矢嶋武弘の部屋

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ディオゲネスと人間の“誇り”

2017年07月29日 10時43分18秒 | 思想・哲学・宗教・エッセー

人間の誇りとかプライドというのは、往々にして傲慢とか独りよがりなどにつながる。だから誇りそのものは良いのだが、他人を時として傷つけやすい。その点は十分に注意しなければならないが、この前、あることを思い出して痛快な気分になった。
それは、プルターク(プルタルコス)の「英雄伝」に出てくるアレクサンダー大王と哲人・ディオゲネスのやり取りだ。有名な逸話だからご存知の方も多いと思うが、もう一度振り返ってみよう。
アレクサンダー(アレクサンドロス)大王は古代ギリシャの英雄で、ペルシャ帝国を征服したことなどで知られる人物だ。この大王がペルシャ遠征に出かける前に、他のギリシャ人らとコリントスという所に集まった。いわば“壮行会”みたいなものを開いたところ、多くの政治家や有名人らがお祝いの挨拶に来たという。
ところが、その当時、コリントスの辺にいたディオゲネスという人は来なかった。ディオゲネスは相当に有名な哲人だったらしく、プルタークによれば、アレクサンダーは彼が来てくれるものと期待していたという。
ディオゲネスは樽(たる)に居住し、犬のような生活をしていたからかなりの変人、奇人だったのだろう。それはともかく、アレクサンダーはある日、大勢の部下を引き連れ彼に会いに行った。相当に興味を持ったのか。
ディオゲネスはちょうど日向ぼっこをしていた。彼はちょっと身を起こし、アレクサンダーをじっと見つめた。この辺はプルタークの「英雄伝」から忠実に記述しているが、彼は何事かと思ったのだろう。
そこで、アレクサンダーはディオゲネスに挨拶し、「何か頼みはないか」と聞いたという。“最高権力者”は往々にして、何か望みはないか、欲しいものはくれてやるぞといった態度をとる。その時のアレクサンダーもそうだったのだろう。
ところが、日向ぼっこをしていたディオゲネスは次のように答えた。「ちょっと、その日の当たる所をどいて」と。これには、アレクサンダーも非常に驚いたらしい。こんな返事が来るとは思いもよらなかっただろう。
プルタークの「英雄伝」によれば、アレクサンダーは自分が無視されたというのに、ディオゲネスの誇りと偉さに感服したという。彼はそこを立ち去りながら、「私がもしアレクサンダーでなければ、ディオゲネスになりたい」と語った。大勢の部下たちは大笑いして主人を嘲(あざけ)ったという。
余談だが、この当時、20歳のアレクサンダーに対して、部下たちは“仲間”のような親近感を持っていたのだろう。これが古代日本だったら、部下たちは「無礼者!」と叫んで、ディオゲネスを一刀のもとに切り捨てたかもしれない。
以上が、アレクサンダー大王とディオゲネスのやり取りだったが、私はこの文を書いているうちに、人間としての“誇り”の尊さを学んだような気がする。ディオゲネスの哲学を云々する時間はないが、彼は人間としての誇り、尊厳を十二分に持っていたのだろう。
我々もそうでなければならない。相手が最高権力者であろうとも、また天皇やローマ法王であろうとも、お互いに一人の人間には変わりがない。ディオゲネスのように乞食の格好をしていても、正々堂々としていようではないか。日本にも「ボロは着てても心は錦」という言葉があるのだ。

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