矢嶋武弘の部屋

われ「記す者」なり
言葉は命、そして弾丸にもなる
もし勇気去らば、全てのもの汝より去る(ゲーテ)

青春流転(3)

2017年10月01日 03時11分56秒 | 小説・『青春流転』と『青春の苦しみ』

3)「若草物語」

 翌朝、行雄は遅い食事をすませると、すぐ敦子に電話をかけた。 「行雄ちゃん、昨日はどうしてあんなに不機嫌だったんですか? 私と一緒にいるのが嫌でしたら、正直にそう言って下さい。 私は貴方と一緒にいることが嬉しいんです。でも貴方が嫌でしたら、考え直さなくてはなりません」 敦子が不満をぶつけてきたが、それを聞いて逆に行雄は胸をなで下ろした。

「敦子ちゃん、ごめん。 昨日は本当に僕が悪かった。僕はずいぶん後悔してるんだ。 せっかく君と長瀞へ行けたというのに、楽しい一時を台無しにしてしまって、ごめん。 僕の性格がおかしいから、あんなになってしまったんだ。 勿論、僕は君と一緒にいることは嬉しいし、ありがたいとさえ思っている。こんな変な僕と付き合ってくれるんだから。 昨日は本当に申し訳ありませんでした」 行雄は率直に謝った。

「ううん、それならいいんです」 敦子は安心したような声を出すと、一呼吸おいて「今日もうちに来てくれませんか?」と丁寧に言ってきた。 行雄は喜びで胸が一杯になった。「勿論行くよ、君が許してくれたんだから。 あ、そうそう、君にぜひ見てもらいたいものがあるんだ。『若草物語』といって、僕の中学時代から高校一年にかけての日記なんだ。 つまり、雨宮さんっていう女の子が好きになって、その子と付き合っていた時の日記なんだ。

 僕はいま、もう雨宮さんと勿論付き合っていないけど、その『若草物語』を大切にしまってあるんだ。 それをぜひ君に読んで欲しいと思う。そうすれば、僕という人間が君にもっと良く分かってもらえると思うんだけど・・・ね、それを持っていってもいいだろう? 他の誰にも見せたことがない日記なんだ。それを君にだけは読んで欲しいと思っているんだけど」

 敦子が嬉しそうに答えてきた。「光栄です、私だけが読めるなんて。 勿論、読ませて下さい」 「うん、それならできるだけ早く行くよ。あと一時間もしないうちに。それじゃ、また後で」 行雄は受話器を置くと部屋に戻り、机の引出しの奥深くにしまっておいた「若草物語」を取り出した。 この日記は、オールコットの小説で有名な、あの「若草物語」に因んで名付けたものである。 学校用の薄いノート七冊にまとめたもので、行雄はそれを“風呂敷”に丁寧に包むと、すぐ自転車に乗って家を飛び出した。

 外は暑かった。 今日も真夏の太陽がじりじりと照りつけ、行雄はたちまち全身に汗をかいた。 それでも彼は、昨日の長瀞の時とは打って変って、元気良くペダルを踏んでいった。 学校のプールへ行くのだろうか、浮き輪や水着をひっさげた何組もの小学生のグループが、はしゃぎながら歩いている。

 太陽はすでに中天にかかり、あり余る光を力強く大地にふりそそいでいた。 木々の緑が光を浴び、一層鮮やかに色濃く輝いている。 光と熱と活気に満ちた夏・・・素晴らしい夏を全身で感じながら、行雄は汗まみれになって敦子の家に着いた。

 敦子がすぐに冷たいタオルを持ってきてくれたので、行雄はそれで顔をぬぐった。 生き返ったような気持になった彼は、敏子と暫く雑談を交わした後、二階の敦子の部屋へ彼女と共に上がった。 敦子が扇風機をかけると、涼しい風が行雄の全身をかすめていく。

 彼はすぐに風呂敷から「若草物語」を取り出すと、「敦子ちゃん、全部読んでね」と言って七冊のノートを彼女に手渡した。 敦子は古びた椅子に腰をおろすと、脚を組んで「若草物語」を読み始めた。 行雄は敦子がどのような反応を示すのか、注意深く彼女の表情をうかがっていた。

 敦子は冷静な面持で一冊目のノートを読んでいく。 それを半分ぐらい読んだところで彼女は、「これ、誰にも見せていないのよね。雨宮さんにもね?」と、分かりきったことを聞いてきた。「勿論さ。君に見せるのが初めてなんだ」 行雄が答えると、敦子は満足げな吐息をはいて更に読み続ける。

 敦子は一心不乱に読んでいく。行雄は彼女の白い脚がかすかに揺れるのを眺めたりしていた。 沈黙が続き、扇風機の回る音だけがヤケに部屋の中に響く。 敦子はすぐに一冊目を終えると、二冊目のノートを読み始めていた。 食い入るように読み続ける彼女を見ているうちに、行雄は胸が高鳴ってくるのを覚えた。

 この前、同じこの部屋で敦子と過ごした時、長い沈黙の重圧感に耐えられなくなったことを思い出していたのだ。 あれは夜だったが、今は真昼の暑さで、行雄の心もじりじりと焼け付いてくるような感じがしてきた。 沈黙が更に続く・・・敦子は早くも三冊目のノートを読んでいた。

 やがて三冊目を読み終えると、敦子は深く溜息をつき目を閉じてしまった。彼女は明らかに感動していた。 暫くして彼女は目を開け「きれいだわ。とてもきれい」とつぶやいた。 中学二年の秋に、行雄が生徒会の席で雨宮和子を見かけてから彼女に好意を抱き、翌年の中学三年の夏、ようやく和子と交際できるようになったくだりが、三冊目までに記されていた。

 バスケット部では和子の一年先輩で、行雄のクラスメートである女生徒に連れられ、彼が初めて雨宮家を訪れたこと、和子と交際できるようになった喜びや興奮などをつづっていたのだ。 そうしたくだりを読んだことで、敦子は明らかに満足していた。 「四冊目以降は、彼女との交際の記録や、やがて別れることになる所が詳しく書かれているんだけど・・・」と、行雄が声をかけた。

「ううん、今日はもうこれ以上は読みたくないの」と、敦子が答えた。 彼女は、男女の交際がめでたく成就する所だけを読んで満足しているようだ。 それ以上は、読んでも意味がないとでも思っているのだろうか。 交友関係が破局を迎える所まで読んでしまうと、せっかく素敵な気分になっているのに、冷や水をかけられたような気持になることを恐れているのかもしれない。

 それでも行雄は、敦子が「若草物語」に感動してくれたことに満足していた。 やがて彼女はやや物憂げな表情で行雄を見やると、「貴方は純粋なのね」とポツリと言った。 その言葉が今度は彼を感動させた。 自分が崇拝し愛している女性から、そのように言われることは無上の光栄と感じられたからである。

 敦子が「若草物語」のノートを机の上に置いたので、行雄は、外を散歩しようと彼女を誘った。すると敦子が答えた。 「まだ暑いから、夕方になって散歩しましょうよ。それより今日は、ゆっくりしていって欲しいわ。 最近撮った私の写真も見て欲しいし、ピアノも聴いて欲しいの。貴方と二人だけでいられるのも、もうあまりないと思うわ」

 敦子は珍しく口数が多くなっていた。 行雄と一緒にいることが、いかにも楽しいという素振りを見せていた。 行雄は彼女の最近の写真を三十枚以上も見せてもらったが、近いうちに気に入ったものを何枚かもらう約束をした。

 敦子の写真を見ながら取り留めのない話しをしていると、彼女はつと立ち上がり「これから、ピアノを弾きます」と静かに言った。 二人だけでいる時に、敦子が自分の意思で行動を起こすというのは滅多にないことだ。 行雄は黙って彼女の演奏を聴くことにした。

 彼女はピアノが苦手だと知っていたが、今日は少しも悪びれる様子がなく、ゆっくりと椅子に座ると落ち着いた感じでピアノを弾き出した。 それは、この前聴いた「乙女の祈り」だった。何度もつっかえながらも、心を込めて弾いている様子だった。

 行雄は敦子の横顔を眺めていたが、彼女の真心が鍵盤を通じて伝わってくるような感じがした。 この曲を作ったバダジェスカも、今の敦子と同じように真心を込めてピアノを弾いたのだろうか。 乙女の愛と夢が込められた曲・・・行雄は敦子の全身にうっとりと見とれていた。

 白い腕、白い脚、薄いピンク色のワンピースに包まれた彼女のふくよかな腰、微かに揺れる黒髪・・・敦子の清潔な匂いが部屋中に漂ってくる感じだった。 行雄にはもう、彼女が女神のように近づきがたい存在にはどうしても見えなかった。 ピアノにひたすら打ち込む敦子は、甘美な夢に憧れる一人の少女でしかなかった。 彼女はただ僕との愛を願っているのではなかろうか。

 そう思うと、行雄はこよなく愛しさを感じ、敦子を抱きしめたい衝動に駆られた。 心の底から、熱い思慕の念が込み上げてくるのを感じたが、今は抱きしめることはできないのだ。 扇風機の風が、行雄の心を冷やすかのように彼の首筋をかすめていく。

 敦子はピアノを弾き終えると、恥ずかしそうに微笑んでみせた。 自分の気持が、行雄に伝わったのではないかという思いからだろう。行雄も微笑み返した。 それから二人は「若草物語」のことから、彼女の留学先であるシカゴのことなど、取り留めのない話しを続けていった。

 夕方になって二人は外出した。 少しは涼しくなっているかと思っていたが、外はまだ真夏の蒸し暑さがこびりつくように残っていた。 二人はどちらからともなく手を握り合っていた。 敦子の暖かく、湿った柔らかい手の感触をなんと表現したらいいのだろう。それはまるで、お湯とゴムの“塊”のように行雄には感じられた。

 彼はもう、なんの抵抗もなく彼女の手を握り、その指の感触を楽しんでいた。敦子は自分の手を完全に行雄に委ねていた。 彼はいま、彼女の手を自分の思い通りにすることができた。どんなに強く握っても、締めても、ひねってもいいのだ。 行雄は自分が生まれてから、これほどの快感を味わったことがなかった。彼は長い間、敦子の手を楽しんだ。

 行雄は、自分の心が限りなく開かれていくような感じがした。 勝利者だ、俺は勝利者だという実感が彼の身体中を制圧していた。誰も手にしたことがないような、美しく素晴らしい愛を俺は手にしているのだ。 行雄はそのように信じた。

 散歩のあいだ中、行雄はほとんど一人で何やらしゃべりまくっていた。 敦子との散歩が終わり、行雄は森戸の家を後にして帰宅すると、食事もそこそこに自分の部屋に飛び込んだ。 彼は高揚し酔っぱらったような気分になっていた。そして、敦子の幻を追い求めながら便せんに詩を書きなぐっていった。

「 あなたの“乙女の祈り”をきいて ぼくの心はときめく  あなたの真心にふれて ぼくの胸はふるえる  ああ 愛する人よ ぼくの全てをあなたに捧げることができるのなら ぼくは大地に接吻し神に感謝をしよう  その日が遠からず来ることを神に祈ろう 愛する人よ ぼくはあなたのために生き あなたのために死ぬ

 あなたの足元にひれ伏し 白く芳しいその御足に口づけすることを 許してほしい そしてぼくは喜んで死ぬ あなたはぼくの熱い涙に濡れて もっと美しく光り輝くだろう  ぼくに幸せと悦びを恵んでくれた人よ ああ ぼくの初恋の人 ぼくのカルピス あなたの全てを吸いつくし飲みほそう そうすればあなたはぼくの血となり 悦びの涙となるのだ・・・」

 行雄は夢中になって詩をつづっていった。 便せんに何枚も詩を書きなぐりながら、行雄はこれらの詩を、敦子がアメリカへ立つ前に彼女に贈ろうと思った。 その夜、彼は思いつくままに、ひたすら愛の詩を書きつづっていった。

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