたのよ」
そう言って、彼女はにこやかな笑顔を浮かべた。
「ドキュメンタリーか、いいな。僕もやってみたいよ」
啓太が応じると、2人は会社の仕事話しを始めた。やがて話題は組合の問題や労働環境などに移り、啓太は先日の石浜との話し合いに触れてこう言った。
「残念ながら、女子25歳定年を延長するのはむずかしいみたいだね。石浜さんもそれは無理だろうと言っていた。報道だけとはいかない。社内には何十人も対象者がいるから、全社的には無理だということだ」
「そうですか・・・」
典子が残念そうに俯いたので、啓太はさらに聞いた。
「ところで、木内さんはドキュメンタリーの仕事をずっと続けるの?」
「実は私、雑誌記者の仕事に移ろうかなと思います」
「えっ、やっぱり会社を辞めるの?」
「そうです」
2人の会話が途切れた。しばらくして典子が口を開く。
「ドキュメンタリー班に移ったのは石浜部長の配慮があったのですが、女性が25歳で定年というのはどうしても納得がいきません。もうすぐ退職の手続きをとるつもりです。ドキュメンタリーは最後の仕事ですね」
「山村先輩とは何か・・・」
「ええ、山村さんとも相談しました。彼はそれでいいだろうと言っていました」
啓太は典子の決意が固いのを知ったが、どうしても山村のことが気になる。
「彼は共産党員だって? そういう噂が広がっているけど」
そう質問すると、典子はきっとなった顔つきをして答えた。
「そんなことは知りません。どうでもいいことですわ」
彼女はそれ以上は語らなかったので、啓太は最も気になることを聞いた。
「木内さんは山村先輩についていく気はないの?」

「ついていきませんよ。だって、私は女性雑誌の記者になるんですもの。その前に、ドキュメンタリーの仕事を十分にやりたいのです」
典子はすらすらと答えた。啓太がさらに聞くと、彼女は雑誌『女性の未来』の契約記者になるのだという。それは今のドキュメンタリーの仕事を終えてからで、たぶん8月か9月になるそうだ。
「今の仕事、面白くなりますよ。“世界の国境”を取材するか“世界の子供たち”を取材するかどちらかは分かりませんが、ドキュメンタリーでやることになったのです。私は国境の方をやりたいのですが、まだ決まっていません。もうすぐはっきりするでしょう」
典子の目つきは生き生きとしている。それを見て啓太は羨ましく思ったが、コーヒーを一口飲んでからさらに尋ねた。
「いいな~。でも、雑誌社の方も契約社員なら落ち着かないね。正式な社員にはなれないの?」
「いえ、小さな出版社ですからね。いようと思えば、いつまでもいられるようですよ。もっとも、私に能力がなければ別ですが」
そう言って、典子はおかしそうに笑った。彼女に能力がないわけはない。啓太は入社以来、2歳年下の典子になにかと教わりながら内勤業務を続けてきた。高校卒の職場の先輩でもあり、その彼女には敬意を表してきたのだ。
「山本さん、記者と記者は一緒に生活することができますか?」
出し抜けに典子が聞いてきた。
「えっ、それはどういう意味? 記者と記者が一緒に生活するって」
「フフフフフ、いえ、なんでもありません。あら、そろそろ私 帰らなければなりません。また、お話しましょうね」
彼女は含み笑いを浮かべながら、帰り支度を始めた。啓太も立ち上がるとレシートを持って出口の方へ向かう。典子が財布を取り出したが、啓太はそれを押しとどめ料金を払った。2人は喫茶店を出るとすぐに別れたが、彼は典子の言葉が気になって仕方がない。
記者と記者が一緒に生活する、それは・・・と考え、啓太はハッと気がついた。自分も典子も記者志望ではないか。すると、この2人が生活を共にするとは結ばれるということか。彼女は自分に対し結婚願望があるのか? まさか・・・啓太はそんな憶測を打ち消した。
典子に対し好意こそ持っているが、それが即=結ばれるということではない。好きな女性は他にもいる。だが、組合問題であれほど敵対したはずの典子と、今こうして和やかに話ができることに啓太は不思議な快感を覚えた。(続く)

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