矢嶋武弘の部屋

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青春流転(8)

2017年06月10日 15時55分52秒 | 小説・『青春流転』と『青春の苦しみ』

8)安保闘争

 一九六〇年の元旦を迎えた時、行雄は、この年が自分にとって計り知れないほど、意義深い年になるだろうと予感した。 満十八歳になっていた彼は、大いなる希望と期待感に満ちあふれていた。

 日米安保条約改定については、これを粉砕できるかどうか自信はなかった。 しかし、今後盛り上がっていくであろう安保闘争を通じて、全学連をはじめ自分達の進めている運動が、必ず大きく広がっていくという自信はあった。

 いや安保改定だって、先の警察官職務執行法改正案と同様に、潰すことができるかもしれない。 警職法改正案は一九五八年十一月、革新陣営の猛反対で廃案になったが、この時の岸内閣の後退ぶりを見ていた行雄は、やればできるのだという希望を持ったことがある。

 もちろん、安保改定と警職法改正とでは次元の違う問題だが、同じ岸内閣が、革新陣営の猛反対を押し切って強引にやろうという姿勢には変わりがないのである。 従って、警職法改正と同じように、安保改定も粉砕できるかもしれないという期待があった。

 行雄にはもう一つ別の期待感があった。 それは、アメリカに行っている敦子がこの年の夏に帰国し、彼女と再会できるということだった。 敦子からは一週間ほど前、クリスマス・カードを受け取り彼は上機嫌になっていた。

 行雄は、いずれ敦子に自分の気持が分かってもらい、自分達の運動に共鳴してくれるだろうという期待があった。 ただ、彼女はいまアメリカで勉学に励んでいるから、すぐに分かってもらおうと思っても、それは無理だと感じていた。

 行雄が全学連に傾倒していくのを知って、敦子がびっくりし、彼女の両親に注意を促す手紙を寄越してきたことは、母の久乃から聞いている。 その話しを伝えられた時、彼は敦子の可愛さがおかしくなって笑いが込み上げてきた。 彼女はやはり自分のことを思ってくれているのだ、と行雄は感じたのである。

 一方、行雄の父や兄は、相変わらず彼に対して、全学連運動への参加をちくちくと批判してきた。 しかし、行雄は楽天的で大らかなものであった。間近に迫っている大学進学も、学生運動のためと割り切って考えれば、素直に納得できた。

 どこの学部でも良い。学生運動のやりやすい所ならどこでもいいではないか。 そう考えれば文学部、それも仏文科あたりがいいかもしれない。 サルトルもカミュも、ロマン・ロランもアンドレ・ジッドも、たっぷり勉強できるのだからと、行雄は楽しい思いに耽っていた。

 

 そうした日々を送っているうちに、岸信介首相が、いよいよ日米新安保条約調印のため渡米する日が近づいてきた。 岸首相の一行は、予定を急に繰り上げて一月十六日早朝、渡米することになった。反対運動をかわそうという狙いがあったからである。

 全学連はあわてて動員をかけ、十五日夜から羽田空港の国際線ロビーに座り込みを始めた。 首相訪米阻止のため結集した学生は約七百人となり、彼等はロビー脇の空港食堂に立てこもり、椅子やテーブルなどを引っぱり出してバリケードを築いた。 このため、警視庁は二千人の警官を動員し、十六日未明、バリケードを解除して食堂内に突入、不退去罪で学生達を次々に検挙した。

 十六日朝、このニュースをテレビで知った行雄は、恥ずかしさで気が滅入る思いだった。 彼は十五日の午後、ずっと高田馬場の古書店や喫茶店をほっつき歩き、夜遅く帰宅して、全学連の学生が羽田空港に集結し始めていることをテレビニュースで知ったのだ。

 その時、今から羽田に駆けつければ間に合うかなと思ったが、同時に、今から行っても岸首相の渡米阻止に、どれほど役立つだろうかと自問した。 それに正直なところ、浦和から羽田は遠過ぎた。電車を乗り継いで行っても二時間以上は優にかかるだろう。

 行雄はめんど臭くなって羽田に行くのを諦め、そのまま寝てしまった。 彼が寝ている間に、羽田では全学連の先輩達が次々に検挙、逮捕されていったのである。 目が覚めてからそのニュースを知った時、行雄は自分の恥ずべき怠慢さにやり切れない思いになった。

 俺は卑怯者だ! 俺は安保改定阻止に熱心ではないのだ。自分が眠っている間に、同志達が次々に逮捕されていったではないか。 自分はどうしてこれほど、卑怯で間抜けで汚いのか。 行雄は恥ずかしさで自分という人間がほとほと嫌になり、その日は一日中、悶々とした気持で過ごすことになった。

 こんなことではいけない。 これからは絶対にやらなければ・・・絶対に名誉を挽回しなければならない。行雄は自責の念で一杯になった。

 

 数日後、大川を中心に高校生だけのサークルを持った時、彼は激しい口調でこう述べた。「この中には僕も含めて誰一人、羽田の首相訪米阻止闘争に参加しなかった。こんなことでいいのだろうか! 僕も厳しく自己批判するが、マルクス主義の勉強も大事だけれど、現実の国家権力との闘いをサボっていては、少しも現実を変革することはできないではないか!

 僕らは高校生だということで、“甘えている”部分が多いと言わざるをえない。その点は、率直に反省すべきである。 僕らが立ち上がらなければ、他の高校生の誰が闘争に参加してくるだろうか。

 実践を通じてマルクス主義を確かなものにしていくことが、われわれの課題ではなかろうか。 そういう意味からも、今後の闘争、特に全学連の闘争には、積極的に参加していかなければならないと思う」 大川の演説はグサリと行雄の心を貫いた。彼はまったく同感だと思い、自らの怠慢を反省しながら「異議なし!」と叫んだ。

 その後、行雄は大川らとともに、どんな小規模な集会やデモにも積極的に参加するようになった。 それも、デモの時には隊列に隠れるようにではなく、次第にデモ隊の先頭に加わるようになり、横に倒した旗竿を何人もの学友とともに握りしめ、「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声も勇ましく先陣を切るようになった。

 そして、旗竿を奪い取ろうとする警官隊と激しくもみ合う中で、闘う自分に誇りを感じ満足するようになっていった。 ただ困ったことは、座り込みをしている時に警官隊が行雄達のグループに気がつき、「高校生の諸君は早く退去しなさい!」と言われることだった。

 警察は、大学生と高校生を明らかに区別して臨んできた。 これが行雄達を困らせたが、あと一、二ヵ月もすれば大学に進むのだから、高校生だからという“差別待遇”もあと僅かだと自分達に言い聞かせて我慢したのである。 そして、警官隊というこの「国家権力の手先」に屈してたまるか、という決意を胸の奥深く固めていった。

 

 四月。桜の花が鮮やかに咲き誇り、暖かい日差しが全ての人達をほのぼのと包む頃、行雄は早稲田大学第一文学部仏文学科へ進学した。 両親や兄はとにかく彼が大学へ進学したことで、ほっと胸をなで下ろしていた。 行雄は合格点すれすれの成績で、ようやく高等学院を卒業して進学できたのである。

 敦子の両親も彼の大学入学を喜び、お祝い金を送ってきてくれた。 行雄はその金で真っ白なダスターコートを買い、いつもそれを着て通学するようになった。 敦子の父・森戸徹三はその頃、共栄銀行の神奈川第一支店へ転勤を命じられ、与野市から横浜市へ転居することになった。

 徹三夫妻は息子の徹郎と信二を連れて、行雄の両親にお別れの挨拶にやって来たが、その席で、行雄の全学連運動への参加を心配して、いろいろ話し込んでいった。 その後、父の国義が行雄に、全学連もいいがほどほどに行動するよう念を入れて注意してきたが、行雄は適当に受け答えするだけで聞く耳を持たなかった。

 四月の大学キャンパスは、新入生が大勢入ってくることで活気と華やいだ雰囲気に包まれるものである。 クラブ活動への勧誘やアルバイトの斡旋、安い下宿先の紹介などが重なり、キャンパスは賑やかな“たたずまい”を見せていた。

 そうした中で、行雄は仏文科Bクラスに編入されると、付属高校出身の経歴を利用して直ちにクラス委員に立候補し、無投票で当選してしまった。 もちろん、全学連の運動に有利になるよう、クラスを引っ張っていく目的があったからである。

 しかし、仏文科に入ってきた学生は、おおむね自己中心的なタイプが多く、政治問題にはほとんど関心がないようであった。 行雄はコンパなどを通じて、学生運動への賛同を得ようと試みたが、大多数のクラスメートの反応は鈍く、むしろ冷ややかなものがあった。デモに誘っても、ついてくる学生は数える程しかいなかった。

 こんな状態で、果たして全学連の安保闘争は盛り上がっていくのだろうか。 行雄は疑問を抱いたが、とにかく、やるだけやってみるしかないと、自分に言い聞かせるしかなかった。

 この頃、革共同がブント(共産主義者同盟)の学生組織・社学同(社会主義学生同盟)に対抗して、マル学同(マルクス主義学生同盟)を結成したので、行雄はすぐにこれに加盟した。

 当時、全学連の主導権を握っていたのはブント・社学同であり、革共同・マル学同はこれと共闘していた。 “共闘”していたというのは、共産党系の民青(日本民主青年同盟)の勢力に対抗していたということだが、マル学同は自らの組織を拡大していくため、同じ過激派路線の社学同の学生をオルグしていく必要があった。

 社学同は、社会主義に関心がある学生なら誰でも加入させていたから、行雄達は社学同にも名前を登録し、内部からマル学同への同調者をオルグしていくことになった。 これを革共同・マル学同は「加入戦術」と呼び、二重登録の中から自らの組織を拡大しようとしていった。 組織論的に見ると、マル学同は極めて柔軟な戦術を取ったと言えよう。

 こうして行雄達は、デモの時には社学同の学生達ともスクラムを組み、同じ行動をしながら、近い日に彼等の組織を“蚕食”していこうと考えていた。 ただし、同じ行動を取っていても、マルクス主義や革命への意識という面では、彼等よりわれわれの方が上だという自負を持って闘ったのである。

 ブント・社学同の闘争方針は、国会突入戦術など極めて過激である。 これを“一揆主義的”と批判する革共同の人間もいたが、行雄はそうは思わなかった。 革共同は本来、革命の主体は労働者という考え方が強かったため、学生だけの暴発的な行動を批判的に見る傾向があった。

 しかし行雄は、学生にできることは何でもしなければならないと思っていたから、ブント・社学同の闘争戦術に容易に馴染むことができた。 また彼は、人間にとって“純粋さ”が最も貴重なものであると考えていたから、過激で極端であればあるほど、人間の純粋さが発揮されていると思っていたのである。

 従って、安保闘争が高揚期を迎える一九六○年の前半は、行雄は“クロカン・ゼミ”にはあまり行かなくなり、もっぱら過激な運動や大衆闘争に腐心するようになった。 理論よりも、まず実践を重んじる状況になっていたのである。

 行雄達は、いかにクラスメートを全学連主流派(社学同・マル学同派)の活動方針に賛同させるか、ということに苦心し努力した。 これに対して、日共・民青系の全学連反主流派は、過激な主流派に対抗して、四月に東京都学生自治会連絡会議(都自連)を結成した。 全学連は事実上、二つの潮流にはっきりと分裂したのである。

 文学部の各クラスにおいても、主流派と反主流派の激しい多数派工作が熱気を帯びてきた。 こうなれば、どちらの派が多くの学生を動員して、有効な闘争を展開できるかに勝負がかかってくる。 行雄は、連日のようにクラス討論会を開いて主流派への参加を呼びかけ、ようやく六、七人の学友をデモに連れていくことに成功した。

 

 その頃、政府・自民党は、通常国会の会期末である五月二六日から逆算して、一ヵ月前の四月二六日までに新安保条約を可決し、自然承認を図るという方針をちらつかせ始めた。 こうした動きに触発されて、安保反対闘争はにわかに緊迫、盛り上がりを見せることになった。 清水幾太郎氏らの学者、文化人も「安保批判の会」などを結成し、四月に入ると一斉に街頭行動に立ち上がった。

 一方、国会では、すでに二月から衆議院に「安保特別委員会」が設置され、社会党がアメリカとの「事前協議」や「極東の範囲」、さらに条約修正権の問題などについて、政府を鋭く追及していた。

 これに対し、政府の答弁はしばしば曖昧で、時には“しどろもどろ”になったため、新安保条約に対する国民の不安と疑問は、ますます増大していくように見えた。 特に、条約にいう「極東の範囲」については、政府の解釈がくるくると変わりっぱなしで、まったく信用がおけないという印象を国民に与えたようである。

 このためか、一般の新聞論調も、新安保条約は日本の平和と安全にとって不備な点が多いことを指摘するようになり、岸内閣は日一日と苦しい立場に追い込まれていく状況となった。

 今や、安保条約に反対する闘争は、どこの大学でも盛り上がりを見せるようになってきた。 行雄は連日のように続くデモ、集会、クラス討論、ビラ刷りやビラ配り、立て看板作り、オルグなどの活動で、目の回るような忙しさであった。

 しかし、毎日が活気にあふれ、命の炎を燃やしている感じで充実感に満ち満ちていた。 このような日常生活は、つい半年前の高等学院時代には想像もできないことだった。あの頃にはまったく思いも及ばない“燃えるような”毎日なのである。

 こうした充実感の中で彼は、革命のために生き、革命のために死ぬことができれば幸せだと思うようになった。 仮にいま、交通事故で死ぬことがあっても、その時は「日本の社会主義革命万歳! 革命を! 皆さん、革命を!」と叫んで、死ぬことができるだろう。

 行雄はこのように思いながら、革命に命をかけることのできる喜びに酔いしれた。 彼はふと夢想に耽ることもあった。自分は革命の政治犯で獄中に捕えられ、死刑の執行を待っている。 そこに、政府権力者に嫁いだ“敦子”が、昔の友情から自分の助命を嘆願してくれるかもしれない。

 しかし、自分はその助命運動を断固はねつけ、従容として死刑の執行を受けるのだ。 その時、敦子は自分のことをどう思ってくれるだろうか・・・そんな夢想に耽っていると、行雄は甘酸っぱい切なさに何とも言えない快感を覚えるのだった。

 

 四月二十日を過ぎると、自民党が会期内の安保条約自然承認を目指して、衆議院安保特別委員会の中間報告を求める動議を提出、国会はにわかに緊迫してきた。 衆参両院議長は強行採決の混乱に備えて警官隊の出動を要請、これに対し社会党が強硬に抗議して院内外は騒然とした状況になってきた。

 一方、日本国内の動きとはまったく関係のないことだが、隣国の韓国では四月中旬から、李承晩大統領の独裁政治に反対するデモが急速に拡大していった。 そして、十九日にはソウル(京城)で暴動が発生、これが南部の釜山、大邱、光州、大田にも広がり、七十人以上の死者が出るという流血の大惨事になった。

 韓国の学生達はデモや暴動の先頭に立って軍隊と激突、次々と射殺されたり負傷していった。 しかし、“李承晩打倒”の反政府暴動は、止まるところを知らない勢いで拡大していったのである。 この韓国の情勢が、全学連の学生達を非常に刺激した。

「韓国の学生に負けるな!」が合言葉のようになり、彼等が李承晩を倒すように、われわれは岸内閣を打倒して安保条約を粉砕しようと意気込んだのである。 連日のデモや警官隊との衝突が激しくなっていった。

 騒然とした院内外の動きに、自民党はついに、中間報告を求める動議を取り下げざるをえなくなった。 しかし、これを機に、安保反対闘争は火に油を注ぐように拡大していく。 韓国の学生に負けたくないという気持が、学生達の血を沸き立たせていったのである。

 四月二六日。 全学連主流派の学生約六千人は、安保改定阻止国民会議の請願デモとは分かれて、国会正門に通じるチャペルセンター前に集結した。 今日は何かが起きると誰もが予感した。学生達は明らかに国会突入を目指していたのである。

 不穏な情勢に、警察側も厳重な警備態勢を取り、国会周辺には八千人の警官隊が配置されていた。 これまでになく多くの装甲車が、学生達の前方に整然と配備されたが、後方には右翼の各団体が宣伝カーやトラックに乗って詰めかけてきた。

 この時初めて、行雄達のグループは“自衛武装”の必要性を本能的に感じ取った。 彼等はプラカードの板を外して二十数本の角材を用意し、さらに何百個もの石ころを集めてきて、右翼の襲撃に備えたのである。

 こうした自衛武装は自然発生的に行なわれたものであり、全学連指導部の指示があったからではない。 右翼の襲撃という危機感から、本能的に取られた措置である。行雄達は、もし右翼が突撃してきたら、角材や投石で撃退しようと身構えていた。

 この日の決起集会は、はじめから緊迫感に満ちたものであった。 全学連のリーダー達が次々と挨拶に立ち、安保条約粉砕、岸内閣打倒を呼びかけると、学生達は「異議なーしっ!」「断固、闘うぞーっ!」などと喚声をあげた。

 そして最後に、唐牛(かろうじ)健太郎委員長が挨拶に立った時には、集会の熱気は最高潮に達していた。 彼は吼えまくるライオンのように嵐のような扇動演説を始め、国会突入を訴えた。

「この装甲車の向うは“真空地帯”だ! 警官隊がいても、奴らは金で雇われた連中だ! そんな連中は、われわれが突撃すれば逃げていくだけだ! さあ、みんなで国会に突入しよう!」 激しいアジ演説が終ると、一瞬、不気味な静けさが辺りを支配した。

 座り込んでいた学生達が一斉に立ち上がる。各大学ごとにスクラムを組んで態勢を整えた。 「進め!」の号令とともに学生達は前進する。彼等は道幅いっぱいに二重、三重にぎっしりと並べられた装甲車に襲いかかると、アリのようにはい上がっていく。

 そして、車を乗り越えて次々に向う側へと降りていくが、そこに待機していた警官隊が猛然と殺到してきた。 デモ隊と警官隊の激突・・・しかし、容赦なく警棒が打ち下ろされると、頭や顔から血を噴き出して倒れる学生が相次いだ。 そこは怒号、悲鳴、うめき声が渦巻き、凄惨な修羅場と化していった。

 行雄達も装甲車を乗り越えて警官隊とぶつかったが、角材は後方に置いてきたため素手であった。警棒の乱打にはたまったものではない。 なんとか逃げ回っては、またスクラムを組み直して立ち向っていくが、また警棒によって追い払われる。 ふと見ると、大川が自治会旗を振り回しながら、警官隊と追いつ追われつの闘いを繰り広げていた。

 やがてデモ隊の一部が、装甲車にロープをかけて一両、二両と引きずり出しいるのが見えた。 学生達はそこを突破口にして、スクラムを組んで逆襲に転じようとしていた。 しかしその時、後方から右翼の大型トラック二台が、猛スピードでデモ隊の中に突入してきた。

「危ないっ!」「ワーッ!」「キャーッ!」という悲鳴が聞こえる。 見ると、右翼の連中が釘のついた棍棒を振り回して、車上から学生達を殴りつけているのだ。 この右翼の襲撃にデモ隊は動揺した。

「お前ら警察なら、右翼を逮捕しろ!」 学生達が声を張り上げるが、警官隊は勿論そんなことには構っていない。 警官隊と右翼に挟まれ、デモ隊が浮き足立った時、警官隊の“総攻撃”が始まった。またまた警棒の乱打である。

 みるみるうちにデモ隊の態勢が崩れ、学生達は国会正門付近から追い払われた。 その間、唐牛委員長ら全学連のリーダーが次々に逮捕され、デモ隊はやむなく退散をよぎなくされた。

 国会突入を果たせず行雄達は悔しい思いをしたが、学生達はこの後、抗議の意味を込めて警視庁にデモをかけ、有楽町を通り東京駅八重洲口に至って解散した。 警官隊に追い払われたものの、この日の闘いは、行雄にとって忘れがたい激烈なものであった。

 全学連デモ隊の士気は、これまでになく高揚していた。 この闘争心をさらに盛り上げていかなければならないと思い、行雄には敗北感などは微塵もなかった。

 

 この同じ二六日、韓国のソウルでは五十万人ものデモ隊が李承晩の退陣を求めて決起、治安に当たった軍隊を大統領官邸にまで押し返す事態となり、李承晩は翌二七日、ついに大統領辞任に追い込まれた。 学生達を先頭にして闘った韓国の反政府運動は、こうして多くの犠牲者を出しながらも勝利したのである。

 韓国の学生達の勝利は、全学連の学生達を鼓舞した。 彼等が李承晩を倒したように、われわれも岸内閣を打倒し安保条約を粉砕しようではないか。韓国の学生達に負けるものかという気概が、日本の学生達の心にも広がっていったようである。

 そして、五月一日のメーデー。 安保反対などを訴えて浦和市内を行進する労働者のデモ隊に、行雄は熱い声援を送り、一人一人と握手していった。 労働者の暖かくがっしりした手の感触が、彼にはこの上もなく頼もしいものに思えた。

 メーデーの行進を見ながら、行雄は夢想に耽った。 われわれ労働者、学生の闘争で岸内閣を倒し、それを突破口にして自民党政権を崩壊させ、社会党を中心とした“人民戦線政府”を樹立する。 その後、ゼネストを主体とした日本プロレタリアートの闘争によって、社会主義革命を成就させるのだ。

 その時は、赤旗が国会や首相官邸の上にはためき、何百万人という労働者、民衆が歓呼の声をあげながら、新しい社会主義革命政権の誕生を祝福するのだ。 こういう夢想に耽りながら、彼はメーデーの行進に盛んに声援を送るのであった。

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2 コメント

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懐かしい60年安保 (ヒロシ)
2016-02-23 23:55:53
小説面白いです。自伝を書くつもりで書いておられると拝察いたしますが、小生の青春期とも重なり往時を懐かしく想い出しながら読ませていただきました。マルクス主義と社会主義革命なんと懐かしい響きを持った言葉ではありませんか。いまのシールズの若者たちはそんなことは考えてもいないでしょうが、変革のエネルギーを内包しているところは共通しているはずですよね。いつの時代にあっても若者は純粋でなければなりません。小説の進展たのしみにいたしております。がんばつてください。
60年安保 (矢嶋武弘)
2016-02-24 06:58:12
ありがとうございます。
自伝的な小説ですが、もう40年ほど前に書いたものです。
若者は純粋でひたむきですね。70歳を超えた今はとてもこういう気持にはなれません。体力的にも無理です(笑)。
でも、前を向いて進みましょう。

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