矢嶋武弘の部屋

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2017年05月18日 04時28分56秒 | 過去の記事

日航機墜落事故への疑問
 
以下の話を聞いた時には、何を馬鹿げた事を言うのかと怒りが先に立ったほどだ。
 日航ジャンボ機が墜落して520人が亡くなった大事故から25年が経ったが、あれは米軍機が誤ってミサイルで撃墜したというのだ。冗談ではない! そんな話は止めてくれ、そんな事はあってはならないと思ったが、インターネット上にそういう話が出てくると、放っておくわけにはいかない。
 以下に「オルタナティブ通信」の8月15日付けの記事をリンクしておくので、興味のある方は読んでいただきたい。⇒http://alternativereport1.seesaa.net/article/159465914.html (なお、もしこの記事が“がせネタ”と判明すれば、この拙文自体を削除することにする。)
 
さて、この記事を要約すると、米軍の機関誌「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」という雑誌の1985年8月27日号(日航ジャンボ機墜落事故から15日後の発行日付)に、米空軍の輸送機U130のパイロットであるマイケル・アントヌッチ中尉が以下のように証言しているというのだ。(注・U130はC130の間違いだと思う。)
 「事故当日、空中戦の演習を行なっていた米軍練習用戦闘機から事故が起こったとの緊急無線が入り、一番近くを飛行していた私のU130輸送機が事故現場へ救出のため急行した。
 いつものようにアメリカ空軍の練習用戦闘機が、日本の民間旅客機をターゲットにミサイル発射のシミュレーション演習を行なっていたところ、安全装置が解除されている事に気付かず、実弾ミサイルを日航ジャンボ機に命中させてしまった、というのが無線の第一報の内容だった。
 なお、このマイケル・アントヌッチ中尉は、日本政府から奇妙な事に『緊急の救助のために現場に行かなかった事、第一報の無線も聞かなかったと発言するよう要請された』と語っている。」
 
以上が「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」の記事だそうだが、調べてみると、在日米軍はなぜか非常に早い時点でジャンボ機の飛行状況を把握していた。(以下、ウィキペディアを参照⇒ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85#.E7.B7.8A.E6.80.A5.E4.BA.8B.E6.85.8B.E7.99.BA.E7.94.9F  )
 米軍横田基地の管制官は、迷走飛行中のジャンボ機に対し繰り返し呼びかけをしていたし、ジャンボ機の近くを“偶然”飛行していたC130輸送機のパイロットが、当日の午後7時15分頃に「火災を発見した」と報告し、墜落場所を把握していたという。(墜落時刻は午後6時56分過ぎである)
 また、在日米軍による墜落場所の特定と、ヘリによる救出の申し出は事故当日にニュース速報として流されたのに、翌日未明にはなぜか「すべて誤報であった」と否定された。
 これらを分析すると、符合する点がいくつかあるようだ。まず、ジャンボ機の近くを偶然飛行していたC130輸送機のパイロットは、アントヌッチ中尉だろうし、米軍による墜落場所の特定とヘリ救出の申し出という速報が“全面否定”されたのは、日本政府からの要請を受けて「無かったこと」にする工作が行なわれた疑いが生じる。
 したがって、この当時はジャンボ機の事故原因について様々な憶測が生じたり、事故から10年後に「在日米軍による墜落場所の特定・救助の申し出は事実だった」という報道もあったのだ。
 
事故原因については、金属疲労による圧力隔壁の破壊が有力視されているが、断定されたわけではない。はっきりしている事は、ジャンボ機が墜落する30分ほど前に、相模湾上空で突然の衝撃音と共に「垂直尾翼」が破壊されてしまったのだ。尾翼の多くの部品が相模湾に落下したにもかかわらず、事故調査委員会の捜索が不十分だったこともよく指摘されている。
 とにかく、520人もの死者を出した過去最悪の航空機事故だっただけに、UFOによる撃墜説まで飛び出したほどだ。それはともかく、万が一にも米軍機のミサイル誤射による撃墜だったとしたら、これは日米間で大問題になる。
 そうでないことを祈るが、事故原因が100%解明されたわけではない。「パシフィック・スターズ・アンド・ストライプス」の記事がどこまで信憑性があるのか分からないが、こういった記事が明らかになった以上、事故(?)原因を含めてもう一度徹底的に検証する必要があるのではないか。(2010年8月17日)

 

圧力隔壁の損壊はなかった!?
 
25年前の日航ジャンボ機墜落事故に関する記事を昨日載せたが、調べれば調べるほど、事故原因についての謎が深まる。
 事故調査委員会によれば、ジャンボ機(ボーイング747)の後部圧力隔壁の損壊が事故の主な原因だとしているが、これは極めて怪しい。昨日から今日にかけて関連するインターネット記事を徹底的に調べたが、そんなことは有り得ないという心証を強くするばかりである。もとより私は航空工学の専門家ではないが、多くの人の証言、分析を集約するとそういう結論になるのだ。
 
まず、圧力隔壁が損壊・破壊されれば、機内の空気圧(与圧)は急激に低下したり気温が下がったはずである。しかし、ごく少数の生存者の証言にはそうしたものはない。また、相当数の乗客のメモ、記録、遺書類にもそうした記述は一切ないのだ。
 実際に圧力隔壁が損壊した事故の場合、機内の気圧は急速に低下、白い水蒸気のような気体が充満し、乗客・乗員がみな“航空性中耳炎”になったという。(1986年10月26日、高知上空で起きたタイ航空機の圧力隔壁損壊事故の場合)
 また、減圧症により乗客・乗員が意識を喪失する可能性が高い。実際に、2005年8月14日、キプロス・ヘリオス航空機がギリシャ北部で遭難した際、操縦士が意識を失っていたというのだ。 ところが、日航ジャンボ機の墜落事故の際は、そんなものは一切起きなかった。メモや遺書類を書いていた乗客もいるのだ。
 
次に、もし圧力隔壁が損壊したと仮定した場合、機内の空気圧が急速に抜けて風が起きるのだが、頑丈な「垂直尾翼」を破壊するには、それこそ乗客を座席ごと吹っ飛ばすぐらいの突風が起きなければならない。ところが、そんな現象は全く起きていないのだ。それとも、垂直尾翼は“玩具の飛行機”のようにヤワに出来ていたのだろうか。そんな馬鹿なことはないだろう。
 以上が、圧力隔壁損壊説が極めて怪しいという証左だが、ボーイング社が事故原因を圧力隔壁の修理ミスにしたのは、他の気密安全の構造上の問題(隔壁後部の安全弁不具合の可能性)を隠し、事故の早期解決を図ったとする見方が出ている。事実、上記の気密安全構造は後に改修されていたのだ。(この部分はウィキペディアの「日本航空123便墜落事故」を参照)
 
なにか難しい話になってしまったが、圧力隔壁損壊が事故原因でないとするなら、当然、“外部からの衝撃”などが墜落原因として考えられるだろう。風や気流の影響で飛行機が遭難するケース(フラッター現象など)も多い。
 昔(1966年)、BOAC・英国海外航空機が富士山付近の上空で乱気流に巻き込まれ空中分解したこともある。しかし、日航ジャンボ機墜落の原因は今のところ全て仮説であり、はっきりと特定されていない。
 昨日は米軍機のミサイル誤射による撃墜の話などをしたが、外部からの衝撃となれば、他にもいろいろあるだろう。まさか“隕石”が垂直尾翼を直撃したわけでもあるまいが、さらに事故原因を徹底的に究明する必要がある。それには、ブラックボックス(フライトレコーダー)や元のボイスレコーダーなどが公開されなければならない。
 遺族を始め関係者、マスコミ、国民もそれを望んでいるはずだ。国土交通省は英断をもって、事故原因の解明に役立つ全ての資料を公開してもらいたい。それとも何かを隠しておきたいのか・・・本日はこれまでにしておく。(2010年8月18日)

 

鑑識の神様・岩田政義さん

何十年も前の古い日記を読んでいたら、昔、警視庁の記者クラブにいた頃、岩田政義さんという鑑識課の人の所へよく伺っていたことを思い出した。岩田さんは“鑑識の神様”と言われた人で、その道の大変なベテランである。
 もう40年以上も前のことだが、私が警視庁記者クラブに配属され捜査1課・3課を担当した時、事件捜査のことなど全く分からなかった。先輩らにいろいろ聞きながら仕事を始めたが、そのうち「鑑識」というものが非常に重要なものだと知るようになった。今では科学捜査の観点からその重要性が多くの人に知られているが、当時、テレビ局の若造である私などほとんど関心を持っていなかった。
 しかし、ようやくその重要性が分かって、ある日、思い切って鑑識課を訪れることにした。その頃、テレビ記者が警視庁内をうろつくことなどあまりなかったので、私が「○○テレビです。どうぞ宜しく」と言って名刺を差し出すと、鑑識課の人たちはやや怪訝(けげん)そうな顔付でこちらを見ていたように思う。
 
私は鑑識のことなど何も分からないので、基本的なことから教えてもらうしかない。その時、鑑識課の課長だったか管理官だったか忘れたが、岩田政義さんが私の相手になってくれた。彼は新米記者に対して、事件現場の資料などを示しながらいろいろ解説してくれたと思うが、中には目を背けたくなるような凄惨な写真もあり、鑑識の仕事って大変なんだなあ~と痛感したものである。
 事件はまさに「現場」にあるのだ。そして、現場の物証は“宝物”なのである。鑑識の人たちは事件現場を隈なく探し、物証を手に入れる。よく聞く言葉だが「ブツ(物)からモノ(物)を聞け」とも言う。物から犯人が分かってくるのだ。その辺のことをいろいろ聞いていると、自分が刑事にでもなったような気分になってくる。
 また、物証だけでなく、「死体の状況」は他殺か自殺か、あるいは事故死かといった重要な決め手になる。よく出てくる言葉だが「生活反応」というのがある。生きている体(生体)に起きる現象だが、皮下出血とか化膿、呼吸の跡などで、これらは死んでいる体(死体)には発生しない。呼吸の跡とは、例えば焼死体の気管部分に煤(すす)がある場合などだ。 また、実によく出てくる例が、一酸化炭素中毒で人が死ぬ場合、死体に鮮やかな紅色の死斑(しはん)が現われるのだ。
 
こうしたことが分かってくると、捜査官から説明を受けてもすぐにピ~ンと来る。
 もう一つ「ためらい傷」というのがある。これは自殺者に多く見られる現象で、例えば手首などを切って自殺する場合、どうしても躊躇(ちゅうちょ)していっぺんに死に切れない。したがって、幾つかの細い傷が残るのである。ためらい傷がある場合は、まず自殺と見られる。 こんな話を岩田さんらから聞いて、いっぱしの“事件記者”の気分になったようだが、その頃のテレビ記者なんて、歴史が浅いからよく“少年探偵団”などと皮肉られたものだ。
 ある日、私は鑑識課の別の人から「半陰陽」などの写真を見せてもらったことがある。珍しい写真だったので、私はいささか興奮し記者クラブの誰かに得意気にしゃべったらしい。すると数日して、岩田さんがひどく怒っているという話を聞いた。
 こりゃあマズイと思って鑑識課に行くと、岩田さんからたしか「興味本位で見るもんじゃない」とお説教を食らったように記憶している。そんなこと言ったって、自分は新米の事件記者だから何でも興味があると、言い返したかどうかは覚えていない。それよりも、大切な捜査資料などが安易に報道機関にオープンになることを危惧したのだろうか。なにはともあれ、私は岩田さんら鑑識課の人たちに可愛がられていたように思う。少年探偵団の一人だったからだろう。(笑)
 
岩田さんの著書で『鑑識捜査三十五年』というのがある。もちろん当時は読んだものの、細かい話が多いので中身はほとんど忘れてしまった。ただ一つ印象に残っているのは、殺人事件の現場などに行くと岩田さんは必ず合掌し、深々と頭を下げて死者の霊を弔ったあと捜査に入ることだった。犠牲者の霊に、必ず犯人を捕まえますよと誓っているようではないか。
 岩田さんに「君は社会部長になれるぞ!」などとよく発破をかけられたが、私は警視庁の記者を3年やったあと政治部の方へ長い間移ってしまったので、残念ながら社会部長にはなれなかった。(笑)
 たしか、警視庁を離れる前に、岩田さんが何かの大病で東京・飯田橋の警察病院に入院された時、お見舞いに訪れたことがある。“鑑識の神様”を激励して別れたが、あれが岩田さんとの最後になった。地を這うようにして捜査する人がいるから、日本は犯罪から守られるのである。「地の塩」という言葉があるが、岩田さんのような人のことを言うのだろう。
 なお、岩田さんのことをいろいろ調べているうちに、今年亡くなった作家の角田房子さんも、鑑識のことを教わろうと岩田さんを訪れていたことが分かった。興味のある方は、以下のサイト「銀座一丁目新聞」を見ていただきたい。⇒http://www.hb-arts.co.jp/100410/tsuido.htm (2010年7月31日)
 

花火中継失敗!

夏の夜の風物詩・花火のシーズンになったが、花火のテレビ中継で大失敗したことがある。もう30年ぐらい昔のことだが、私が某テレビ局のローカルニュース担当デスクの時にそれは起きた。
 たしか東京の江戸川河川敷で花火大会があり、わが社の事業局や営業局などがそれに絡んでいたようだ。花火大会の数日前、社の関係者が会議室に集まり打ち合せを行なった。報道局から私が出席すると、ぜひニュースでも取り上げて欲しいと要望を受けた。江戸川で大々的に花火大会を開くなら、それは結構なネタである。夏の風物詩としては最高のイベントではないか。私は快くその要望を受け入れた。
 さて、その後は担当の事業局と私が話を詰めていけば良いのだが、なにせ双方とも毎日忙しく働いているので、花火大会の当日に“時間的”な詰めを行なえば済むと考えたのが失敗の始まりだった。
 当日の昼前、私が事業局に電話を入れると、担当者はすでに全員、江戸川の方へ行ってしまったという。ニュースなんていつも追い込みでやっている習慣があるから、私は別に何とも思わなかった。ディレクターと中継車を現場に出せば、あとは担当者同士で花火の「打ち上げ時間」をニュースに合わせるように決めれば良い。
 最初の打ち合せの時、花火は午後6時半ぐらいから打ち上げられると聞いていたから、6時50分ぐらいに盛大に打ち上げてもらおうと考えていた。
 そして、その趣旨を現場に行くディレクターに伝え、私は他のローカルニュースの原稿を書いたりチェックしたりしていた。
 ところが、6時頃だったか、中継車にいるディレクターから「事業局の担当者が見つからない」という連絡が入った。その時、かすかに不吉な予感がしたように思う。私は「中継時間は6時50分から2分程度だ。その前から花火を打ち上げるよう直ぐに担当者に言ってくれ」と指示した。
 
くわしいことは覚えていないが、その後も現場のディレクターから担当者と連絡が取れないといった報告があったように思う。私は急に不安になったが、他の原稿の整理で忙しく、あとは現場で打ち合せがスムーズにいくように祈るしかなかった。今のように「携帯電話」があれば速やかに連絡が取れるのだが、その時はなす術がない。
 こうしてローカルタイムの6時半を迎えたが、花火は一向に打ち上がる気配がない。中継の映像はモニター画面でチェックできるのだが、江戸川の河川敷では花火どころかほとんど何も行なわれていない。私は焦った。しかし、焦ってもどうしようもない。ついにローカルニュースが6時45分から始まり、他のニュースを先にどんどんやっていったが、万一の場合を考えた“穴埋め”の原稿を用意していなかった。(これもまずかった。)
 とうとう中継予定の6時50分が来たので、もしかしたらタイミング良く打ち上がることを祈って、江戸川河川敷の中継映像に切り替えた。現場のアナウンサーが「間もなく花火が打ち上げられます」とかレポートしていたと思う。それでも花火は打ち上がらない・・・ふと横を見ると、河川敷のステージで数人のミニスカートの女の子がダンスのリハーサルをしていた。「カメラ! そこへ寄れ!!」
 アナウンサーが「地元の娘さんたちがダンスのリハーサルをして、花火大会を盛り上げようとしています」とか何とか、レポートしたように思う。カメラは女の子の映像をたっぷりと中継する。しかし、花火は打ち上がらない。肝心の花火が打ち上がらないまま、アッという間に2分余りが経って中継は終わってしまった。アッという間にと言ったが、私にはその2分余りが非常に長く感じられたのは言うまでもない。
 
さて、ローカルニュースが終わって、報道の部屋に戻ったらそれは大変だった。ニュースの“鬼編集長”が「あれは何だ! 花火が全然打ち上がらないじゃないか!」と怒る。他の先輩デスクたちも「花火がない花火大会ってあるのか!」などとボロクソに言う。私は何も抗弁できなかった。穴があれば入りたい・・・という心境は正にあの時であった。
 言い訳をしても始まらないので、とにかく謝った。細かい説明は別にして、花火大会担当である事業局との打ち合わせが余りにもいい加減で杜撰(ずさん)だったと思う。たしか、江戸川花火大会の初のイベントだったから、事業局も良く分からず“てんてこ舞い”していたのだろう。生中継の重要性はもちろん知っているはずだが、イベント準備に大わらわで報道のことなどそっちのけだったかもしれない。
 一方、報道の当事者である私の方は、いつも「やっつけ仕事」で乗り切ってきた癖があるから、中継の怖さを甘く見ていたと言うしかない。油断大敵、脇が甘かったのだ。
 花火中継の大失敗を語って終わるのはシャクに障る。このままでは引き下がれない。失敗の憂さを晴らすとともに、今の花火がいかに美しいか、昨年の江戸川花火大会の模様を以下にアップして、上手く中継した気分にでもなろう。(2010年7月24日)

TPPは“ぼったくりバー”と同じだ!

TPP(環太平洋連携協定)について最も不愉快なのが、交渉の内容、つまり話し合いの中身が全く分からないということだ。TPP推進派は「中身が知りたいなら、まず交渉に参加するべきだ」と言う。しかし、それはおかしいだろう。
 海の物とも山の物とも分からない交渉に、何の警戒心もなく入っていくのは“馬鹿”と言うしかない。まして、国益を左右する経済外交である。これは国家・国民全体に影響することなのだ。
 そもそも、交渉当事国が日本など新しい国に参加を呼びかける場合、「現在、このような内容の交渉をしています。よろしければ参加してください」と言うのが、最低限の礼儀作法である。そして、その交渉の中身を検討した上で、入るか入らないかを決めるのが普通の対応である。
 ところが、外務省にどのくらい情報が入っているか知らないが、国民は24項目のテーマだけ知っていて、あとは何も分からない。それでも、交渉に入れと推進派は言うのか。こんな無茶な、いや恥知らずな呼びかけはない。
 
そこで気が付いたが、これは「ぼったくりバー」の手口と全く同じである。綺麗なお姉ちゃん(キャッチガール)が近寄って来て、「いい所があるわ。寄っていかない?」なんて声をかけてくる。つい、鼻の下を長くしてその店に入ると、料金表などは全く出ていない。 「まあ、いいか。こんな汚い店なら大した値段じゃないだろう」なんて考え、ビールや水割りを1~2杯飲む。
 そうこうするうちに、店の雰囲気にやや不安を感じて帰ろうとする。「お勘定は?」と聞くと、3万~4万円の請求が来るのだ! その時はもう遅い。そこで喧嘩をしても始まらない。
 
最近は、クレジットカードを使って清算すると、4000円ぐらいの値段が10数万円になることもあるそうだ。そうなると訴訟問題に発展するか、泣き寝入りするかのどちらかである。仮に訴訟で勝ったとしても、あとが非常に面倒である。こんな店には二度と来るものかと思うだろう。
 
私も若い頃、新宿などで「ぼったくりバー」に引っ掛かったことがある。その反省を込めて言っているのだ(笑)。 その話は止めておくが、TPPを見ていると、ぼったぐりバーにそっくりではないか。
 中身、つまり飲食物やサービスの値段が全く分からない。キャッチガールに誘われるのは良いが、後でとんでもない料金を吹っかけられるのだ。もちろん、店に入る前にお姉ちゃんに大体の値段を聞いても、適当にはぐらかされて本当のことを言ってくれない。当たり前だ! ぼったくる相手に、本当のことを教える奴はいないのだ。
 ぼったくりバーこそ、アンフェア(不公正)そのものだ。TPPも正にアンフェア! 我々が知りたいことを、事前に何も教えてくれないのだ。こんな所にのこのこと入っていく者こそ馬鹿である。
 今日は、自分の若い頃の失敗談を交えて話をしたが、分かり易かったのではないか。 もう一度警告しておく。ぼったくりバーで被害に遭うのは、個人的な問題で済むが(それでも、懐が痛むよ~~)、TPPの場合は国家・国民全体に影響することなのだ。事前に、中身をいっさい教えないアンフェアなTPP交渉などに、絶対に参加してはならない! (2011年10月27日)

 

 フジ・産経記者の“受難”

最近、古い日記を読んでいたら、昔の「フジサンケイグループ」というのは、日本の左翼はもとより、中国や北朝鮮など共産圏諸国から徹底的に嫌われていたのを思い出した。
 それは当時、フジサンケイグループを取り仕切っていた鹿内信隆(のぶたか)氏が、日経連出身の根っからの“反共主義者”だったからだろう。例えば、中国と台湾の位置付けについても「台湾一辺倒」だったから、中国側から猛烈に反感を持たれていた。
 そこで嫌な思い出として残っているのは(40年近く前になるが)、私が野党クラブの記者をしていた頃、野党議員らが中国や北朝鮮を訪問するのに同行取材しようとすると、必ずフジテレビと産経新聞の記者だけは拒否された。つまり、中国や北朝鮮から入国は「絶対ノー」と言われるのだ。それでどれほど“煮え湯”を飲まされたことか。
 当時は日中国交回復の直前だったから、社会党や公明党などの野党党首らがしきりに訪中していた。国交正常化はもはや時間の問題となっており、日中間の往来が頻繁になっていた。
 そこで、社会党の成田委員長、公明党の竹入委員長らの訪中に同行しようとすると、フジサンケイグループの記者だけが拒絶されるのだ。それが又、実に嫌らしいのである。野党の党首らが出発する直前まで、中国側は入国イエスかノーかを言わないのだ。したがって、私らは一応出発の準備をして待機しなければならない。
 すると、前日ぐらいになって「フジテレビと産経新聞の記者の入国は不可」という通達が中国側から出されるのだ。こういうことが何回もあったから、そのうち、どうせまた直前まで中国側から“嫌がらせ”を受けるだろうと覚悟するようになった。野党議員らからは同情されたが、相手のあることだから仕方がない。こうして、私は何回も訪中の機会を逸した。それほど、フジサンケイグループは中国などから徹底的に嫌われたのである。
 
いつも入国を拒否されていたから、すっかり忘れていたが、1972年(昭和47年)5月には公明党の竹入委員長に同行して北朝鮮へ行けそうな感じだった。日記を読むと、4月には「行けそうだ」と書いてあるから感触が良かったのだろう。しかし、5月7日には「行けなくなった」と記してある。
 竹入委員長は5月19日には訪朝したはずだから、この時は「ノー」の返事が比較的早く届いたことになる。出発直前までの嫌がらせはなかったが、この時も“落胆”したことは間違いない。日記のトーンにはそれがありありと出ていた。今さら北朝鮮なんかには行きたくないが、当時は初の訪朝取材に胸をふくらませていたのだ。
 このように“反共主義”のフジサンケイグループは共産圏から徹底的に忌避されていたが、同じ1972年9月の田中角栄首相の中国訪問、そして歴史的な日中国交正常化の時は全く違った。
 いくらフジサンケイ嫌いの中国でも、この時ばかりは“度量”のあるところを見せたかったのだろう。私は野党クラブの記者だから行けなかったが、官邸クラブの同僚記者らが何人も田中首相に同行して北京入りしたのである。日中国交回復という歴史的な出来事だからそれは当然だったろう。この時はテレビも毎日特番、特番の連続で、日中新時代の幕開けを報道していたのを思い出す。
 
その後も、共産圏からの嫌がらせは続いたが、徐々に緩和されていったと思う。他にも何回か煮え湯を飲まされたことがあるが、話すと長くなるので止めよう。当時の中国は「原則」を重んじる国だから、今では考えられないような話だが、反共メディアに対しては徹底的な敵意を貫いていたのだ。
 あの頃は国内のデモ取材などの時も、フジテレビや産経新聞はデモ隊から特に狙われ、投石や嫌がらせを受けたものである。因果なテレビ局に入ったものだなあ~と嘆いたこともある(笑)。
 私が中国へ取材で初めて入ったのはそれから数年経ってからだが、その頃には嫌がらせもほとんど無くなっていた。ただし、宿泊したホテルの部屋には盗聴器を仕掛けられていただろう。本日はどうも嫌な思い出話になってしまった。

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