矢嶋武弘の部屋

風林火山
日一日の命 日々新たなり

名横綱・栃錦

2017年07月16日 13時11分56秒 | スポーツ

<以下の文を復刻します。>

1) 相撲ファンなら、栃錦のことは知っているだろう。 戦後の角界で、初代・若乃花と共に「栃若時代」を創った名横綱である。 我々のような年配の人間の中には、栃錦ファンが大勢いるはずだ。 実は私も、これまで見てきた力士の中で、栃錦が最も好きである。
栃錦は“名人”と言われた。 多彩な技で次々と難敵を倒していく様は、“技能力士”の典型と言ってよかった。 昔の有名な相撲評論家・彦山光三さんによれば、若乃花は“異能力士”、栃錦は“技能力士”ということだったが、正にそのとおりだったと思う。
栃錦は身体が小さかった。 幕内に入った時、体重は80キロにも満たなかったという。 最近の力士で言えば舞の海のようなもので、このため大きな相手にしがみつくようにして、粘りに粘って相撲を取るタイプだった。 但し、足腰は非常に強かったようで、その執拗な粘り強さに、若い頃は“マムシ”と綽名されていた。

 我々の年代の者が子供の頃、即ち昭和20年代といえば、スポーツに興味を持つとしたら、せいぜい野球か相撲ぐらいだったろう。 テレビのない時代だったから、生放送だと野球も相撲もラジオで楽しむしかなかった。 従って、ラジオにかじりつくようにして、それらの実況放送を聞いたものである。
そうした中で、昭和26年の大相撲1月場所で、東前頭2枚目の栃錦は素晴らしい記録を打ち立てた。 初日から7日目まで7連敗した後、8日目から千秋楽までなんと8連勝したのである。7連敗の後の8連勝というのは、他に記録がないはずである。
小兵の栃錦が、多彩な技で大型の力士を次々と破っていくのが好きだった私は、この7連敗の後の8連勝という快挙で、すっかり彼が大好きになった。 最近インターネットで調べたら、栃錦の後援者の息子さんが病の床で、「栃錦は今日こそ勝つ」とうわ言のように言ったことが彼を発奮させ、結果的に8連勝につながったようである。 それにしても、大変な粘り強さではないか。

2) 奇跡の8連勝の後、栃錦は三役に定着するようになり、体重もようやく90キロ台になって、上手出し投げなどの得意技を身に付けるようになった。 当時の横綱・大関には、東富士、鏡里、吉葉山といった巨漢力士が多く、軽量の栃錦はとにかく「技」で対抗するしかなかった。
小結から関脇時代の栃錦は、私にとって最も輝かしい力士に見えた。 100キロにも満たない小兵の三役が、自分よりも何十キロも重い横綱・大関に対し、技の全てを出し尽くして奮闘する様は、正に快感だった。 
映画館の大相撲ニュースや相撲雑誌を見たりして、小学校高学年の私は栃錦の活躍に心を躍らせた。 腕白盛りの仲間との相撲では、必ず栃錦の真似をして上手出し投げなどを多用した。 とにかく、栃錦が元気の源であった。栃錦を思っている時こそ、元気はつらつとなるのである。

 栃錦は身体が小さいだけあって、土俵に上る時は、人一倍闘志をむき出しにしていた。闘魂の塊みたいだった。 その姿を見ているだけで、こちらもファイトが湧いてきた。子供の身体に力がみなぎってくるのだ。
昭和27年の9月場所、関脇の栃錦は絶好調だった。技が冴え渡り力強さも増して、初日から快進撃を続けた。 私はラジオの実況放送を毎日聞きながら、興奮のボルテージを上げていった。 1敗のまま終盤戦を迎え、優勝も夢ではない勢いだった。
ところが、たしか13日目あたりで、栃錦は40度近い高熱を発し、出場も危ぶまれる事態となる。私は気が気でなかった。 優勝も夢と終わるのだろうか・・・不安が胸をよぎった。 しかし、この後、栃錦の闘魂が炸裂した。高熱でフラフラするような体調の中で、彼は次々と横綱・大関を打ち破っていった。 そして、14勝1敗で見事初優勝を飾ったのである。

 この時の横綱・大関戦というのは、何か神がかり的なものを感じた。人間の執念か、限界への挑戦と言うのだろうか。 特に、吉葉山との一戦では、がっぷりと四つに組み止められ、小兵の栃錦は顎も上がりもう駄目かと思われた。 しかし、次の瞬間、神業のような左足の二枚蹴りで、吉葉山の巨体は土俵の上に横転したのである。
私は、あの時の情景が忘れられない。鮮やかと言うより、何か狐につままれたような出来事だった。 それからというもの、子供の私は仲間との相撲で、やたらに二枚蹴りをするようになった。

3) 初優勝の後、栃錦は大関に昇進した。名人大関の誕生である。 その頃、相撲評論家の中には、栃錦は名人大関のまま、横綱には昇進しない方が良いと言う人もいた。 身体の小さな力士が横綱になると、人一倍苦労し土俵人生が短くなるという意見だった。
これは、ある意味でもっともな見方だろう。栃錦の場合は、相撲人生が短くなるより、その多彩で素晴らしい技をいつまでも見ていたいという気になるからだ。 彼は正に「技の宝庫」であった。
丁度その頃、栃錦よりも小柄な若乃花(当時は「若ノ花」)が頭角を現わしてきた。 足腰が滅法強く、小さい身体で巨漢力士と平気で四つに組む大胆な取り口が特徴であった。 そして、同じ小兵の栃錦との対戦は、双方とも“しぶとい”ためいつも勝負がもつれ、好取組として人気を集めるようになっていった。

 大関昇進後、栃錦は体重も110キロぐらいになり、一段と力強さと技を向上させ、2年後の昭和29年10月には、連続優勝の後、第44代横綱に推挙されることになった。 時に栃錦29歳の年であった。 大関から横綱への昇進は、比較的順調であったと言えよう。
翌30年の1月場所に、中学生だった私は年上の従兄に連れられて、横綱栃錦の晴れ姿を見るために蔵前の国技館に行った。 栃錦の土俵入りの時、私は最上階の一番奥の席から「トチニシキーッ!」と、声援を送ったことを覚えている。

 この当時、3歳年下の若乃花も関脇の地位をがっちりと確保し、大関への夢を膨らませていたが、その道のりは決して平坦ではなかった。 すでに栃錦対若乃花戦は角界随一の好取組となっていたが、大関にもう一歩というところで、若乃花は栃錦に敗北し、煮え湯を飲まされるということが2~3回あった。
しかし、その若乃花も昭和30年の9月場所の後、ついに念願の大関に昇進、わずか100キロ余りの軽量ではあったが、全身これ筋肉の塊といった感じで、足腰だけでなく腕力もケタ外れに強かった。
若乃花の大関時代は2年余り続いたが、猛烈な稽古量で彼の肉体は鋼鉄のようになっていった。 丁度テレビの大相撲中継が盛んになった頃だが、ブラウン管で見る若乃花は両肩の筋肉が異常に盛り上がり、まるでヘラクレスの再来のように見えた。 昨今の力士で言うと、大横綱・千代の富士を思わせるものがある。

4) 昭和33年1月場所で、若乃花は2度目の優勝を飾り、場所後ついに第45代横綱に推挙される。 大相撲はここに、栃錦対若乃花のいわゆる「栃若時代」の幕開けとなった。 
栃錦は横綱になってから、いろいろな病気に苦しめられたせいか、稽古不足もあって体重が130キロ位いに増えた。 精悍で筋肉質の彼が、やや年老いてブヨブヨとした感じになったが、そこからが又栃錦の真骨頂となる。 彼は増えた体重を逆に活かし、おっつけて前に出る正攻法の取り口に変えていったのである。 かえって横綱らしい取り口になったのである。

 一方、若乃花は体重が増えなかった。 しかし、105キロ位いのその身体は強靱そのものであった。 どんな巨漢力士に寄り詰められようとも、一旦俵に足が掛かるとテコでも動かなかった。足腰に筋金入りのバネが入っているようだった。
若乃花は又、豪快な技を得意としていた。 本来は左四つなのに、大型力士を平気で右四つに食い止め、左上手投げをするような振りをして、その反動で右から強烈な呼び戻しの荒技をかけた。 このため、相手はもんどりうって土俵の上に叩き付けられた。 あの小さな身体で、よくもこんな大技が決められるものかと、唖然とするほどだった。

 栃錦対若乃花の横綱決戦は「大相撲の華」であった。天下の人気を二分した。 技能力士対異能力士、「名人」対「土俵の鬼」の決戦であった。 後に柏戸対大鵬、輪島対北の湖らの名勝負は幾つかあったが、「栃若決戦」ほど相撲ファンを魅了したものはないだろう。 正に大相撲の黄金時代であった。
このような黄金時代は、両横綱の卓抜した技量によるものだけではなかったと思う。 丁度この時代に、昭和33年(1958年)から、大相撲は「年6場所制」にまで拡大したのである。 大相撲自体が発展しピークを迎えていたのだ。 それに、テレビの実況中継が各家庭に普及し、人々は茶の間で栃錦、若乃花を見ることが出来るようになったのだ。
33年から35年にかけて、栃錦と若乃花はほとんど交互に優勝を分け合った。 やがて、栃錦は35年5月場所をもって引退、また若乃花も2年後に引退、両者とも幕内優勝10回を飾った。 そして角界は、柏戸・大鵬を中心とした「柏鵬時代」へと移っていく。

5) 引退後、栃錦は春日野親方として、また若乃花は二子山親方として後進の指導に当たったが、後日2人は相次いで日本相撲協会の理事長に就任、角界の発展のために尽力した。 名横綱・栃錦清隆は、平成2年1月10日に死去した。享年64歳であった。
栃錦は余りにも闘志をむき出しにするため、これを嫌がる相撲ファンもいた。 大鵬のように悠揚迫らざる土俵態度ではなかった。しかし、これは仕方がなかったと思う。 小兵の力士が巨漢の力士と相撲を取る時は、人一倍闘志を燃やさなければ相手に圧倒されてしまうだろう。

 私が今も鮮やかに覚えているのは(記録を調べてみたら、昭和30年5月場所の千秋楽であった)、2メートルを超える巨漢大関・大内山との死闘だった。 大内山はおとなしい性格で有名な関取だったが、栃錦と対戦する時だけは、なぜか異常に闘志を燃やして闘った。
これはよく言われたことだが、栃錦の闘志に大内山も引きずり込まれて闘志を燃やした感じだった。 30年5月場所千秋楽の両者の一戦は、昭和の相撲史上に残る屈指の名勝負・死闘だった。
日頃おとなしい大内山が、猛烈な上突っ張りで栃錦を圧倒したため、栃錦は辛くも大内山の懐に潜り込み、内掛けや二枚蹴りを連発して相手を倒そうとするが、大内山はこれを残し、栃錦が下手出し投げを打った際に、再び両者の身体は離れた。
 
 この後の大内山の上突っ張りは凄まじいもので、栃錦の身体は完全に浮いてしまい、フラフラになった感じで土俵際に追い詰められた。 勝負あったかに見えた瞬間、突進する大内山の首を左腕で巻いた栃錦が、起死回生の首投げを打つと、大内山の巨体は一回転して土俵上に転がったのである。
この勝負は、長い間語り継がれた。余りにも凄まじく印象的な死闘だったからだ。 栃錦には“華”があった。その闘志が相撲を面白くさせてくれた。 優勝回数では大鵬の32回、千代の富士の31回に遠く及ばないものの、若乃花と共に大相撲の黄金時代を築いたことは間違いない。 名横綱・栃錦清隆を偲び、その冥福を祈るものである。 (2002年9月15日)

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2 コメント

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こんな記録もあります (ブル)
2012-03-20 07:14:14
矢嶋さん、1勝7敗から7連勝して勝ち越した力士がいます。2011年初場所の前頭筆頭の『豊ノ島』です
それも立派ですね! (矢嶋武弘)
2012-03-20 07:47:23
ブルさん、先ほど貴兄のブログにコメントしました。豊ノ島の記録も立派です。

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