矢嶋武弘の部屋

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小渕恵三氏のこと

2016年10月18日 10時15分55秒 | 政治・外交・防衛

<以下の記事を一部修正して、復刻します。>

病気入院中にふと、小渕恵三さん(元首相)のことを書きたくなった。といっても、私は小渕さんをそんなに知っているわけではない。某テレビ局の政治部記者をしていた頃、まあまあの付き合いがあった程度だ。しかし、私の先輩記者であるKさんと、後輩記者のF君が小渕氏ととても仲が良かったため、彼のことを側面からいろいろ知るようになったのだ。
前置きはともかくとして、小渕さんが一般に知れ渡ったのは、竹下登内閣の官房長官時代に、昭和天皇の崩御で元号が昭和から平成に変わり、“平成おじさん”の異名をとった時からだったろう。それまでは、彼は地味な人柄だったので、一般にあまり知られていなかったと思う。(参考→https://www.youtube.com/watch?v=u67TCWayBQo

しかし、小渕氏が芯の強い保守本流の政治家だったことは、私はK先輩やF君から聞いて知っていた。いろいろな話があるが、例えば学生時代の若い頃、小渕氏は同期のKさんと共に、当時 アメリカの施政権下にあった沖縄へ果敢に旅行したという。沖縄をぜひ見ておきたかったのだろう。
その熱意が後日、彼が首相としてサミット(主要国首脳会議)の開催地を沖縄に決めさせ、日本初のサミット“地方開催”となったのだ。ただ残念ながら、2000年7月のこのサミットには、小渕氏はすでに脳梗塞で死去したため、後任の森喜朗首相が出席した経緯がある。
小渕氏は学生時代の1963年に沖縄を訪れたというが、この当時は沖縄旅行も大変だった。余談だが、私もK先輩から沖縄の話を聞いて刺激を受け、1967年に友人と沖縄へ旅行したことがある。ところが、当時は“外国”だったため、パスポートや予防接種などが必要となり、通貨も円をドルに替えたりして行ったものだ。東京の晴海埠頭から船で約48時間もかかった。

話が自分のことになってしまったが、これもK先輩と小渕氏からの影響である。その頃から小渕氏のことは知っていたが、彼は26歳の若さですでに衆議院議員になっていた。選挙区は旧群馬3区である。その後、小渕氏は田中角栄や竹下登の下で政治家として順調に成長していったと思う。そして、竹下内閣が誕生した1987年に彼は官房長官に就任したのである。
小渕氏の官房長官時代は、前述の“平成おじさん”のことぐらいしか覚えていないが、ある時、会社の上司の要望で、国会近くの料理店に来てもらったことがある。彼にとっては息抜き程度だったろうか。その時、小渕氏は面白いことを言った。
「首相官邸には3人の官房長官がいるみたいだな」
どういうことかと聞いてみると、本物の官房長官の彼以外に、首相の竹下氏も副長官の小沢一郎氏もまるで官房長官みたいだというのだ。要するに、竹下は事細かいことまで全て把握するし、小沢は長官に代わって何でもやろうとする。上と下に挟まれて、小渕氏は居場所がないということか・・・ これには思わず笑ってしまった。

さて竹下内閣だが、その最大の業績は「消費税」の導入だったろう。もちろん、消費税については反対意見も根強く、特に一般国民の間には抵抗感が強かった。しかし、竹下は長年にわたって大蔵大臣を務めた経験から、その導入が絶対に必要だと判断していた。
ここで、消費税の是非を論じるつもりはない。その是非は各人に任せるとして、竹下は自ら“悪者”になるぐらいの信念を持って、消費税を断固として導入したのだ。問題は、不評の竹下内閣にとって致命的だったのが、「リクルート事件」だったと言えよう。この戦後最大の企業犯罪、贈収賄事件は竹下内閣の命取りになり、全国民的な非難の中で政権はあえなく崩壊した。
こうして小渕恵三も官房長官を退いたのだが、彼が重要な役職を離れたので、私は気軽に東京・王子の私邸などに夜回りを掛けたりした。彼は“人柄の小渕”と言われるだけあっていつも愛想が良かったが、ただ、口は非常に堅かったと思う。肝心なことはなかなか話さないのだ。
私は一記者として彼に食い下がったつもりだが、力不足なのかどうも上手くいかない。そのうち、小渕氏の所へ行くのが億劫になり、主にほかの竹下派の議員を取材するようになった。こうして数年がたち、やがて党内最大勢力の竹下派・経世会は分裂含みの怪しげな様相を見せていく。
発端は派閥会長の金丸信(かねまるしん)が小沢一郎を寵愛したことだろうが、派内がしだいに“小沢対反小沢”の機運になり不穏な流れになってきた。ちょうどその頃だったか、私は小渕邸に夜回りを掛けたが彼は不在だった。取材を諦めて帰ろうとしたら、奥さん(千鶴子さん)が玄関先で私を呼び止めて言った。
「金丸先生が小沢さんと小渕を仲直りさせようとしてますよ」
その奥さんの言葉に、私は救われる思いがした。小渕自身からは肝心な話は何もないのに、奥さんから本当のことが聞けたのだ。やがて、金丸は地元・山梨県の「小淵沢」という所に小渕と小沢を呼び、2人を和解させる会合を開いたという。“小淵沢”という場所は小渕と小沢に引っ掛けたのだろう(笑)。
こうして竹下派の分裂は一時収まったかに見えたが、やがて「東京佐川急便事件」が発覚し、金丸は議員辞職に追い込まれて失脚する。重しがなくなった竹下派はついに分裂、それが自民党の大分裂に発展し、政界再編の嵐が吹き荒れてついに非自民の細川連立政権が誕生したのである。
話が政局のことに移ってしまったが、その間、小渕は着実に力を蓄えていったようだ。金丸氏が失脚したあと竹下派は空中分解したが、小渕は自民党内で金丸の派閥後継者になっている。そして、自民党主体の橋本龍太郎内閣が誕生するとこれを強力に援護し、第2次橋本改造内閣で外務大臣に就任した。
そして資料によると、外務省の強い反対があったにもかかわらず、小渕は「対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)」の締結に尽力した。このため、自民党内の良識派だけでなく、当時の政敵だった社会民主党の土井たか子氏らからも高い評価を受けたという。

やがて橋本内閣は、1998年夏の参院選で自民党が惨敗したため総辞職に追い込まれた。そして党の総裁選が行われ、小渕恵三と梶山静六、小泉純一郎の3人が立候補する。この時、田中真紀子氏は総裁選のことを凡人(小渕)、軍人(梶山)、変人(小泉)の戦いだと評したが、まことに当を得た評言に笑ってしまった記憶がある。
結果は凡人=小渕が勝利し念願の首相(第84代総理大臣)に就任した。政治家であれば誰でも首相を目指すだろうが、特に彼の場合は旧選挙区・群馬3区が長い間、元首相の福田赳夫や中曽根康弘と同じだっただけに、感慨もひとしおだったろう。福田と中曽根という大物政治家の谷間で、彼は長い間 肩身の狭い思いをしてきたのだ。
こうして小渕内閣は発足したが、彼の性格が地味なのと、同じ派閥の橋本龍太郎の後を継いだことなどで支持率は始めからかなり低かった。一部からは“冷めたピザ”などと評されたが、要は実績作りが肝心である。ここで小渕内閣の成果を詳しく述べるつもりはないが、私は特に沖縄への彼の強い思いを取り上げたい。

沖縄サミットは2000年7月に開かれたが、これはもちろん小渕首相が決めたことである。冒頭にも述べたように、これは日本初の“地方開催”だったが、残念なことに彼はすでに脳梗塞で他界していたため、後任の森喜朗首相が出席した。それはともかく、沖縄開催ということに小渕氏の強い思いを感じ取ることができる。
私は時たま『沖縄独立論』をぶち上げるが、これも沖縄への熱い思いがあるからである。沖縄独立論はともかくとして、日本人としてその思いは小渕氏と変わらないと思っている。話しがそれたが、彼がいかに沖縄を思っていたかは、あの「2000円札」のことでも明らかだろう。これはまさに2000年7月に発行されたのだ!
2000円札はもうほとんど見ないが、その表には沖縄の有名な「守礼門(しゅれいもん)」が印刷されている。これはもちろん小渕氏が発案したもので、彼がいかに沖縄を愛していたかが分かるだろう。(参考→https://www.youtube.com/watch?v=Fg-wQh0xQXE
こうして見てくると、小渕氏の“夢”は彼の死去とともに消え去ったかのように思う。しかし、そこには実務一点張りの地味な男の残影ではなく、やはり政治家としての“夢”が生き残っていると思っていいのではないか。
小渕恵三は沖縄サミットを前にして、2000年5月に亡くなった。62歳の若さである。晩年はよく“ブッチホン”と揶揄されたが、誰にでもどこにでも電話をかけてきたようだ。そこに凡人=小渕の性格を見るようだが、彼のように親しみやすい政治家もそういないと思っている。小渕恵三氏を偲びながら筆をおきたい。(2016年9月29日)

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