矢嶋武弘の部屋

すばらしい出来事、すばらしい人物などに文章を捧げる
われ「記す者」なり

過去の記事(1)

2017年09月12日 03時57分30秒 | 過去の記事

<脳死と死生観 >

 <はじめに>
いま「脳死」の問題が臓器移植との関連で大きな関心を集めている。ここで専門的な話をするわけではないが、生と死をどのように考えたらいいのだろうか。
結論から申し上げると、私は、脳死状態というのは死でもなく生でもなく、逆に言えば、死でもあり生でもあり、それ自体が人間と生命の『尊厳』を冒涜(ぼうとく)するものだと考える。医学の進歩が人間をそこまで至らしめたのである。この考えには当然 異論もあるだろうが、それを前提にして私が過去に書いた『理想の死に方について』を復刻したいと思う。生と死について皆で考えようではないか。なお、以下の文は一部手直しして復刻しておきたい。(2009年6月26日)

1) 生の結末が死である。 生があるから死が訪れるわけで、そういう意味で生死は一体のものである。良い死に方をするということは、良い生き方を全うするのと同じ意味を持つ。 日本語では「死生観」という相応しい言葉があるが、死をもって生が成就するのである。
 人間誰しも、良い死に方をしたいと思っているだろう。 眠るがごとく大往生を遂げるというのが、大方の人の願望だと思う。病苦の激痛に苛まれて、七転八倒して悶死するような死に方はしたくない。 誰でも安らかに死にたいと願っているはずだ。
 私のように70歳に近づいてくると、そろそろ「死に方」のことが気になってくる。 家族や周囲の人にも、出来るだけ迷惑がかからないように安らかに死にたいものだ。 そういう意味で、安楽死や尊厳死にも関心が増してきた。
 自殺は良くないというのが、一般的な考えだ。これは社会的通念である。 またキリスト教でも仏教でも、多くの宗教は自殺を否定している。 しかし、よく考えると、安楽死(尊厳死)というのは、広い意味で間接的に自殺するものと言ってよい。 自ら首を吊ったり、飛び下り自殺をするわけではないが、自分の命をもうこの辺で断ち切るという意味では、間接的な自殺なのである。
 安楽死(尊厳死)の是非をここで論じるつもりはないが、これも死に方の問題の一つなので取り上げたまでだ。 私がまず提起したいのは、自殺の問題である。自殺は是か非かというところから、「死生観」を考えていきたい。

2) 社会的通念では、自殺は良くないし好ましくない。 これは大方の人が思っていることだろう。 しかし、自殺というのは、万物の中で人間だけがなし得るものである。好ましくはないが、逆説的に言うと人間にのみ与えられた“特権”みたいなものである。
 私はここで、自殺を積極的に認めたり肯定するするものではない。 日本だけでも、年間3万人以上(実数はもっと多いはずだが)の自殺者を出していることは、極めて悲劇的である。 社会的には、自殺者はもっともっと減少すべきである。 しかし、私が問題にするのは、死に方(生き方)における自殺のことである。
 例えば、突拍子もない話から入ってみたい。「武士道」では自殺(自害、殉死など)は名誉なこととされていた。 江戸時代の佐賀藩で生まれた有名な『葉隠』では、「武士道とは死ぬ事と見付けたり」とある。
 歴史書や歴史小説を読めば、主君や藩のために命を投げ出す武士が大勢出てくる。それは大方、潔(いさぎよ)く美しく記されている。 武士だけではない。明治以降も、国家や天皇のために命を投げ出す軍人や国民のことが、数多く登場してくるのだ。
 左翼の革命家・荒畑寒村は自伝で、乃木希典(日露戦争の悲劇の将軍)が明治天皇の大喪の時に夫人と共に殉死したことについて、深い感動を覚えたと記している。 およそ、社会主義の革命家が感じたということに違和感を覚えるが、潔く美しいものは人類共通のもののようだ。
 武士道や戦前の日本の話だと、時代錯誤も甚だしいと非難されそうだから止めるが、人類の歴史においては、崇高な理想や大義、気高い信仰などに自己を犠牲にした人達は大勢いる。 それらの話は、後世においても多くの人達を感動させるものがある。
 これらの事実は何を意味するのだろうか。 これらの美しい“自殺行為”は、何百年も千年以上も人々の間に語り継がれ、殉教者や英雄の後継者を現代においても輩出しようとしているのだ。
 こうした人類の歴史を見ていると、“追い込まれた自殺”は哀れであり、また醜かったりするが、自己犠牲の精神で自ら死を選ぶものは、美しい“自殺行為”として人々に感動を与えているのだ。 こういうことは、人間以外の動物には有り得ないことである。

3) 自殺については、動機が重要である。 借金を苦にしてとか、リストラされて自殺すれば哀れで好ましくない。なんとかならなかったのか、と誰もが思うだろう。 しかし、革命の理想や気高い信仰などのために、自ら命を犠牲にすることは、人間だけに与えられた“特権”である。 それは英雄的で崇高な自殺と言えるだろう。
 自己犠牲の精神は尊いものだ。もちろん、それを他人に強制することは出来ない。また自分自身に強いることも無理である。 しかし、個々人が自発的にそう思うことは自由である。 なにも理想や信仰のためだけでなく、愛する子供の命を守るために、母親や父親が自らを犠牲にすることはいくらでもある。
 生命の尊厳というのは、単に命の尊さだけでなく「生き方」の尊さも含まれているはずである。 安楽死(尊厳死)の中には、当然そうした意味合いが含まれているのだ。 誰でも“野垂れ死”はしたくない。“犬死”もしたくない。 生きていればこそ、堂々たる納得のいく死に方をしたいものである。
 そのように考えてくると、自殺そのものを悪いとか好ましくないという議論は、むしろ副次的なものに思えてくるのだ。 自然死であろうと自殺であろうと、生の集大成である「死に方」の意義が、一番重要だと思えてくるのである。
 はっきり言わせてもらうと、病苦に苛まれて七転八倒して死ぬのは、ほとんど“野垂れ死”に等しいのではないか。 医学の驚くべき進歩で、人は「植物人間」になっても長い間生き続けることが出来るようになった。 しかし、それがその人や家族にとって幸福なことだろうか。否、むしろ不幸なことだろう。 これも“野垂れ死”と同じような状況ではないのか。
 末期ガンの患者が、最期までガンと闘って死ぬのは当然かもしれない。 私自身も末期ガンで死ぬかもしれない。 しかし、これはあくまでも、個々人の幸か不幸かの問題である。願わくばそうならないことを、個々人が思うまでである。

4) 人間の「死に方」について若干述べてみたが、医学や科学が発達すればするほど、我々は生死の問題をより真剣に考えなければならない。クローン人間などが可能となってきたこと自体、逆に死生観を最も厳しく問われる時代になったと言えるのだ。
 クローン人間の善し悪しは別として、現代においては死に方=生き方をもっと真剣に探究しなければならない。 そうした観点に立つと、私は「自殺」を一概に悪いものと断定することは出来ないと思う。
 崇高な使命感や目的のために、また純粋な愛のために人が自ら死を選ぶということは、人間にしか与えられていない“特権”であろう。 もとより私もそうだが、人間は誰でも自殺などはしたくないはずである。 しかし、人間の尊厳のために、自ら死を選ぶ自由と権利を人類は保有しているはずだ。
 大往生が遂げられれば、これほど良いことはない。 しかし、前述したように人は様々な「死に方」をする。それならば、死に方についても、人それぞれの自由と権利があっていいはずだ。 安楽死(尊厳死)についても、もっと自由な立場から各人が考えていくべきである。
 従容とした死に方、潔い死に方などについては、古来多くの人達が讃美してきた。 逆に生にしがみつくあまり、不様で醜い死に方をした者には、侮蔑と嫌悪の情が示されてきた。これは人間本来の感情であろう。
 死に方は各人の自由だが、たとえ刑死するとしても、ソクラテスや吉田松陰らのごとく、誇りを持って堂々と死のうではないか。 そして人間の尊厳死の中には、動機の優れた自殺も当然含まれるということを、ここで指摘しておきたい。 (2002年9月6日)

 

<“木を見て森を見ない”日本人 >

 先日、日本には「マニュアル人間」が多いという記事を書いたが、どうも日本人は訓練とか演習、練習といったものが好きなようだ。ルールや規則、マニュアルを尊ぶのは良いが、日本人にはどうも大局的な視点が欠ける嫌いがある。
私も70年ぐらい生きてくると、日本人の長所や欠点がだいたい見えてくる。日本人は真面目で律義で努力家が多いと思う。しかし、細かいこと、目先のことにはよく気が付くが、大所高所から物を見るのが不得手なようだ。
例えばいま、原発のストレステスト(耐性検査)をするかどうかで民主党政権が揉めているが、こんなものはやってもやらなくても大して関係はない。気休めでやればやったで良いし、やらなくてもどうってことはない。要は原発を存続するか、廃止していくかの問題である。“ストレステスト”など枝葉末節なことなのだが、こういったことに多くの日本人は目を奪われがちだ。
 
身近な例から入ったが、日本人はテストとか演習、訓練などが大好きである。避難訓練、防災訓練、防火訓練などをしょっちゅう行なっている。それは結構なことだが、訓練をやればそれで済むという問題ではない。
東日本大震災が起きる直前、東北地方の太平洋沿岸でも何カ所かで避難訓練が行なわれていた。津波などに備えてやったのだろうが、「避難指定場所」に決められた公民館や学校などが、3月11日の大津波で呑み込まれたケースは幾つもあった。そのために、大勢の犠牲者が出た。私は訓練が悪いと言っているのではない。訓練はやった方がいいが、しかし、それは絶対ではない。それによって安易な油断が生じたとすれば、かえって有害だと言いたいのである。津波が来れば、出来るだけ高台へ高台へと逃げるしかないではないか!
ここでは「木を見て森を見ない」日本人のことを述べている。一つ面白い事例を挙げてみよう。
戦前の話だが、1933年(昭和8年)の8月、日本の主要な都市で「防空大演習」というものが行なわれた。これは当時の陸軍が主宰したものだが、2年前に満州事変を起こし、それが要因で国際連盟を脱退した日本が、国際的な孤立の中で本土防衛を完遂しようという目的で実施されたものだ。
趣旨は分かるが、中身は“敵機の襲来”に備えて防空演習をするというものであった。これについて、当時の信濃毎日新聞の論説委員・桐生悠々という人が「防空大演習を笑う」という記事を書いた。(以下、半藤一利氏の著書「昭和史」を参照。)
桐生氏はこの中で、「だいたい敵の飛行機が日本の上空に来るという状態になったら、もう日本軍の大敗北そのものではないか・・・こうした実戦が、将来決してあってはならない」と述べた。さらに桐生氏は、「かかる架空的な演習を行なっても、実際には、さほど役には立たないだろう」と述べ、防空大演習を痛烈に皮肉った。
これを読んだ陸軍は烈火のごとく怒り、信濃毎日新聞の記事を発禁処分にして桐生氏を辞職へと追いやった。
陸軍の怒りは分かるが、歴史的には桐生氏の指摘が全く正しかったことを証明している。やがて太平洋戦争が起き、日本は米軍の猛爆撃を受け大都市がほとんど壊滅、焼け野原になってしまった。防空大演習など、さほどどころか全く役に立たなかったのである。挙句の果てに、原爆を2発落とされ日本は完全に敗北した。
訓練も演習も良いが、目先のことだけを考えているとこういう悲劇的な結果に終わる。日本国民はこの大演習に“お祭り騒ぎ”のように参加したというが、果たしてそれで良かったのか。敵機の襲来を想定した演習など馬鹿げていると思わないのか。
まず戦争を回避することを考えるべきではないか。仮に戦争になっても爆撃を受けるような状態を想定してはならない。それは「負け戦」そのものではないか。そんな想定の下の訓練なら、嫌だとお断りすべきである。
ところが、戦後もそうした無駄で有害な想定の下でいろいろ議論が行なわれてきた。例えば「有事法制」などと言って、敵が日本に上陸してきた時に国民をどう守るかなどと、真剣に論議してきたのだ。
敵が日本に上陸するようなら、もう敗北寸前ではないか! そんな机上の空論は自衛隊関係者や軍事研究家に任せるとして、戦争を回避するために、政治や外交は何をすべきかを考える方がよほど大切だろう。つまり、日本人は何が大切で重要かがあまり分かっていない。「木を見て森を見ない」というのはそういうことだ。
私が「マニュアル人間だらけの日本」という記事を書いたら、原発事故に関連して、「電力会社は住民避難のマニュアルもなければ、訓練もしてこなかった」というご意見をいただいた。確かにそうである。しかし、原発は事故を起こしてはならないし、「絶対安全」だと言ってきた。勿論そうでなければならない。
ご意見は分かるが、それならば原発が水素爆発などの大事故を起こすと想定して、訓練をしなければならないのか。
例えば、原発が沢山ある福井県で大事故が起きたと想定するなら、放射能拡散の危険から福井県民だけでなく京都府や滋賀県、岐阜県や石川県など周辺の住民も避難訓練に参加しなければならない。そんな訓練を住民の誰が喜ぶだろうか。みんな嫌がるだろう。そんなことは分かっているから、電力会社は原発は「絶対安全」と言い切るしかないのだ。
原発の大事故を想定して何百万人もが訓練するぐらいなら、原発自体が無い方が良い! 日本人がいかに訓練や演習が好きだとしても、そんな訓練はしたくないだろう。私も絶対に嫌だ。
原発のストレステストがどうのとか、そんなものは枝葉末節のことだ。「木を見て森を見ない」日本人は、何が基本的な問題なのか、訓練や演習にどういう意味があるのか、もっと根本に立ち返って考える必要がある。(2011年7月9日)

 

喫煙と肺がんは関係ないのか?

面白い記事を見つけた。原発の放射能問題などで有名な中部大学の武田邦彦教授が、「日本人が大人になるチャンス・・・タバコの危険性」と題して書いた記事だ。(末尾に記事をリンクしておく。)
題名から見て、武田教授はタバコの危険性を徹底的に論じているのかと思い、読んでみたら全くそうではないので驚いたのである。詳しくは末尾の武田教授の記事を読んでいただきたいが、私がまずそれを要約する形で紹介したい。
 
その記事によれば、この40年間ぐらいで、日本の男性の喫煙率は約8割から4割に激減した。また、女性は2割弱ぐらいで推移してきており、あまり変わっていない。ところが、驚くことに、肺がんによる男性の死亡者数は7倍以上に増え、女性の死亡者数も数倍ほど増えているのである。(記事のグラフを見てほしい。)
この40年間、日本の成人人口が急激に増えたわけではない。そうした中で、男性の喫煙者が8割から4割に半減したというのに、肺がん死亡者は7倍以上に急増したのである。また、女性の場合も、肺がん死亡者が急増した。
これは何を意味するか。確かにタバコは健康に良くないが、喫煙者が全体でかなり減っているのに、肺がん死亡者が激増していることは、データ上、喫煙と肺がんはほとんど関係ないということになる。いや、むしろ喫煙者が減ったことで、肺がんが急増したという“皮肉な結果”になっているのだ。タバコを吸わなくなると、かえって肺がんになるのか!? まさか・・・? これはあくまでもデータ上のことで異論はあるだろうが、それが現実なのである。
 
武田教授は次に、日本人の平均寿命が大幅に伸びたことと、年齢とガンにかかる比率について述べているが、年齢が高くなるとガンにかかりやすいことを指摘されている。(記事のグラフを見てほしい。)
これは全く予想した通りで、男性も女性も40代後半からガンにかかる割合が急激に伸びている。特に男性の場合は急カーブで上昇している。つまり、高齢化社会になればなるほど、ガン患者が増えるということだ。これには大方の人も異論はないだろう。
 
以上が武田教授の記事の概要だが、私はこれを読んで、喫煙が健康に良くないことは分かっているつもりだが、喫煙者が大幅に減っているのに、どうしてガン(特に肺がん)患者が急増しているのか理解に苦しむ。
高齢者が多くなっているから患者が増えるのは分かるが、40代後半からなぜ急激に増えるのか。喫煙とは関係なく増えているのではないか。食事その他、いろいろな要因があるのではないか・・・
考えても仕方がないので止めるが、この武田教授の指摘は重要だと思う。世の中はともすると、何でも決めつけたがる人が多い。何でも決めつければ、こんなに楽なことはない。しかし、そこに科学的な究明が必要だろう。
「原発は絶対安全」と決めつけられてきたが、3月11日以降、それは“神話”だということが分かった。したがって、喫煙と肺がんの関係ももっと徹底的に究明すべきではないのか。喫煙者が減っているというのに、肺がんが激増している事実をどう理解すれば良いのか。
以下の武田教授の記事を、ぜひ読んでいただきたいと願うものである。(2011年9月8日)
 
「日本人が大人になるチャンス・・・タバコの危険性」・・・http://takedanet.com/2011/09/post_26f1.html

 

住友化学とモンサント社の関係

ある方のブログにお邪魔したら、住友化学とアメリカのバイオ化学メーカー・モンサント社の関係を指摘した記事が載っていた。転載が出来ないため、そこにあった「永田町異聞」さんのブログ記事を以下に紹介しておきたい。(ある方のブログ・・・http://blogs.yahoo.co.jp/kaiserspecial/54190413.html#54190413
なお、モンサント社はベトナム戦争の際に、悪名高い『枯葉剤』を製造・供給したことでも知られている。(枯葉剤・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%AF%E8%91%89%E5%89%A4
 
<紹介記事>
★ 経団連会長、米倉弘昌率いる住友化学とその米子会社は、遺伝子組み換え農作物で知られるモンサント社との間で昨年10月20日、遺伝子組み換え農作物の種とともに、自社の製品を含む除草剤を米国内で売る契約を結んでいる。
モンサント社の除草剤「ラウンドアップ」は世界で最も売れている農薬だ。その威力はすさまじく、過剰に使用すれば雑草だけでなく、肝心な作物そのものまで枯らしてしまう。
モンサント社はこの農薬に耐える作物をつくる必要に迫られた。そこで考え出されたのが除草剤への耐性を持つ遺伝子を作物の種に埋め込む方法だった。すなわち遺伝子組み換え作物をつくり、除草剤とセットで売る仕組みである。
これにより、農家は空中散布などで大量に除草剤を撒くことが可能となった。省力化で人件費などのコストダウンがはかれるため、農業経営の大規模化にはきわめて都合がいい。
一方で、一度このシステムを採用した農家はモンサント社に依存せざるを得なくなる。農地は除草剤大量使用のためにいわば不毛の地になり、耐性のある遺伝子組み換え作物しかつくれなくなる。
麻薬のようなこの依存システムにこそ、モンサント社の快進撃の秘密があるわけだが、遺伝子を人間が操作してつくった農産品を食べ続けることや、環境、生態系への影響など、不安は尽きない。★
 
以上が住友化学とモンサント社の関係だが、この件については国会でも取り上げられた。新党日本代表の田中康夫衆議院議員が11月11日、TPP交渉参加に反対して以下のように政府を追及している。3分50秒あたりから聞いていただきたい。(2011年11月14日)
<参考>
モンサント社・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88_(%E4%BC%81%E6%A5%AD)

 

隠し子と出来婚

やや不謹慎な話になるかもしれないが、ご了解願いたい。
先日、文明が発達すると、少子化になるようだという記事を書いたが、ある方のコメントに対して「今ではあまり考えられないが、昔は“隠し子”が多かったと思う」といった返事を書いた。
ところが、それは間違いである。ウィキペディアの「隠し子」の項を見たら、今でも隠し子が多いこと、多いこと。なぜか私は安心した(笑)。 もちろん、私にはそういう子はいないが、子供は多い方が良いのだから。
以下、あまりに多いので敬称を省いて記したい。(ウィキペディアの「隠し子」記事・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%81%97%E5%AD%90
政治家では田中角栄、石原慎太郎、鳩山威一郎ら、芸能人では松方弘樹、ビートたけし、石田純一、七代目市川染五郎、宮根誠司ら、財界人では松下幸之助、堤康次郎らとなっているが、他にも大勢いるはずだ。 余談だが、カール・マルクスやスターリンにも隠し子がいたと出ている。
隠し子が悪いとか良いといった問題ではない。この世に生を享(う)けた人間はみな尊いのだ。  実を言うと、私の父親にも隠し子がいた。保険会社のサラリーマンでしかなかった父にもいたということは、昔はそれが何の不思議もなかったのだろうか。まして、財界人や政治家ら力のある富裕層にいても当然だろう。子供は宝なのだ。
私はここで、隠し子が増えれば良いと言っているのではない。しかし、嫡出子だろうと非嫡出子だろうと、人間には変わりがないのだ。法律的には隠し子は不利な立場にあるが、最近はだいぶ改善されてきたという。 私は法律に素人だが、より人道的な方向に進んでもらえば良いと思っている。「認知」がどうの遺産相続がどうのいった問題を論じるつもりはない。
無茶な言い方かもしれないが、こういうご時勢では、少子化を少しでも食い止めるためには、隠し子も大いに歓迎すべきだろう。 今や普通のサラリーマン家庭では、子供はせいぜい2人というのが限界なのだ。金持ちは“子づくり”に励めと言いたい(笑)。 上述の松下氏や堤氏らは多数の愛人との間に、何人もの隠し子がいたという。
 

袴田事件と死刑囚の人権

「疑わしきは罰せず」・・・これは刑事裁判の大原則である。ところが、これに反する裁判が数多く行われてきた。その結果、冤罪事件も少なからずある。
ここで取り上げる「袴田事件」も冤罪かどうかで長い間争われてきた。この事件は相当に有名なので知っている方も多いと思うが、1966年(昭和41年)6月、静岡県清水市(現在の静岡市清水区)で味噌製造会社の専務宅が放火され、焼跡から一家4人の他殺体が見つかったものである。
その結果、強盗殺人、放火などの容疑で元プロボクサーの袴田巌(はかまだ いわお)が逮捕され、静岡地裁の公判で1968年9月に袴田被告に死刑判決が下された。袴田被告は一貫して無実を主張し、その後も東京高裁、最高裁で公判が続いたが1980年12月に死刑が確定、翌年から再審請求が出されたものの請求はことごとく棄却され今日に至っている。

事件の経緯を述べると長くなるので止めるが、極めて疑わしい点が幾つもある。袴田死刑囚は逮捕後の取り調べでいったん犯行を自白したが、その後は一貫して無実を主張している。その取り調べも凄惨を極めたもので、末尾にその資料などを添付しておくが、私が言いたいのは別のことである。
死刑囚が40年も収監されているというのはどういうことか。刑事訴訟法475条には「死刑の執行は、判決確定の日から6カ月以内にしなければならない」と書いてある。ところが、袴田死刑囚は死刑が確定した1980年12月から28年も獄中にいるのだ。どうして死刑が執行されないのか。これこそ法律違反ではないか。
つまり、袴田死刑囚の場合、極めて「冤罪」の可能性が高いから執行できないでいると推察する。もし、私が法務大臣だったら絶対に死刑を命令しないだろう。それほど冤罪の疑いがあるからだ。法律違反と知っていても死刑の命令は出さない。

私はここで、法律通りにやれと言っているのでは勿論ない。いつ死ぬか分からず悶々としている死刑囚を、28年も収監していることが問題なのだ。死刑囚のまま獄中で死亡した者は少なからずいる。それは法務大臣の“違法行為”で生きながらえただけだ。
冤罪の可能性が高い死刑囚を、なぜ違法行為で延命させるのか。それならば、そこにルールを設ける必要はないのか。
例えば、死刑を執行できない状態が20年も続いた場合、死刑囚は解放されるといったルールだ。死刑囚はいつ死ぬかもしれないと、戦々恐々として日々を送っているかもしれない。あるいは、いつ死んでもいいと覚悟を決めているかもしれない。それは人それぞれだが、死刑執行の「直前状態」を28年も続けるというのは、いくらなんでも酷すぎる。誰が法務大臣になろうとも、袴田死刑囚の死刑執行を命令できないだろう。そういう状況を末永く続けようというのか。彼が自然死するまで続けるのか!

したがって、私は提言する。刑事訴訟法に違反してまで延命させた死刑囚は、判決確定後20年、ないしは25年経ったら釈放(解放)させるということだ。たとえ覚悟を決めた死刑囚でも、20年~25年も獄中に囚われているというのは、人道上許されないことである。人間の尊厳を冒涜するものである。

一つ最近の事例をあげる。大阪の小学校で児童8人を殺害した宅間守死刑囚は、法律通り、死刑確定後の6カ月以内の執行を訴えた。「6カ月過ぎても死刑執行をしないのは嫌がらせか。しばらく嫌がらせをしてから執行するのか。そんな条文があるのか。法律を遵守するのが法律家の仕事やろが」と主張、6カ月以内に死刑が執行されない場合は、『精神的苦痛』を理由に国家賠償請求訴訟を起こす準備をしていたという。
つまり、死刑囚にも「人権」はあるのだ。宅間のような男は証拠もなにも全てそろっていたし、自分から死刑を望んでいたから問題はない。しかし、宅間と違って証拠はいい加減だし、自白の信用性には欠けるし、一貫して無実を訴えている冤罪の可能性が極めて高い死刑囚を、なぜ28年も獄中に、しかも法務大臣の“違法行為”で閉じ込めておくのか! これこそ人道上許されないことである。
したがって再審請求とは別に、袴田巌死刑囚を直ちに釈放・解放すべきである。(2008年12月17日)

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4 コメント

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矢嶋さん、おはようございます〓。 (ブル)
2012-03-03 03:55:14
矢嶋さん、おはようございます。大変勉強になりました
おはようございます。 (矢嶋武弘)
2012-03-03 06:34:34
ブルさん、おはようございます。
昨日から過去の記事の移転を始めました。公開と非公開に分けてやるつもりです。
ご苦労様です!!。 (ブル)
2012-03-03 07:12:32
矢嶋さん、大変な作業ですね。ご苦労様です。Yahoo!ブログからのgooブログへの移行作業を楽しみにしています
移転作業 (矢嶋武弘)
2012-03-03 09:28:53
ブルさん、ありがとうございます。
削除され復元できない記事もありますが、かなりコピーしておいたのでまあまあです。
復元には時間がかかりますが、急ぎません。以前、ホームページからブログへ9日間で全記事を移転したことがありますが、今回はゆっくりやろうと思います。

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