矢嶋武弘の部屋

風林火山
日一日の命 日々新たなり

第1部・啓太がゆく(仕事と恋とレジャー・その4)

2017年07月12日 03時14分07秒 | 文学・小説・エッセー

そして、昭和41年・1966年を迎えた。国外ではベトナム戦争が激しくなり、アメリカ軍の北ベトナム空爆がいっそう拡大した。また、隣の中国では「文化大革命」という大衆運動が勃興してきたが、これは得体の知れないなにか不吉な予感を与えるものだった。しかし、日本国内は“ミニスカート”が登場するなど一見して平和でのどかな感じである。
そうしたある日、五代厚子と石黒からスキーに行こうという誘いがあった。また、同期の小出からもスキーの誘いがあったが、啓太は忙しさを理由に断った。忙しいだけでなくどうも乗り気がしない。みんなと行くのもいいが、自分だけの遊びがしたいという欲求がまた持ち上がったのだ。
啓太は再び○✕風呂へ通い始めた。今度は石浜らに覚られないように、ごく内密に行くようになったのである。一方、五代や石黒、小出らはスキーに夢中な様子だったが、ある日、彼らと談話室で雑談していると石黒が真剣な表情で言い始めた。
「この会社はやっぱり労働組合ができないと駄目だな。女子25歳定年制なんて古すぎるよ。ほかにも、労働環境を改善しなければならないことがたくさんあるんだ」
「まったく同感だ。こんなに古臭い会社だとは知らなかったよ。陣内社長は日経連出身だからな」
「わたしもそう思うわ。組合ができたらきっと良くなると思うの」
小出と五代が石黒に同調し、3人はなおも会社の古臭い体質を批判していった。そのうち小出が啓太に語りかけた。
「山本はどう思うの? この会社は古臭いだろう」
「うん、まあそういうことだな。でも、僕はあまり関心が・・・」

啓太があいまいに答えると、小出がさらに追及してくる。
「あまり関心がないというのか。それはおかしいよ。山本は将来 報道の記者になりたいんだろう? 記者を目指している者が、時代遅れの会社の体質を改善しようとするのは当然じゃないか。それとも、なにか不都合でもあるのか?」
「いや、不都合なんてないさ。ただ、僕はいま報道の仕事そのものに力を注いでいきたいだけだ。だから組合がどうのとか、そうした仕事以外のことにはあまり興味がないんだ」
啓太がそう答えると、石黒が横槍を入れた。
「組合が仕事以外だって? そんなことはないよ。労働組合は仕事に大いに関係してくるんだ。労働環境や待遇などの問題は、仕事がしやすいかどうかに係わってくる。そんなことは君も分かっているだろう。
ああ、そうか・・・君は石浜副部長に可愛がられているから、組合問題などに首を突っ込みたくないんだな。石浜さんは陣内社長の“子飼い”だそうだから。ハッハッハッハ」
「おい、違うよ。僕は石浜さんの仕事上の部下だが、そんな組合問題で何か言われたことなんてないさ。だいたい、労働組合の話など今まで聞いたことがないじゃないか。それとも、そういう話が出ているのか?」
啓太が逆に質問すると、石黒も小出も黙ってしまった。気まずい雰囲気が少し続いたが、五代厚子が口を開いた。
「そういう話はもういいでしょう。山本君は初めて聞く話よ。もっと楽しい話をしましょう」
厚子の言葉で話題はスキーなどの話に移った。啓太は一安心したが、労働組合結成の動きでも出ているのかと、内心はその方が気になる。しかし、組合問題には興味がないので、できればできたでその時考えれば済むことだと思った。4人は1年前、小出がスキーで脚を骨折した思い出などを語り合った。
あの時は啓太も病院に小出を見舞いに行ったが、ふと、彼の妹の順子のことが胸をよぎる。女子大生の彼女はいまどうしているだろうか・・・そんな想いが湧いてきたが、もちろん3人には話さなかった。 
談話室で会ったあと、啓太は彼らに以前よりよそよそしくなった自分を意識した。しかし、今日は厚子に話題を変えてもらって助かり、彼女への好意が蘇った気もしたのだ。
それから数日して、啓太は石浜副部長に呼び出された。
「君はこの前、談話室で仲間と組合のことで話をしていたそうだな」
「えっ、そんなことまで知ってるんですか?」
「ああ、筒抜けだよ。ハッハッハッハッハ」

そう言われて、啓太は談話室で誰かが話を盗み聞きしていたと思った。あの時の会話の声は大きかったようだ。しかし、今はそんなことを詮索しても仕方がない。組合問題で自分の考えをはっきり言うしかないのだ。
「たしかに労働組合について話し合いました。しかし、僕は今それに興味がないし、組合が実際にできた時でなければ何とも言えません。初耳だったからそういうことを言いましたよ」
「ふん、そうだろうな。君が組合に関心があるとは思えない。ただ、注意しろよ。組合をつくろうという動きがいろいろあるようだが、わが社はいま、労働組合どころの話ではない。後発テレビ局として四苦八苦しているところだよ。組合についてなにか動きがあったら、どんなことでもいいから教えてくれ」
石浜が釘を刺すようにそう言った。啓太はその場を引き下がったが、労働組合について石浜さんはだいぶ神経質になっているなと思った。それで思い出したが、陣内社長が以前、全社員を前に「わが社に不満を持つ人たちはTOKYO12チャンネルに移った」と言って、Fテレビには絶対に労働組合をつくらせないという意思を明らかにしたことだ。
だから、石浜副部長は陣内社長の意向に従って目を光らせているのだろう。一方、啓太が兄の国雄から聞いた話だが、労働界ではSEIBU鉄道とFテレビに労働組合を結成することが最大の眼目だという。それらのことを思い出して、啓太は会社を取り巻く環境がなにやら“キナ臭く”なってきた感じがしたのである。
しかし、彼にとってそんな話は大したことではない。日常生活では相変わらずドライブを楽しんだり、人目を忍ぶように○×風呂などの風俗店に通っていた。そんなある日、母の久乃が声をかけてきた。
「今の車はなんだか小さいわね。お父さんももっと大きな方がいいって言ってるのよ。考えてみない?」
そう言われて、啓太はこれはチャンスだと思った。今のコルト600はたしかに小型だ。もっと格上の車に換えたいと考えていたから、母にすぐに答えた。
「コルト600の上にコルト1100というのがあるんだ。今の車を下取りに出せば、そんなに費用はかからないと思うよ」
「そう、だったらそうすれば」
久乃の返事に啓太は決心がついた。コルト1100に買い換えることにしたのだ。

車の件は父の援助もありその後 順調に進んだが、2月の始めに啓太は恥ずかしい体験をした。というのは、番組制作班の女性職員を誘って喫茶室Fへ行っている間に、千歳空港発の全日空機が羽田空港着陸寸前に墜落したというのだ。報道部の中は大騒ぎになっていたが、番組制作班はニュースに直接 関係はない。
啓太はためらったが、今からドタバタしても始まらないと思いそのまま帰宅した。ところがその翌日、星野ディレクターが啓太を呼びつけもの凄い形相で怒鳴った。
「昨日はそのまま帰ったのか。君は報道部員だろう? 猫の手も借りたいぐらい忙しい時に、家に帰る奴がいるか! 君はそれでも報道部員か。反省しろ!」
星野の怒りに啓太は返す言葉がない。誘った女性職員がどうやら通報したようだ。啓太は「申し訳ありません。今後は二度とこういうことがないよう注意します」と謝り許してもらった。結局、この全日空機墜落事故は「さっぽろ雪まつり」の観光客ら乗客126人、乗員7人全員が死亡する大惨事となったのだ。(筆者注・ちょうど50年前の1966年2月4日に発生した事故)
上司に叱られて啓太は、もし大きな事故・事件が発生したら真っ先に現場に駆けつけようと決意を新たにしたが、まさか1カ月後にそれが起きるとは思いも及ばなかった。それはあとで述べよう。
そうしたある日、石浜副部長が啓太を呼んでこう伝えた。
「4月改編が近づいて、ドラマ制作部が人が足りないと言って困っている。短期間だが、ドラマ制作部へ行ってくれ」
「えっ? これは人事異動ですか?」
「まあ、そういうことだ。短い期間だよ」
「短いってどれくらいでしょうか?」
「それは分からない。相手の都合もあるからな」
突然の人事異動の内示に啓太は愕然とした。しかも、行き先は思ってもみなかったドラマ制作部である。

「全日空機事故の時、サボったことが異動の理由でしょうか?」
「ハッハッハッハ、星野君からその話は聞いたよ。しかし、関係ないね。それよりドラマ制作へ行ったら、労働組合をつくる動きがあるかどうか教えてくれ」
石浜はこの前と同じようなことを言った。
「分かりました。失礼します」
そう言って啓太は石浜と別れたが、異動の内示が出た以上は仕方がない。短期間だということを信じて、新しい部署へ移るしかないのだ。そう思いながら、彼は報道番組制作班で最後の仕事に集中することになった。 同僚の金森や三雲に内示の話を伝えると、彼らは少し同情的な素振りを見せた。まさか啓太がドラマ制作に関わるとは思っていなかったようだ。
「しかし、それもテレビ局の現場を知る上で大事なことだよ。そういう経験が将来、きっと役に立つと思うけど」
三雲が啓太を慰めるように言った。いろいろな職場を体験することは、たしかにテレビ局員にとってプラスにはなるだろう。それは分かっているが、やはり割り切れない気持になるのだった。しかし、人事異動の発令が3月10日に決まると、啓太はかえって気楽な感じになった。開き直った気分になったのである。
そうしたある日、全日空機墜落事故で亡くなった1人のスチュワーデスについて、大宅壮一さんが「とても良い娘(こ)」だと言って嘆いた。彼女とは事故の数日前に同じ空路で顔見知りになったというのだ。ところがそれからしばらくして、大宅氏は病気だった最愛の息子を亡くし非常に悲しがっていた。33歳で他界した息子は歩(あゆむ)さんと言って脳に障害を抱えていたという。
それらのことが啓太にとって印象的だったが、その頃ちょうど母校のWASEDA大学が、学費値上げ反対闘争で大混乱に陥ったのも忘れられない。学生が大学本部などを占拠、警官隊が出動して多数の逮捕者を出したりしたが、啓太は気が気でなく大学を見に行ったりした。Fテレビと母校のある高田馬場は近かったからだろう。
学費値上げ反対闘争はその前年、KEIOH大学でも大騒動になり学生運動を大いに盛り上げた。そうした動きがやがて70年安保闘争へと発展していったのだろう。(筆者注・今はそうした学生たちの燃え上がるような闘争がないのは、どうしたことか!?)
話が少しそれたが、啓太がドラマ制作部へ移る直前、未曽有の「航空機2日連続遭難事故」が発生した。

その日は3月4日だった。啓太が番組制作班で仕事をしていると、夕方頃になって羽田空港で飛行機が墜落、炎上しているとの第一報が入った。その途端、啓太はすぐにニュース報道班へ行き、自分が羽田へ取材に行くことを申し入れた。報道班では夕方のニュースの追い込みで人手が足りず、すぐに啓太を事故現場へ行かせた。
こうして彼は羽田空港へ直行したのだが、それにはもちろん1カ月前の全日空機墜落事故を見て見ぬふりをした“汚名返上”の決意が秘められていた。啓太が羽田空港に着くと、飛行機は墜落したのではなく、着陸に失敗して防潮堤に激突し炎上していたのだ。必死の消火作業で火はくすぶってきたが、黒煙が凄い勢いでもうもうと立ちこめている。中の乗客らはどうなったかまったく分からない。
啓太はこれらの模様をモトローラの携帯電話で逐一会社に伝える一方、カメラマンが“フィルモ”で事故現場を撮影していく。そうしているうちに、報道中継車が現場近くに到着した。中に先輩の記者が乗っており、彼がリポートをするのだ。こうしてその夜から翌朝にかけて、啓太は現場の状況を取材したり、報道中継の仕事を徹夜で取り仕切った。
炎上した飛行機はカナダ太平洋航空のDC8型ジェット旅客機で、乗客・乗員72人のうち64人が死亡した。事故の原因は“濃霧”による視界不良で操縦を誤ったものだという。そして、翌日の午前中に交代の報道部員が来ると、啓太はようやく取材や中継から解放された。
彼がへとへとに疲れて会社に帰ると、さすがに口の悪い先輩デスクらも「ご苦労さん」と声をかけてくれた。番組制作班に戻ると、1カ月前は啓太を怒鳴りつけた星野ディレクターが、ニコニコ笑いながら今日は帰宅しろと言ってくれた。それではお言葉に甘えてとばかりに、啓太は家路についたのである。やや心残りだったが、1週間後には異動で番組制作班を離れるから気は楽だった(笑)。
こうして彼が帰宅すると、母の久乃も「大変だったわね」と声をかける。すぐに風呂に入ってから食事をし、啓太はぶっ倒れるように床についた。やれやれ疲れたな~、これで“名誉挽回”につながったのかと良い眠りに入る・・・ ところが、しばらくして久乃の声で目が覚めた。
「大変よ。また飛行機が落ちたんだって」
えっ、また飛行機が墜落したって!? 本当か。半信半疑で起き上がるとテレビをつけた。すると、画面に『BOAC機、富士山付近で空中分解して墜落』という字幕スーパーが出ていたのだ!

啓太は唖然とした。2日続きで航空機の遭難事故が起きるなんて信じられない。日本の空は呪われているのか、それとも魔物に憑りつかれているのか・・・ しばし、そんなことが脳裏に去来したが、ぐずぐずしてはいられない。すぐ会社に駆けつけなければならない。
啓太はまず電話をかけようかと思ったが、昨日からの徹夜の激務を理由に「断られる」ことも予想した。それなら意地でも会社へ行くことを最優先にしようと、家を飛び出し電車に乗った。国鉄・市ヶ谷駅からタクシーに乗り換え1時間あまりでFテレビに着くと、ニュース報道班の稲垣デスクが笑みを浮かべながら迎えた。
「やあ、ご苦労さん、そんなに無理をしなくてもいいのに。現場にはもう何人か行ってるから、君はしばらく休んで帰っていいよ。昨日も徹夜だったんだろ?」
稲垣の言葉に啓太はホッとしたが、すぐに帰るわけにもいかず番組制作班の席に戻って待機した。異動が近いので不要な物などの整理をしていたが、結局、この日は事故関連で取材に行くような仕事は入らなかった。ようやく帰ろうとしていると、川崎ディレクターと三雲大輔がやって来て話しかけてくる。
「君の簡単な送別会をやろうと思う。あまり日にちがないが、いつがいいのかな?」
送別会と聞いて、啓太は少し嫌な感じがした。希望してドラマ制作部へ行くわけではないし、いずれ近いうちに報道に戻るつもりなのだ。
「いや、いいですよ。石浜副部長も“短い期間”だと言ってくれてますから、そんな送別会なんか・・・ もう、帰ってこれない感じじゃないですか」
「アッハッハッハ、いちおう形だけの送別会だよ。あまり気にしないで」
川崎がそう言うので、啓太は気が進まないが応じることになった。3日後に数人で“送別会”を開くことにして、彼は帰宅したのである。 ところで、BOAC・英国海外航空のボーイング707機の遭難事故は結局、乗客・乗員124人全員が死亡する大惨事となった。事故原因は富士山付近の乱気流に飛行機が巻き込まれ空中分解したのだという。
2日連続の航空機事故で多くの犠牲者が出たが、啓太にとっては皮肉にも、1カ月前の“汚名”を返上する又とない機会になったのである。

<参考>2日連続の航空機事故の映像→ https://www.youtube.com/watch?v=rp2hqiPbXYg

その翌日だったか、久しぶりに五代厚子から啓太のデスクに電話がかかってきた。
「山本君、ご苦労さま。いろいろ大変だったわね。航空機事故よりも、あなたの異動には驚いたわ。どうして、ドラマ制作部に移るのかしら?」
一瞬 啓太は返事に困ったが、やり返すように答えた。
「どうしてって、僕の働きが悪いからですよ。それ以外に考えられないでしょ!」
「フフフフ、そう怒らないで。ねぇ、昼休みに談話室でお話しましょう」
「2人だけで?」
「あら、2人では駄目?」
「そんなことはないけど・・・」
「じゃ、12時半に待ってます」
厚子のペースで決められた感じだが、電話を切ると啓太は彼女との久しぶりの会話にくつろぎを覚えた。最近は“よそよそしく”していたが、こうして電話がかかってくるとなぜかホッとする。
啓太は早めの昼食を済ますと、3階の談話室へ向かった。ここにも最近はほとんど来ない。それだけ仕事に集中していたのか? いや、単にその機会がなかったせいだろう。以前は厚子や江藤知子、石黒や小出らとしょっちゅう会っていたのだ。談話室が懐かしくさえ感じる。彼がそこに入ると、厚子が窓際のソファーに座って待っていた。
「やあ、こんにちは。久しぶりですね」
啓太が声をかけると厚子がにこっと微笑んだ。彼女の笑顔を見るのも久しぶりだ。なにか新鮮な感じさえする。それから2人はたわいない話を続ける・・・ドライブやスキー、友だちの近況や仕事のことなど。そのうち、厚子は啓太を見据えるようにして話しかけてきた。
「山本君はわたしのことをどう思って?」
前にも聞かれた質問だ。どう思うって・・・『別に』と答えるのは良くないな。啓太は少し戸惑ったが正直に答えた。
「悪くは思ってませんよ。いや、“心良く”思ってます」
とたんに、厚子の表情が苦笑いに変わった。
「そう・・・そうなの」
彼女は明らかに失望したようだ。

それでも気を取り直したのか、厚子が話を続けた。
「ドラマ制作部へ行くなんて思ってもみなかったわ。山本君はよく動くのね」
「仕方がないですよ。4月改編で人が足りないって言うんだから。まあ、短い期間でしょう」
啓太はありきたりの返事をしたが、やはり報道を離れることは寂しかった。厚子の方もそれはよく分かっていたようで、2人は今度はFテレビのドラマなどについて雑談を交わしたが、やがて時間が来たので談話室を後にした。別れぎわに彼女が声をかけてくる。
「また報道に戻ってね」
「ありがとう。みんなと一緒にまた会おうよ」
啓太は素直に答えたが、厚子への親しみを久しぶりに感じる気がした。
その2日後、川崎と三雲、金森が四谷三丁目の居酒屋でささやかな送別会を開いてくれた。3人の話を聞いていると、石浜四郎副部長がどうやら報道部長に昇格するということだ。間もなく人事が発令されるが、石浜の昇格は誰もが当然と思っているのではないか。
彼は陣内社長のいわば“ふところ刀”であり、報道全般に強い影響力を持っていたから、啓太も石浜の報道部長就任は成るべくして成ったと受け止めていた。まだ内示の段階だが、2日後には正式の発令となる。自分はドラマ制作部へ移るが、報道に戻るには石浜が最大の頼りとなるはずだ。
そんなことを考えていると、以前、石浜から労働組合結成の動きがあったら知らせてくれと頼まれたことを思い出した。彼は陣内社長の指示を受けているのだと啓太は思ったが、そんなことは今の自分にはほとんど関係ない。新しい職場で思いっ切り頑張るしかないのだと自分に言い聞かせた。

それから2日後、3月10日に正式な人事発令が出た。啓太はドラマ制作部へ異動、また石浜は報道部長に就任した。啓太はすぐにドラマ制作部の杉浦泰造部長に挨拶に行った。
「山本君か、よく来てくれた。いろんなことをやってもらうが、しっかり頼むよ」
杉浦部長は太った体を揺するようにして、愛想よく啓太を迎えた。眼鏡の奥で細い目が笑っている。
「ドラマ制作部は5つの班に別れているが、それを6班に増やそうと思っている。そうでないと、4月改編に対応できないんだ。君は“遊軍”みたいにそれぞれの班を手伝って欲しい。細かいことは総括デスクの伊藤君に聞いてくれ」

啓太は軽く会釈してその場を離れた。ドラマ制作部は社屋3階の広い大部屋にあり、その他のセクションと混在している。編成部やアナウンサー室などもここにあり、いわばFテレビの中核と言ってもよいフロアーである。
伊藤総括デスクはたまたま不在だったので、啓太はいったん地下1階の社員食堂へ行き軽い昼食を取った。そのあと、1階の幾つかのスタジオを見て回ったが、なんとなく寒々とした気分になった。何もないスタジオはただがらんとして“殺風景”である。事実、3月というとまだ気温も低く冷気が漂っているのだ。啓太は身が引き締まるような気がしてきた。
ようやくセットがあるスタジオに入ると、ドラマのカメリハ(カメラ・リハーサル)の準備なのか、何人もの人が出たり入ったり忙しくしている。よく見るとスタジオの隅で、テレビでお馴染みの俳優らもスタンバイしている。ここはあまり長居できないので啓太は外に出た。再び3階のドラマ制作部に戻ると、総括デスクの席に伊藤らしき男が座っていた。小柄で痩せているが、眼光が鋭く精悍そのものといった風貌である。
「伊藤さんですか? 山本です。杉浦部長から聞いてやって来ました」
啓太が挨拶すると、伊藤も軽く会釈してすぐに話し始めた。
「山本君か、よろしく。部長から聞いたと思うが、どんな仕事も手伝ってほしい。雑多な仕事がほとんどだが、ディレクターの指示に従ってやってほしいんだ。つまりAD(アシスタント・ディレクター)ということだな」
「はい。それは分かりますが、まず何をやればいいのですか?」
「うん、まず第3班のADをさっそくやってほしい。ディレクターは及川君で、いま『若人たち』のドラマを担当している。君も『若人たち』は知っているだろう?」
伊藤に言われるまでもなく、啓太はそのドラマを知っていた。『若人たち』は若者の評判が良いドラマだが、報道にいる時はたまにしか見たことがなかった。
「分かりました。さっそく第3班へ行ってきます」
啓太がそう言って立ち去ろうとすると、伊藤がつけ加えた。
「あ、そうそう。これからは背広でなく、もっぱら“作業衣”を着ていた方がいいよ。ドタバタした現場の仕事ばかりだからな。ハッハッハッハ」
伊藤がようやく打ち解けた口調で話したが、啓太はこれ以降、会社の仕事服を着るなどラフな格好ばかりするようになった。

伊藤と別れて1階の第5スタジオへ向かう途中、廊下で江藤知子とばったり出会った。啓太が声をかける前に、彼女の方が先に口を開く。
「あら、山本君、元気にしてるの? ドラマ制作へ移ったんだって?」
「ああ、そうだよ。知子はどうなの?」
「わたしは相変わらずよ。ご覧のとおり」
「結婚生活も順調なのか。君は元気でいいな~ 僕はドラマなんて初めてだから、どうなるか分からないよ」
「しっかりやりなさい。ドラマも報道も忙しさは同じよ」
「うん、そうだな。知子の顔を見たら、なにか元気が出てきたみたい」
とたんに知子が笑い出した。彼女はこれからアナブースでCMを読むというから別れたが、同期の女子アナに励まされて、啓太は悪い気がしなかった。彼女とはいろいろあったが、今は懐かしい思い出である。気を取り直したように啓太は第5スタジオに入った。しかし、誰もいなくて『若人たち』のセットがあるだけだ。
すぐに狭い階段を上って2階のサブ・副調整室へ行くと、眼鏡をかけた小柄な若い女性が椅子に座っている。タイムキーパーのようだ。
「山本だけど、みんなはどうしてるの?」
「今日はロケです。帰りは何時になるか分かりません」
啓太の問いに彼女はそれだけ答え、あとはうつむいて何やら調べものをしているらしい。
「君はタイムキーパーなの?」
「ええ、長谷川と言います」
「ロケってそんなに遅くなることがあるのかしら」
「ええ、いつもだいたいそうですよ」
啓太は呆れた。それではあまり予定が立たないではないか。制作現場は時間が不規則だとは聞いていたが、報道の現場とはあまりに違う。これで明日の放送に間に合うのだろうか・・・ 仕方がないので啓太は長谷川という女性と適当に雑談を交わしたり、Fテレビ前の喫茶店に出かけたりして時間をつぶした。
やがて夜も更けたころ、ドラマ制作第3班のチームがロケから帰ってきた。啓太はすぐに及川ディレクターに挨拶したが、彼は忙しそうに立ったり座ったりしている。だいぶ時間がたって、及川は啓太に声をかけてきた。
「山本君、明日はフロマネ(フロア・マネージャー)をやってくれ。今日はもうお開きだ」
そう言うと、彼は啓太より少し先輩のAD2人を連れて別室に姿を消した。

フロマネとはフロア・ディレクター(FD)と同じ意味である。スタジオのすべての“雑務”を担当するので最もせわしない役目だろう。その日は終わりということで啓太は帰宅したが、明日はどうなるか気が気でなかった。
翌日、少し早めの朝食を取ると、啓太は替え上着にノーネクタイのラフな格好で出社した。そして3階のロッカー室で作業衣に着替え待機していると、総括デスクの伊藤が姿を現わした。
「やあ、おはよう。君は今日から第4班のADをやってくれ。ディレクターは岡山君だ。『まためぐり合う時』というドラマをつくっている。スタジオは6スタだよ。その前に、リハーサル室で“本読み”などをやるはずだ。よろしく」
伊藤は来るなりそう言ったので、啓太はびっくりして聞き返した。
「5スタで『若人たち』をやるんじゃないですか? そう言われたのに」
「いや、第4班が人が足りなくて困ってると言ってるんだ。手伝ってほしい」
伊藤はそれだけ言うと、忙しそうに社内電話の受話器を取り上げ誰かと話している。啓太は岡山ディレクターが来るのを待つしかなかった。やがて岡山が現われたが、彼は柔和な顔立ちのスタイルのよい男だった。
この人が岡山太郎さんかと啓太は思ったが、彼は昼のメロドラマで高い視聴率を取り一躍名をあげたディレクターである。その名前から“アップの太郎”と呼ばれていたが、アップとは顔などの被写体を大きく映すことだ。
「山本です。いま、伊藤さんから第4班のADをやれと言われました。よろしくどうぞ」
「岡山です、よろしく。今日は午後1時から本読みをするから頼みますよ」
岡山はそう言うと、一呼吸おいてドラマの内容の説明を始めた。『まためぐり合う時』はロマン・ロランの小説『ピエールとリュース』を日本風にアレンジしたもので、かつて『また逢う日まで』という映画で有名になった。特に窓ガラスを挟んだキスシーンは大きな話題を集めたものである。
啓太は作家の中ではロマン・ロランを最も尊敬していたので、岡山の説明を熱心に聞いていた。実は彼は学生時代にフランス文学を専攻し、卒業論文はロマン・ロランの文学と思想をテーマにしたのでなおさらであった。もちろん『ピエールとリュース』は読んで感動した覚えがある。
「主役は誰がやるのですか?」
啓太はいちばん興味のあることを聞いた。
「ピエールは蔵原(くらはら)圭一、リュースは吉永ゆかりだよ」
主役の名前を聞いて、啓太は電気ショックを受けたように驚いた。

吉永ゆかりといえば人気ナンバーワンの若手女優ではないか。また、蔵原圭一は最近にわかに脚光を浴びてきた新進の映画俳優である。しかし、啓太は吉永が大好きで自称“ユカリスト”だが、蔵原は青白く神経質な感じがして好きになれなかった。彼はどこか“病的”な感じがするのだ。
ユカリストだから驚いたのだが、少し専門的なことを岡山に聞いた。
「原作はピエールとリュースが最後に一緒に死ぬのですが、『また逢う日まで』は違いますね。男と女が別々に死にますが、今度のはどんな死に方をするのですか?」
「君はずいぶん具体的なことを聞いてくるね。今度のは一緒に死ぬということだよ」
岡山はいぶかしげな目付きをして答えた。
「それは結構ですね。ロマン・ロランの原作どおりが一番よいと思いますよ」
啓太はそう言ったものの、たかがADの分際で少し出過ぎたかと反省した。しかも第4班に配属されたばかりである。しかし、彼はロマン・ロランを深く尊敬しているので、原作どおりになることを心から願っていたのだ。これで『まためぐり合う時』に取り組む意欲がいっそう湧いてきた。
すると、岡山がさらに続けた。
「本当はピエール役の田島三郎に加山剛(ごう)君を起用したかったが、彼はいま『四匹の侍』で忙しくて諦めたんだよ。でも、蔵原圭一君なら本来のピエールにとても似合ってると思うよ」
「僕もそう思います。蔵原さんならぴったりでしょう」
啓太はそう答えたが、岡山が言った加山剛はFテレビの人気時代劇ドラマ『四匹の侍』で多忙なのだそうだ。しかし、蔵原圭一なら弱々しく神経過敏なピエールにそっくりだろう。そう思っていると、岡山がまた口を開いた。
「実は蔵原君はダイエー映画社を辞めてテレビに出ることになったんだ。テレビドラマに出たいと言ったら、ダイエー側はかんかんに怒って蔵原君をクビにしたというわけだ。映画会社は怖いね」
「例の“五社協定”というやつですか?」
「うん、そうだ。テレビを目の敵(かたき)にしてるからね」
岡山の話を聞いて、啓太は映画会社も必死だということが分かった。五社協定は俳優などの引き抜きや貸し出しを禁じようというもので、テレビに対抗する映画会社のいわば“防衛策”なのだ。
「いや、参ったよ。吉永君の場合も、ニッカツ映画社が出演見送りを申し出ている。彼女はもう“フリー”なんだよ。フリーなのにどうしてニッカツがそんなことを言うのか・・・」
「えっ? 吉永ゆかりもですか」 
岡山の話に啓太は唖然とした。

「そうなんだ。ニッカツ側はいま吉永と専属契約を結ぼうと交渉中だから、テレビ出演は認められないと言い張っている。しかし、そんなことに関わっていたらドラマづくりは遅れるばかりだから、撮影は続けていくよ。ニッカツとの話し合いは編成局長に任せているんだ」
岡山の話を聞きながら、啓太は2年前、吉永ゆかりがJALの新しい路線のテスト飛行に試乗するので乗らないかと誘われたことを思い出した。あの時はなぜか急に怖くなって上司からの誘いを断ったが、ニッカツとの交渉の話を聞くと彼女は今や“注目のスター”になっているなと実感したのである。
吉永は本名を「吉永由香里」と言うが、これではあまりに硬い印象があるので、ニッカツ映画社が「吉永ゆかり」として売り出した。それは当然のことで、あの“歌姫”として有名な美空ひばりも本名は加藤和枝だった。それが「美空和枝」になり「美空ひばり」に変わって親しみやすくなったのだ。そんなことを考えていると、岡山がさらに続ける。
「ドラマはもう半分は収録済みだ。しかし、放送の予定日が立たないんだな。こんなことを言っても君には関係ないのだが、実情はそういうことだと理解してほしい」
初対面の“駆け出し”のADに対して、岡山は丁寧に説明をする。啓太はそういう彼の態度に次第に敬愛の気持が湧いてきた。ふつうのディレクターは、初対面の下っ端に対しそんなに懇切丁寧に説明する人は少ない。岡山の人柄なのだろうか。2人はなおも雑談を交わしていたが、蔵原圭一のことで岡山が笑いながら話し出した。
「蔵原君は吉永ゆかりが大好きなようだな。大変なユカリストだよ。だから、ダイエーと縁が切れてもこのドラマに打ち込んでいるんだ。今に君にもいろいろ分かると思うよ。ハッハッハッハ」
岡山ディレクターとの雑談が終わると、啓太は地下1階の社員食堂で早めの昼食を済ませた。そして、20冊以上の台本を持って2階のリハーサル室へ行き“本読み”の準備を始めた。すべて岡山の指示どおりである。
ADには啓太より何年か先輩の西尾、植木の2人がいたが、それぞれ役割分担がある。西尾はおもにディレクター直属の助手であり、植木はロケの設定や交渉などを担当していた。啓太はいわば「第3AD」といった立場で、その他のすべての雑務を担当する。したがって、リハーサル室に入ると机や椅子の配置はもちろん、弁当やお茶の手配、電話番など雑用をすべてこなすのだ。
1時前になると、関係するスタッフが部屋に入ってきた。やがて吉永ゆかりや蔵原圭一らキャストも顔をそろえたが、彼女を一目見て啓太はその輝くばかりの美しさ、可愛さに衝撃を受けた。まるで“天女”である。映画では吉永を何度も見たことがあるが、こうして眼前で会うのは初めてなのである。この時、彼女は21歳だった。

蔵原圭一はというと、青白い顔をして神経質そうに周囲に目をやっている。彼は25歳だから啓太よりも1歳年上だ。大学を卒業してある劇団に入ったが、すぐにダイエー映画社の俳優に転身したのだ。華奢(きゃしゃ)で病的な感じのする男だなと啓太は思った。
技術や美術の新しいスタッフもいるので、みんなが挨拶を交わした。啓太も挨拶し吉永ゆかりの視線を感じて少し緊張したが、彼はこれは「仕事」だと自分に言い聞かせた。JALのテスト飛行に彼女と同乗しなかったのは「仕事」でなかったからで、今は「仕事」なんだとしつこく自分に言い聞かせた。「仕事」だから逃げてはならないのだと。
こうして“本読み”が始まり、岡山ディレクターが俳優らのセリフなどにいろいろ注文をつけていく。このあと、机や椅子、つい立をセットに見立てて簡単な立ち稽古が行われた。3時間ぐらいたっただろうか、啓太は食堂からコーヒーと紅茶を取り寄せ、ポットを持ってキャストやスタッフに配って歩いた。
吉永ゆかりにおずおずと尋ねると、紅茶がいいと言う。先ほどは“天女”のように見えたが、近づいて話すととてもハキハキしていて、ざっくばらんな感じがする。蔵原圭一はコーヒーを注文したが、まったく不愛想なので啓太は不愉快な気分になった。この日の本読みが終わると、啓太は先輩のAD・西尾と喫茶室Fへ行った。
「ご苦労さん、疲れたろう。君はよくやっていたよ」
西尾がねぎらいの言葉をかけてくれたので、啓太はほっとした。このあと、啓太は先輩からいろいろ話を聞いたが、ドラマ制作部は番組が増えて大変だというのだ。4月改編でバラエティ番組まで担当するので、啓太の先任ADはそちらへ異動した。いずれにしろ、人手不足で四苦八苦の状態なのだ。また、岡山ディレクターについて西尾はこう言った。
「岡山さんはBUNKA放送の出身だよ。僕はNIPPON放送にいたが、彼は人の意見をよく聞いてくれるね。その点はとても助かるんだ」
さらに啓太が、蔵原圭一は暗くて嫌な感じがすると述べると、西尾が答えた。
「蔵原は学生時代に全学連の活動もやっていたが、挫折して転向したそうだな。その辺から彼の性格が暗くなったらしい」(続く)

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