矢嶋武弘の部屋

すばらしい出来事、すばらしい人物などに文章を捧げる
われ「記す者」なり

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2017年09月12日 04時00分54秒 | 過去の記事

大杉栄とアナーキズム

1) 近代日本で、印象に残る人物は多士済々である。 明治維新以降、日本は実に多くの人材を輩出してきた。どの分野にも、優れた日本人が登場してきた。 その中で、最も印象に残る人物の1人として、私はアナーキスト・大杉栄を挙げたいと思う。
  大杉栄は歴史上、大したことをやった人物ではない。 日本のアナーキズム(無政府主義)運動のリーダーだったというだけである。従って現代では、ほとんど忘れ去られてしまった人物と言ってよいだろう。 しかし、その強烈で豊かな個性と自由奔放な精神は、近代日本の中に燦然と輝いていると、私は今でも思う。
  大杉が近代日本史上で有名になっているとすれば、大正12年(1923年)9月の関東大震災の直後、妻の伊藤野枝と共に憲兵大尉・甘粕正彦らによって虐殺されたことぐらいだろう。 いわゆる「甘粕事件」は、当時としては大変なニュースだった。(注・この事件は、甘粕大尉が犯したものではないという異説もある) それ以外に、大杉は今ではほとんど知られていない。
 
2) ここで個人的な話しをして恐縮だが、私が大杉栄を知ったのは、もう50年ほども昔の大学1年の夏であった。 当時はいわゆる「60年安保闘争」の直後で、私は過激な極左マルクス主義の団体に所属していたが、あるアナーキストから大杉栄の著作を読むよう勧められた。
  最初に読んだのが大杉の「自叙伝」と「正義を求める心」だったと思うが、読み始めてから私は、大杉の自由奔放で何ものにも拘束されない革命精神、その生き方、自由な恋愛遍歴などに驚嘆してしまった。 それまで知っていた日本の革命家には、まったく見られない異質で、魅力的な革命家だったのである。
  それから手当りしだいに大杉の著作を読んでいったが、詳しい内容の説明は控えるとして、大杉の「生の拡充」を基本とする、反逆と革命の精神に深い感銘を受けたのである。 そこには何ものにも捕われない“自由”があった。そして、生の人間の“叫び声”があった。 これほどまでに肉声が伝わってくる革命家を、私は他に知らない。
  4ヵ月間ほど、私は完全に大杉栄の“虜”になった。彼に心酔しきってしまったのである。 勿論、私は他のアナーキズムの文献も読んだが、大杉の著作を機にマルクス主義から脱却することができた。 私から見れば、マルクス主義よりアナーキズムの方が、はるかに人間を“大切”にし、自由を“尊重”していると理解したからである。
 
3) 知らない人も多いと思うので、ここで大杉栄の人生をごく短く紹介したい。 彼は明治18年(1885年)、香川県の丸亀に陸軍軍人の長男として生まれた。軍人の子として生まれたことは、最後に軍部に虐殺されたことに深い因縁めいたものを感じる。(後に軍部は、彼を“獅子身中の虫”として憎悪するようになる)
  帝国軍人を目指して、名古屋の陸軍幼年学校に入るが、学科実科ともに極めて優秀な成績であったものの操行が悪く、校友との決闘がもとで放校処分となる。 この後、東京に出て外国語学校に入るが、その間に、幸徳秋水らの影響を受けて社会主義運動に参加するようになった。時に大杉、19歳の年であった。
  彼はすぐに電車運賃値上げ反対闘争に参加し、逮捕されて入獄する。 そこから、大杉の波乱万丈の人生が始まるが、何度も投獄されるうちに、明治43年「大逆事件(天皇暗殺未遂事件)」が起こり、社会主義運動の最大の指導者・幸徳秋水が処刑されてしまう。
  この後、獄中から出てきた大杉らが中心となって、大正時代の社会主義運動をリードしていくことになる。 世に“冬の時代”と言われた逆境の中から、大杉は社会主義の啓蒙を手始めに着実に運動を進めていくのである。
  やがて、彼の思想はアナーキズム(無政府主義)を鮮明に打ち出すようになり、マルクス主義と対立していくが、労働運動とは密接に協力するようになり、大正9年(1920年)には「日本社会主義同盟」の結成に指導的な役割を果たした。 この時点で大杉は、まぎれもなく日本の社会主義運動の第一人者となっていた。時に大杉、35歳の年であった。
  同じ大正9年には、上海で開かれた「極東社会主義者会議」に、あらゆる危険をはねのけて単身で出席、日本を代表する形で新生・ソ連邦の代表と渡り合った。 この頃からボルシェビキとの対決を強め、帰国後は「アナ・ボル論争(アナーキズム対ボルシェビズム)」の立役者となる。
  そして、大正12年(1923年)、大杉は「国際無政府主義者大会」に出席するためパリに行く。メーデーに参加してアジ演説をぶったが、フランス警察に検挙され日本に強制送還された。 帰国後、9月1日「関東大震災」発生。 戒厳令の下、軍部の手によって9月16日虐殺されたのである。38歳であった。
 
4) 大杉の人となりは、実に魅力に富んでいたらしい。 彼は自由恋愛を主張してそれを実践していたが、女性には非常に持てたようである。 妻の堀保子の他に“新しき女”神近市子、人妻の伊藤野枝と四角関係を持ったが、これがもつれて嫉妬に狂った神近に、刃物で刺されるという事件が起きてしまった。(世に言う「葉山日蔭茶屋事件」。大正5年)
  この事件は当時のマスコミの格好の餌食となり、大スキャンダルとして天下に報道された。 こうした不倫痴情事件から、“アナーキスト”大杉栄を見限って離れていった同志も多い。 結局、大杉は妻と別れて伊藤野枝と契りを結ぶことになった。
  大胆不敵な行動も数限りない。 一例として、葉山日蔭茶屋事件の少し前だが、運動の資金がなくなった大杉はある人を介して、こともあろうに時の内務大臣・後藤新平に会い、「金がないから、くれ」と言って300円(当時としては大金)をせしめてしまった。
  社会主義運動のボスが、それを取り締まる側の最高責任者から、金をふんだくるとは常識では考えられないことである。 大杉は痛快だったろうが、“大風呂敷”と言われた後藤新平には、これで危険な社会主義運動を、少しは懐柔しようという思惑があったのかもしれない。 それにしても、大杉の“大物”ぶりを示す話しである。
  大杉の破天荒な話しから入ってしまったが、明るく素晴らしい面も紹介したい。 彼は若い頃「一犯一語」といって、1回投獄される度に外国語を1つずつ覚えていくという離れ技を持っていた。 これによって、6カ国語以上はマスターしたはずである。語学の天才だったのだろう。
  ファーブルの「昆虫記」を初めて邦訳し、ダーウィンの「種の起源」も翻訳した。クロポトキン全集を邦訳し、ロマン・ロランの「民衆芸術論」まで訳している。 また、エスペラント語の推進にも寄与していた。 多忙な社会主義運動を繰り広げ、いつも投獄されていたにもかかわらず、これは大変な文化的業績であり感嘆すべきことである。
  大杉は、生来「吃り(どもり)」だった。特に「カ行」の発音が苦手だった。 これによって、彼は少年の頃から非常に苦しんだようだ。 おそらく彼の胸中には、吃りによるコンプレックスが沈殿していたはずである。 しかし、外国語を話す時は、実になめらかに口がまわったという。 そういう意味でも、彼は根っからのコスモポリタン(世界人・国際人)だったのだ。
  同志のある人が、大杉のことを「杉よ、眼の男よ」と詠んだ。 写真でも分かるように、大杉の目はいつも大きく見開かれていたようだ。 その大きな目が同志をも、女性をも、労働者をも、民衆をも魅了したに違いない。
 「大正デモクラシー」「大正ロマン」の中で、この男は光彩を放ち、“天馬空をいく”ように思想を広め発展させ、生の闘い、生の拡充を実現していった。このような男は、二度と再び現われないだろう。 大杉栄の魅力とはそういうことである。
 
5) 歴史上、大杉の業績などというものは、ほとんどないに等しい。 織田信長が近世を切り開いたような、また坂本龍馬らが近代の扉を押し開けたような実績はない。 彼は明治末から大正時代にかけて、社会主義運動を繰り広げただけに過ぎない。
  しかし、大杉が自ら切り開き創造してきたアナーキズムは、今後も生き続けるだろう。 何故なら、その思想は極めて“人間本位”のものだからである。 勿論、アナーキズム自体は歴史上、失敗を繰り返してきた。そして今や、一部の人達を除いて何の価値も見出せないものとなっているだろう。
  私自身も、アナーキズムを乗り越えて、より実在の人間に根差した思想に進化したと勝手に思い込んでいる。 しかし、アナーキズムが目指す人間の自由、人間の解放という真の理想は、“夢”かもしれないが人類永遠の課題として残っているように思う。
  何が自由で何が解放なのかと、ここで哲学的な議論をするつもりはない。 ただし、人間が本来求める自由や解放は、なにもアナーキズムだけの問題ではなく、ほとんどの思想が取り組んできた問題なのだ(宗教も勿論含まれる)。 従って、人間の自由や解放を最大のテーマにしてきたアナーキズムが、完全に消滅するというのは有り得ないことである。
  人類は、原始共産社会は別としても、その後は「人種」「民族」「階級」「宗教」「言語」、そして「国家」などの実態に何千年も縛られてきた。 これらの実態は非常に重いものだ。まだまだ何百年かそれ以上も続きそうだ。
  しかし、例えば“地球温暖化防止”一つを取ってみても、人種や宗教、国家などを乗り越えた問題である。 そうしたグローバルな問題は他にも数多くあるし、今後はもっと増えてくるだろう。 それらは、国家というより人間個人々々にとって重大な問題なのである。こういった問題は、ナショナルではなく“インターナショナル”なのである。
  人類や人間個人々々にとって重要なことは、“普遍的”ということである。“普遍的”ということは、人間の権利、自由、解放と最も密接につながっているものである。 アナーキズムは誕生以来、それらのテーマに真正面から取り組んできたことは間違いない。
  アナーキズムの理想、つまり社会的には「国家の廃絶」といったものは、勿論容易に出来るわけがない。 そんなものは何百年経っても出来ないかもしれない。民族や国家といった実態は非常に重い。 それらの“呪縛”は半永久的に続くような感じさえする。
  だからこそ、これからも断続的に「アナーキズム」が甦ってくる気がしてならない。 人間はいつでも“見果てぬ夢”を見るように、アナーキズムを思い出すことがあるだろう。 人類が続く限り、アナーキズムは一種の“宿業的”な思想なのかもしれない。
  以上、大杉栄とアナーキズムについて考えてみた。(2010年10月11日)

 

坂本龍馬 “夢とロマン”を放つ男
 
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」がいよいよ最終局面を迎えようとしているが、坂本龍馬について以前書いた記事を再録したくなった。そこで、一部修正を加えた上で、以下に復刻したいと思う。
1) 8年ほど前、所用があって高知市へ出かけたことがある。私が泊まったホテルは坂本龍馬の生誕地の近くにあったが、たまたま11月15日に「龍馬誕生祭り」が行なわれ、それを見る機会があった。偶然とはいえ、ラッキーだった。
  坂本龍馬は高知では大変な英雄だが、今や全国的に最も有名な歴史上の人物となっている。 なぜ、龍馬はそれ程までに人気があるのか。 日本史を少しかじった人なら大体分かっているだろうが、彼が明治維新に果たした役割は絶大なものがある。そして、それ以上に、我々は龍馬の中に、不朽の“夢とロマン”を感じるのではなかろうか。
  1835年(天保6年)11月15日に土佐に生まれた龍馬は、1867年(慶応3年)の同じ11月15日に、京都で盟友の中岡慎太郎と共に暗殺された。(慎太郎は2日後の17日に死亡) つまり、龍馬の人生は丁度32年の短いものだった。
  その32年間の青春に、龍馬は維新回天の原動力となった「薩長同盟」を実現させ、徳川幕府265年の歴史に終止符を打つ「大政奉還」を実現させた。 地位も権力もない一人の青年が、これ程までの大業をなしえたことに、今更ながら深い驚愕を覚えるのである。
  龍馬の中に、我々は多分“無限の可能性”を見るのではなかろうか。この青年の中に、未来へ向けての“計り難い可能性”を予感するのではなかろうか。 満32歳で凶刃に倒れなければという痛切な思いが、おそらく“夢とロマン”を増幅させているのだろう。
 
2) 龍馬がもし10年、20年と更に生命を持続させたならと、いろいろ空想するのが私にはとても楽しいことである。 歴史に「もしも(if)」は禁物だが、龍馬や織田信長の場合は「もし、もっと生き長らえていたら」と、ついつい考えてしまう。そこが、龍馬が夢(空想)を与えてくれる由縁なのだ。
  例えば、作家の故・司馬遼太郎さんも「龍馬の命、長かりせば」ということで、いろいろ述べておられる。 司馬さんの小説「竜馬がゆく」(文藝春秋)の後書きでは、彼が生きていれば「鳥羽・伏見の戦い」は起こらなかったかもしれない、と予測している。 これは、大変重要なことだ。
 (私はここで、余りにも有名な龍馬の足跡を述べるつもりはない。そういうことは、龍馬の伝記等を読んでもらえれば、誰にも分かることだ。「もしも(if)」の世界から龍馬を見る方が、彼の偉大さがより分かりやすくなるだろう。それ程、この青年は我々に夢とロマンを与えてくれるのだ。)
 「鳥羽・伏見の戦い」は、龍馬が暗殺されてから1ヵ月半後に起きた。(1868年1月3日) いわゆる「戊辰戦争」の始まりである。これは、薩摩・長州などの武力倒幕派が、大政奉還をした徳川家(旧幕府方)の息の根を止めるために起こしたもので、およそ1年半続くことになる。
  龍馬は徳川幕府の大政奉還の後に、前15代将軍・徳川慶喜も含めた新政府の体制案を西郷隆盛らに示していた。これは平和革命(無血革命)の構想である。 当時の倒幕派の中に、このような平和革命を目指した指導者は少数派であった。(元々は、土佐藩を中心として唱えられた「公議政体論」に根ざした構想である。)
  ところが、龍馬が不慮の死を遂げたために、この平和革命(無血革命)の路線は完全に消滅していくことになる。 そして一挙に、武力で徳川家を潰そうという動きになり、鳥羽・伏見の戦いへと突入していったのだ。
 「もしも(if)」の世界からもう少し展望すると、龍馬が健在であれば、戊辰戦争ももっと早く収束していたかもしれない。 なにしろ彼は、旧幕府方にも人脈(勝海舟ら)があったし、日本全体の立場から物事を考える能力があったから、いろいろの手立てを講じることが出来ただろう。 彼は勿論、武力の効用は知っていたが、それ以上に平和主義的な手法を重んじていたからだ。
  例えば「征韓論」で明治新政府は大分裂したが、龍馬がいれば、もっと違った展開になったかもしれない。 更に明治10年の西南戦争においても、龍馬がいれば、おそらく西郷隆盛に対して何らかのアクションを取ることが出来ただろう。 この戦争の時は、木戸孝允(病気療養中だったが)や勝海舟らは何も出来なかったのだから。
  このように、龍馬がいるから、私は「もしも(if)」の世界に入ることが出来る。 それは、彼に“無限の可能性”を見るからだ。
 
3) 龍馬ほど、新時代のビジョンを明快に示した者はいない。 徳川幕府を倒すことでは、倒幕派の志士達の意志は一致していたが、その後の明確な国家ビジョンを持っていた者は他にいなかった。 龍馬の「船中八策」(1867年)の中に、将来の議会制度や憲法制定、条約改正などにつながる構想が既に示されているのだ。
  例えば、1868年(明治元年)3月に発表された「五カ条の誓文」の最初に、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」という有名な一条があるが、これは「船中八策」の中の「上下議政局ヲ設ケ・・・万機宜シク公議ニ決スベキ事」の延長なのである。
 「五カ条の誓文」の起草者である由利公正(越前藩士)と福岡孝弟(土佐藩士)は共に龍馬の薫陶を受けていたから、これは当然かもしれない。 このように、龍馬は新時代と新国家の礎を築いて、明治維新の夜明け前にあの世へ去っていったのだ。
  龍馬が長崎に創設した「海援隊」は、海軍であると共に海運、貿易の結社であった。 この「海援隊」は倒幕のために、薩摩・長州・土佐の3藩を結ぶ接点となったが、龍馬にとっては最大の活動拠点となった。
  幕末、明治新政府の骨格人事を決める際、龍馬が西郷隆盛らと協議した時の話しも有名である。 龍馬が作った骨格案には龍馬本人の名前がなかった。いぶかしく思った西郷が「なぜ、坂本さんの名前がないのか」と質したところ、龍馬は「わしは役人が嫌いだから、ならん」と答えた。 それならば何をするつもりかと、西郷が更に質すと、龍馬は「世界の海援隊でもやりましょう」と答えた。
  これは、龍馬の本心であったはずだ。 維新の大業に最も貢献した龍馬は、本来なら「参議筆頭」(今で言えば首相)になってもおかしくはない。薩摩、長州など諸々の倒幕派の勢力を調整していけるのは、龍馬を除いて他に適切な人材はいなかっただろう。 しかし、龍馬は「参議筆頭」の地位を捨てた。そこに、この男の真骨頂がある。
 
4) 龍馬が「海援隊」を続けていたら、海運と貿易、そして開拓の大立者になっていただろう。彼は世界に雄飛したに違いない。 しかし、その実績と先見性からいって、新国家の「海軍創設」を無理やり押し付けられてしまったかもしれない。
  又しても「もしも(if)」の世界に入ってしまったが、海運や貿易への志は、同じ土佐藩出身の岩崎弥太郎(三菱財閥の創始者)へと受け継がれていく。 龍馬と岩崎は短い期間だったとはいえ、長崎で密接に協力し合った仲だったのだ。
  また、土佐と言えば、明治初期の自由民権運動を思い出す。 板垣退助、後藤象二郎、中島信行(いずれも龍馬の知人)を始め、中江兆民、馬場辰猪、植木枝盛らが輩出して、土佐(高知県)は自由民権の牙城といった感があった。 龍馬が生きていれば、当然こうした運動とも係わりが出来たであろう。
  龍馬自身が最も自由を尊び、民主主義に理解を示す人柄だったから、自分の知人の多くが自由民権運動を起こせば、黙っていられるはずがない。 空想するだけでも、彼がどのような行動を取ったかワクワクするような気持になってくる。
  ルソーの翻訳等で有名な中江兆民は“東洋のルソー”と言われたが、その先見性や識見から言えば、むしろ龍馬こそ“東洋のルソー”“日本のルソー”ではなかったのか。 明治維新という「ブルジョア民主主義革命」(ある学説)を成功させ、最も開明的な指針を示したのだから。
  日本の資本主義の成立にはっきりとしたビジョンを持ち、私生活では妻のお龍と初めて九州への新婚旅行(そういう“意識”を持って旅行した)をするなど、近代人として、同世代の人よりはるかに前進した何かを持っていたのである。
  あえて意地悪く、龍馬の業績を過小評価しようとすれば、彼の「公議政体論」的な平和革命主義は、薩長両藩の武力革命主義(武力倒幕論)に敗北したと言えるかもしれない。 しかし、それは違う。
  なぜなら、龍馬はもちろん武力の重要性を知っていたし、幕府による第2次長州征討戦の時は、高杉晋作と協力して艦隊を指揮し、幕府軍を撃破している。 それに、長州にはありとあらゆる軍事援助を行なっていたのである。
  そこで、はっきりと言えることは、龍馬によって「明治維新」が加速されたということである。「薩長同盟」を実現させ「大政奉還」を成就させたことで、革命は一挙に現実のものとなっていった。 要するに、龍馬は革命の“起爆剤”だったし、その“お膳立て”をしたのである。
  土佐の郷士の末子に生まれたこの男は、維新回天の大事業をやり遂げるために生まれてきたようなものだ。 天がそのために、この男を日本に遣わしたような感じである。 「龍馬の命、長かりせば」と思うところに、この青年に不朽の“夢とロマン”を抱かせる何かがあるのだ。 (2010年10月20日)

 

ある“美人”のこと

少し艶っぽい話をしたい。というのは“美人”の話だが、5年ほど前、家内と一緒にフランス、イタリアへ旅行したことがある。ツアーなので初めから終わりまで団体さんの同じ客同士である。
 たしかパリから乗り継ぎの飛行機でニースへ向かう時だった。私ら夫婦が指定されたシートに座ろうとすると、その列に初老の男性と若い女性がすでにいて、私らは窓際の方の座席に着いた。ふと見ると、その娘さんが素晴らしい美人で年の頃は20代後半ぐらいだろうか、背が私より高くて170センチ近くあったと思う。
 残念ながら、家内が彼女の側に座ってしまったのだが、暫くすると女同士だからか和気あいあいと話し合うのだった。実に感じの良い娘さんで、家内の方もすっかり打ち解けた感じになっていた。あとで家内に聞いたら、初老の男性と彼女は親子だという。
 
さて、ニースに到着した日の夕方だったか、私ら夫婦が海岸沿いの道を散歩していたら、途中でばったりとその親子に出くわした。私は嬉しくなって、腹も空いていたし暇だったから、2人を近くのレストランへ誘った。すると快く応じてくれたので4人で食事をすることになった。
 もちろん、ビールやワインを飲みながらの食事だから、すっかり話が弾んでしまった。図々しい私はズケズケと何でも聞いたが、お父さんは島根県・松江市の人で、娘さんは3人姉妹の次女だという。
 本当は長女が父と一緒に旅行に来るはずだったが、急な仕事が入ったので妹が代理で父を“エスコート”するようになったのだそうだ。いろいろ話していると、彼女はカナダなどで外国生活をしている経験があるので、海外旅行はお手の物だった。お父さんは全て娘に任せっぱなしという感じで楽なものである。
 雑談に興じているうちに、娘さんがますます美人に見えてきた。酒が入っているせいもあるが、お調子者の私は「あなたは鈴木京香に似ているね」と声をかけた。すると彼女はニコッと笑って返事をしなかったが、初老のジジイが何を言うかと思ったのだろうか。
 しかし、待てよ・・・と私は思った。鈴木京香でなくて鈴木保奈美だったかな? 京香も保奈美もゴッチャになってしまった感じだ。2人の区別はよく分からないが、どちらにしても美人であることに違いはない。だいぶ親子に迷惑をかけたかもしれないが、私たち4人は和やかに食事をしてレストランを後にした。
 
その後、われわれ団体さんはフィレンツェ、ローマなどを観光したのだが、自由行動の時にも何度か2人に出会った。その度に親父さんも娘さんも親しく接してくれたが、彼女がイタリアの古びた街路を歩く姿は実に格好良かった。
 妻に「彼女はスタイルは良いし美人だし、男に持てるだろうな」と言うと、「ああいう娘(こ)は並みの男では無理ね。よほどの男じゃないと彼女と釣り合わないわ」と答える。妻も娘さんに惚れ込んだ感じだった。
 ある場所で、私は親父さんに「娘さんたち(3人姉妹)の結婚が気になるでしょう」と鎌をかけたら、彼が「誰でもいいから結婚して、早く子供をわが家に連れてきて欲しい」と言うので笑ってしまった。
 団体ツアーが終わりわれわれは飛行機で成田空港に帰国した。その親父さんは羽田経由で松江へ帰ったが、娘さんは東京の勤め先に戻ったようだ。
 われわれ夫婦は親子の名前は聞かなかったが、今でもふと、あの“美人”のことを思い出し、「彼女は今頃、どうしているだろうか。結婚しただろうか」などと取りとめのない話をする。それほど、あの美人は印象に残っているのだ。
 ちなみに、彼女は鈴木京香か鈴木保奈美に似ていたが、どちらかと言えば前者だったろうか・・・ この記事の思い出に、美しい2人の画像も末尾に添付しておきたい。(2010年10月9日)
 
鈴木京香・・・http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E9%88%B4%E6%9C%A8%E4%BA%AC%E9%A6%99
 
鈴木保奈美・・・ http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E9%88%B4%E6%9C%A8%E4%BF%9D%E5%A5%88%E7%BE%8E

 

坂崎出羽守直盛
 
友人の作家・山元泰生君から『明石掃部』(あかし・かもん)という本が贈られてきたので、パソコンが故障中にじっくりと読むことができた。私は全く知らなかったが、明石掃部というのは戦国時代のクリスチャン(キリシタン)武将である。
 彼は中国地方の大々名・宇喜多秀家の筆頭家老で、関ヶ原の戦いや大坂の陣で徳川家康軍を相手に獅子奮迅の活躍をした武将だ。ご承知のように、関ヶ原でも大坂の陣でも豊臣方は敗れたが、宇喜多秀家は捕らえられ八丈島へ流刑の身となり、明石掃部は終生 逃亡と流浪を繰り返す身となった。
 私が面白いと思ったのは、戦国末期は西国を中心にクリスチャン大名や武将がかなり多かったことである。高山右近などは有名だが、他にも大勢いる。明石掃部もその一人だが、実は最も驚いたのが、明石と同じ宇喜多家に後の坂崎出羽守直盛(なおもり)となる、宇喜多詮家(あきいえ)がいたことであった。
 
なぜ驚いたかというと、坂崎出羽守は大坂夏の陣(1615年)で、豊臣秀頼の正妻で家康の孫に当たる千姫(せんひめ)を救出するのに大手柄を立て、家康から千姫を与えると約束されたにもかかわらず、後に千姫がそれを嫌がって他家に嫁ごうとしたため、千姫奪回を企てて失敗、自害するという事件を起こした張本人だからである。この「千姫事件」には諸説があるが、当時としては大変な事件で、私も昔、大映かなにかの映画で見たことを覚えている。何はともあれ、この事件で坂崎出羽守は自害し、彼が治めていた石見・津和野藩4万3千石は取り潰しとなった。
 
坂崎出羽守がまだ宇喜多詮家と名乗っていた頃、彼は豊臣秀吉が起こした「文禄の役」で朝鮮から帰国後(1595年)、京都でクリスチャンとなり洗礼名をパウロと称したという。明石掃部がクリスチャンになったのはその後である。二人はその後、秀吉のキリスト教弾圧で命が危うくなった大坂の神父らを救出したりしている。
 詮家は当主・宇喜多秀家の従兄弟に当たるが、その彼がなぜ後に家康方に付いたのか。それは関ヶ原の戦いの前年(1599年)、不幸にも宇喜多家に一大お家騒動が起こり、詮家を含む250人もの武士が宇喜多家を離れたのだ。 その背景には、秀吉亡きあと天下を狙う家康の策謀があったというが、現に詮家ら大勢の武士が家康の配下になってしまった。
 家康は関ヶ原で自分に対抗した宇喜多家を憎み、詮家に改名を迫ったという。そこで「坂崎出羽守直盛」の誕生となるが、すでに秀吉の晩年以来、キリスト教への弾圧は日ごとに強化されていたから、出羽守もクリスチャンを辞めざるを得なかったのだろう。
 
私はクリスチャンでも何でもないが、『明石掃部』を読む限り、戦国末の日本のクリスチャンは概して非常に純粋な人たちが多いように思う。初期の信仰とはそういうものだろうか。殉教の精神に徹していたように思う。
 最後は島原の乱(1637年)で大虐殺に遭いキリスト教は抹殺されたが、明石掃部らは最後まで純粋な信仰を持ち続けた。家康に対抗して敗れ一族は悲惨な目に遭うが、かえって信仰心は美しく輝いていったようだ。
 俗世から見れば、明石掃部らクリスチャンは不幸だったろう。しかし、キリスト教を捨てて、大名にまでのし上がった坂崎出羽守も幸せにならなかった。人それぞれだが、もし彼が信仰心の篤いクリスチャンでいたら、「千姫事件」のようなことは決して起こさなかっただろう。 元クリスチャン・坂崎出羽守の運命に、人間の悲しさ、哀れさを感じる。(2010年8月5日)

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