とこのへや

とこの雑貨と、とこのお洒落着。とこは樺太に住んでいたことがあります。とこの嫁の体験談、日記、備忘など。

とめごろうさん

2017-05-30 22:44:51 | 日記
こんばんは。

なぜだか、ふと帰りの電車の中で、祖父の名が思い起こされた。



私が生まれた日に、墓石を建てたようだ。祖父のことを思うと、まずはお墓と仏壇の上の遺影を思い起こす。

お墓参りに行った時、墓石の後ろに私の誕生日が刻まれているのに気が付いたのは小学校3年のころだろうか。

墓地は、頂上に神社のある山の中腹にあり、山のふもとには市民病院があった。山、といっても子供の足でもすぐに上りきる高さで、神社のある頂上へはかなりの急な斜面となっていた。墓地に行くと、神社の反対側には、病院の大きな建物が見下ろせた。「お前はあそこで生まれたんだ」と聞かされていた。年子の姉は出産時に母が実家へ帰ったとかで、病院で生まれていないという。

夏の日の午後、墓地の入り口に接する道路を渡って、うっそうと茂る木々の間に伸びる階段をのぼっていくと、神社がある。
お祭りの日には流鏑馬も奉納される由緒ある神社だ。ひと気はなく、セミの声がわんわんいう中、却って静けさを感じる佇まいだった。

私は夏生まれなので、ある年はたまたま自分の誕生日にお墓参りに行き、日が暮れたら迎え火で花火を楽しんだりと、思い出が多い。墓石の下に納められている祖父は、私にとってはいつも遺影の、着物でモノクロの、優し気に笑っている顔だ。

祖父 とめごろう は、土地持ちの農家の末っ子で、年の離れた兄がいた。当時は長男が全て相続するので、嫡男でなければ「かまどけし」つまり分家するのが普通だったそうだ。何度か招集されて兵役についてる。戦後はロシアで抑留された。戦地からのはがきを、祖母から見せてもらったことがある。まだ会えずにいた長男である父に宛てたはがきだった。芯のまるまった鉛筆書きで、息子宛てとなっているけど、丁寧文なのがきゅんとくる。書き出しの「お元気ですか」が「お元気でしか」となっている。筆跡はきれいだった。それを見て、会ったことのない祖父だが、なんとなく好きになった。

兵役では、招集された者は地域ごとに特定の師団に所属するようだが、祖父の所属した師団は勇猛で知られていたと聞いている。今90代後半かもう少し上の年代の方なら、知っておいでだろうか。祖父は手柄をたくさん立てたとかで、階級があがったという知らせが何度も届いたと祖母が話していた。これを話す時、祖母はとても誇らしげでもあり、不安そうでもあった。抑留されていた時には、祖母は一人で切り盛りしなければならず、辛かったと思う。父が中学へ上がる前に「半年かもっと先になるが帰国する」と知らされ、中学に上がってしばらくして帰ってきた。戦争の話を聞かせて、というと、祖母は、祖父が敵に撃たれて、肩を銃弾が貫通したが、身体の中に弾が残らなくてよかったのだとか、珍しい軍の支給品のこととか。私はそういう話を聞くのが好きだった。

祖父が本家から分家した際に、コメと塩以外を扱う個人商店を開業した。仕入れは祖父、お店番と帳簿つけは、暗算が得意な祖母の担当だったそうだ。祖父が元気な間はお店は繁盛していたようだ。お昼時は近所の工場で働く人が買いに来るし、野菜も魚も扱ったから、お店番は食事の暇もなく、とても忙しかったのだ。祖父はほかに基礎工事を請け負う会社で現場監督として働いていたという。祖父は、お店は一番いい職業だと言っていたようだ。子供は私たちの父を含め6人。男4人、女二人。正月には着物を新調するからと、祖父が子供みんなの背丈を図って、まとめて注文していたのだそうだ。けちだけど、まめな人だと思う。「なんでも錢(ぜに)だ」が口癖だったそうで。毎朝、仕入れのため、バイクに乗って市場へ買い付けに行く。お昼は食事のために戻ってくるが、夕方まで建築現場へ出かけていく。典型的な雷おやじだったのだろう、子供時分の父が、祖父が帰ってくるのを聞きつけて「空襲警報!」と言って2階に逃げるのを、「逃げるようを覚えたか」と高笑いしたとか。父の性格の形成に重要な影響を与えていると確信する。そして私たちにも。私たちも父が帰ってくると大急ぎで二階に上がるようになったもの。

祖父が50代にさしかかるころと思うが、体調が悪いのに、重篤な病気だと告げられるのが怖くてなかなか病院へ行かなかったそうだ。喉頭がんだったそうだが、早く手術を受けていれば、助かっただろうとみんなが口をそろえていう。父がいつも新聞記事でがんに関連するものを切り抜いているのは、祖父のことがあったからだ。

病状がかなり悪化して、ある日大量に吐血して、やっと市民病院へ行ったのだ。「近所のリヤカーを借りてきて、自分を病院に連れていってくれ」と。以前から手術を勧めていた医師の見立てでは、今は血液が不足していて、早急に輸血が必要な状態だということだった。そこで兄弟みんなして駅前で若者に声をかけ、「ご協力者には卵を差し上げます」と輸血への協力のお願いをしたのだそうだ。戦後まだ日が浅かったころで、まだ卵などは手に入りにくく、店の商品を提供したら、喜んで協力してくれたそうだ。安定してから手術を行う予定だったみたいだが、手術の前後はよくわからない。

自分が独立しようかという年代に、父親を亡くすとはどういう気持ちなのだろうか。
祖父は、次男には言わないようなことを、父には厳重に言うことがあったみたいだ。「それ(将棋とか、柔道とか主に娯楽)で食べていくのか」、「お前は長男だから」と。こたつが年中出しっぱなしの家だったのだが、そこに、祖父と次男が寝そべっているので、父が自分も横になろうとすると、祖父が「長男のお前はだめだ!」と、きちんとしていなくてはならないという。性格からいえば次男のほうがお店に向いている印象で、父は市場での仕入れは好きだが、お店自体は嫌いだったのだという。

私は、小学校3年の冬休み、引っ越しと転向を経験した。距離はさほどでないが、小学校の学区が違ったのだ。元の家へは歩いて10分もせず、戻ることができる。元の家は、間口が広くて、奥行きもあり、1階の前半分がお店。古かったけれど、お店兼自宅、の木造2階建ての建物。それが壊されてしまう日、どうしても見届けたくて、私は一人、路地を進んだ。住宅の間の路地の行く先、真正面に、商店の大きな看板が見えた。何人もの作業員が、ちょうど二階の天井をはがしていて、もうもうと土煙があがっている。祖母からは、この家はおじいさんが建てた家なんだよ、夏は風がよく通って、扇風機もいらない、いい家だと聞かされていた。そのころ、夢に、祖父が出てきた。あの遺影の顔だ。青い顔をして、紺色の前掛けをしている。何も言わないけど、あの建物の横に居て、こっちを見ている。こっちを見ているのだ。

父に、墓石の後ろに彫ってあるが、おじいさんと戦中になくなった三男の埋葬をしたのは、私の誕生日だったのかと尋ねると、何を言っているのか?と何度も聞き返された。私は父が怖かったので、うまく話せてなかったと思うが、父は私の言っていることを理解した後も、内容自体全く知らない様子。当時業者から知らせがあったのは覚えているが、立ち会ってもいないし、そう書いてあるならそうなんだろう、程度の反応だった。祖父に対してすこし複雑な想いがあったのかもしれないし、単に忙しかったのかもしれない。もともと、墓参りとかそういうものに無関心な父であったし。

とめごろうさんが居てくれたから、私たちがある。お店を立ち上げ、繁盛させ、戦中に三男を失ったけれども、残った5人の子供たちにそれなりに財産を残した。きっと、私たちのことも見ていてくれるのだ。


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