そらはなないろ

俳句にしか語れないことがあるはずだ。

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『たましいの話』を読む

2008-09-05 08:12:23 | Weblog


忘れちゃえ赤紙神風草むす屍

 僕は、この句と三度出会った。

 一度目の出会いは、この句に喝采した。僕は戦後生まれである。戦後どころか、昭和も末期、1985年の生まれなので、親ですら戦争経験者ではない。そんな僕にとって、あえて正直に言えば、八月が来るたびに太平洋戦争のドラマや映画やドキュメンタリー番組が流れるのは、実にけむったい思いがした。「戦争の記憶を忘れてはいけない」という、あの、誰も逆らいようがない、絶対的に正しい言葉に辟易し、飽き飽きしていた。そうは言っても記憶とは風化してゆくものである。

 戦争の悲惨さを忘れずに語り継いでゆくという欺瞞を僕は信じなかった。それは勿論、戦争は悲惨だったろう。身をもってそれを経験された方たちのご苦労、辛酸、これらは決して軽視してはならないものだと思うし、敗戦を起点にして現代日本の多くが成り立っていることもまた無視できない事実であろう。しかし、戦争はそれを語り継がれる者にとっては、既に薄っぺらな教訓になり下がってしまっていた。「嘘をついたら地獄で閻魔さまに舌を抜かれる」というのと同じである。「戦争をしたら多くの人が死ぬ」そう言って、見知らぬ、絵空事の戦争の恐怖だけが毎夏毎夏、空転する。僕らが一体何を覚えているというのか。

 そういう投げやりな戦争観を抱いていた僕の目に、「忘れちゃえ」という見事な言い切りは、むしろ大変好ましく、美しく、潔く映ったのである。それに、勢いが良い。「忘れよう」「忘れましょう」そんな穏やかな、大人ぶった言い回しでは、この欺瞞を超克できないのだ。稚気をさえ感じさせる、「忘れちゃえ」と言うあっけらかんとした言い回し。戦争を語り継ぐ正当な行為への批判として、この句はかつてないほど衝撃的だった、と僕は喝采を惜しまなかった。

 二度目に出会ったとき、僕は慄然とした。かすかに震えた。ただ阿呆のように喝采した自分を呪わしく思った。この句の裏で凄絶に微笑む彼女の様子に気づいたからだ。「忘れちゃえ」と書く彼女は決して忘れていないし、この句を読んで本当に忘れてしまう人もいない。本当にそんなもの忘れてしまえばいいと思っているのならば、こんなこと書きはしないだろう。書かなければ忘れられてゆくものなのだから。むしろ、「赤紙」「神風」「草むす屍」のことを考えすぎて考えすぎて、どうにも先へ進めなくなってしまっている人に向けての、それは優しいメッセージだったのかもしれない。自分が覚えているから、あなたは遠慮なく忘れなさい。それは確か、「世界の中心で愛を叫ぶ」での誰だったかの台詞と同じだ(僕は、あの作品はこれっぽっちも良いと思っていないが、あの台詞だけは、真実の優しさだったかもしれない)。

 わざと幼く「忘れちゃえ」なんて言い放つことで、彼女は少女のように残酷に微笑むことが出来る。その眼底に、彼女が見た様々のものが腐りかけながらもまだずっと沈澱してゆくのだとしたら、もしかして、「忘れちゃえ」と呼びかけられているのは、彼女自身、であったかもしれない。俳句は無論、教訓などではない。戦争の悲惨さを伝えるだけが戦争俳句ではない。しかし、教訓に反発し、批判するだけの句も、もとより浅い。この句は、正に反語だったのだ。忘れられないからこそ、忘れちゃえ、と言うのだ。何もかもが失われた静かな世界で、彼女の混沌とした不思議な微笑の中から、感情の底なし沼をつかみだしてくる。その恐ろしさに気づいたとき、僕は震えるしかなかったのだ。

 三度目の出会いでは、僕は呻いていた。「忘れちゃえ」という上五のみに注目して、教訓への批判だとか反語だとか考えていたが、忘れる内容について、ついぞ考えてこなかった。「赤紙」「神風」「草むす屍」。この三つが時系列順に並んでいることに、遅まきながら気がついたのだった。赤紙が来て、万歳で送り出されて、神風を信じて、あるいは無理矢理思いこんで、果ては草むす屍。ここにあるのは、日本軍の兵士の永劫回帰。赤紙、神風、草むす屍。赤紙、神風、草むす屍。何度呟いても足りない、大勢の日本人兵士たちの末路。この三つは独立に並んでいるように見えて、実はつながっていたのだ。これで一人分なのである。

 つまり、何を「忘れちゃえ」と言っているのか、と言えば、赤紙でも、神風でも、屍でもない。死んでいった者たちのことを。戦争を忘れてしまえ、と言っているのではなく、赤紙や神風に嘲弄されて死んでいった兵士たち一人一人のことを、忘れてしまえ、と言っていたのだ。「草むす屍」には、墓もない。家族のもとに戻ることもなく、ただ土に還るだけの死者たち。はたして、墓を持たぬ死者というのは、忘れられやすいものだろうか、それとも、墓がない故に、忘れられにくいものだろうか。人の死、あるいはその死体は、ある衝撃をもって迎えられるため、短期的には非常に忘れられにくいが、赤紙や神風のように一つの象徴として記憶されることがないため、長期的に見れば忘れられやすいような気もする。

 だが、たとえばこう考えてみたらどうだろうか。我々にとって大事なことは、ある人物の「死」を忘れないことではなく、その人物が「生きていた」ことを忘れない、ということではないか。そう思うと、この句の新しい読みが自分の中で立ち上がってくるのを感じた。「赤紙」→「神風」→「草むす屍」、という、この恐ろしくも悲しい、避け得なかった奔流をこそ、彼女は忘れてしまいたいのではないだろうか。彼女が覚えていたいのは、その人に「赤紙」が来る前の、あの、幸せな日々。それを覚えていたい、そしてそのために、赤紙以降のことは忘れてしまいたい、そういうことではなかったのか。それは、戦争のことを語り継がなければならないという倫理観にはもとるかもしれないが、しかし、僕は、そのような彼女の、身も蓋もない悲しみに切り裂かれてやまない痛切な心情の表明こそが、どんな政治的文句よりも一途に反戦の思いにつながるのではないかと思われてならない。それに思い至ると、僕は、呻いてしまうのだった。

 一句に、あまりにも言葉を尽くし過ぎた。彼女には、

前ヘススメ前ヘススミテ還ラザル
泉ありピカドンを子に説明す
戦争がいつも何処かに青いか地球
戦場に近眼鏡はいくつ飛んだ

 のように、印象的な戦争詠があるが、句集全体で見ると、それほど数が多いわけではない。むしろ、戦争関連の句は、上に挙げたものの他は二、三句しかない。こうして他の句を見てみると、むしろ彼女は、戦争を語り継ぐということに積極的であることが分かる。いや、むしろ、それは「語り継ぐ」というよりも、戦争という禍々しい魔物の正体を見てやろうという必死のあがきのようにも思える。原爆というよりは、より肌ざわりに近い「ピカドン」という言葉を選び、それを子に説明しようとしている彼女は、実は自分もそのことを経験していないというもどかしさを感じながら「語り継いで」いるのではないか。泉という平和な光、そこにピカドンの強烈な光を思い、教訓ではなく、真摯にそのことに向き合おうとする彼女の姿が見える。それは「近眼鏡」の句にも共通する態度だ。

 「戦争がいつも何処かに」というフレーズには驚かないが、「青いか地球」という収め方には瞠目する。「戦争」と「地球」のスケールを誤認させ、くらくらと眩暈を起こさせるに十分な措辞だ。地球は青い。それは当り前のことだ。しかし、彼女の句は、常にその当たり前のことを当たり前だという認識で済ましておいてはくれない。常識には常に揺さぶりがかけられる。「赤紙神風草むす屍」を忘れないのが当たり前だと思っていたのを覆したように。



知る限りいずこもこの世立つ蚊柱
明石から淡路島まで日陰なし
けしからぬ地動説かな初日の出
七生の七度絶命梅の花

 どこもかしこもこの世だし、海の上には日陰がないし、けしからぬと言っても地球はまわる。どれも当たり前だ。しかしそれにしても、「七生の七度絶命」とは身も蓋もない。いつの世も梅の花が香っていたのだと思うと、救われるよりも、なんだかそれが当たり前に思えず、逆に不思議な気分に襲われる。そして、彼女は、このように時間の推移とともに何かが変わる、あるいは、何かが変わらない、ということに、大いに興味を抱いているらしいのだ。

フルーツポンチのチェリー可愛いや先ずよける
洗う指のまず糊を拭き牡丹雪
啓蟄や中座の先ずはほほえんで
光あり家を出てまず春の泥
再建の先ずは壊しぬ梅の花

 「まず」という語の多用は、何らかの行動が行われる際のさきがけに彼女が注目していることを示して興味深い。つまり、何かある状態が別の状態へ移行する第一波のようなものを、彼女は敏感に捉えるのである。「中座の先ずはほほえんで」、本当にそのとおりだ。日常の中で人間関係を円滑に運ぼうとする意思、つまり、人間がどれだけ他人のことを恐ろしく感じているか、という一面がよく表れていて、すごく面白い。つまり、この句は、単に中座するという行為のさきがけとして微笑みをとらえているだけではなく、円満な人間関係をなるべくそのまま維持しようといういじらいしい心持のさきがけとして微笑みを描いているのだ。

夕月やしっかりするとくたびれる
たたみいわし雪の話にまた戻る
玄関に何度行っても冬深し
逢いに行けば多分疲れる片しぐれ
枯園でなくした鈴よ永久に鈴
売り切れの鶯餅のあった場所

 物事の変化に敏感なのは、むしろ、変化してゆくことに対する恐れのようなものを、彼女が常に抱いているからではないだろうか。「しっかりする」ことは、つまり、何か物事を動かすことで、それによって何かが変わってゆく、ということ。それはなんとなく困る。「雪の話にまた戻」ったり、「玄関に何度行っても」変わらなかったりすることは、そのこと自体の良し悪しを越えて、不変であるというその一点で、彼女を安心させる。「逢いに行けば多分疲れる」のも、自分と相手の関係が何らかの意味で変化するのを恐れる気持ちが垣間見えるし、「枯園でなくした鈴」は、園の風景がいくら変わってもずっと鈴であることに変わりはなく、そのことに奇妙な安心感を覚える。売られている「鶯餅」は、そこにとどまることはない、誰かに買われてそこからなくなってしまうものだとは分かっていても、それを惜しんでしまう。

 本質的に、何かが変化してゆくことを彼女は耐えがたく思っているのだと感じる。しかし、だからと言って、彼女は時がとまってしまうことを望むほど幼くはない。「くたびれる」「多分疲れる」と言ってはいるものの、だからと言ってしっかりしないわけではないし、逢いにも行くのだ。それがこの世、なのだから。

死に順は突然決まる葉付き柚子
先生の逝去は一度夏百夜

 この世における変化、そのうちでもっとも避けがたいもの、悲しいものは、身近な人間の死。それを受け入れ、進む強さを彼女が持っているのは、むしろ、物事が変わらないでほしいと思ってしまう自分の業のような弱さをしっかりと見据えているからであろう。

震度2ぐらいかしらと襖ごしに言う

 この有名な句も、そうした文脈の中で捉えることが可能だ。大地震が起きたら、自分も夫も死んでしまうかもしれない。大地が揺れ始めた時にはその可能性をいやでも思わせて、彼女は心細くなったに違いないのだ。しかし、まあ、震度2くらいで済んだ。そのことの安心感が、特に襖をあける必要もない、というほぼ無意識の判断につながる。わざわざ襖をあけるという変化は必要ないと見切った、その安心感が、この句の核をなすものだろう。「襖ごしに言う」のは、地震という非日常の予感から日常へ無事に帰ってきたことを確認する作業なのだ。考えてみれば、襖をあけるときの、あのぎしぎしという音は、特に、何の前触れもなく急にやられたらとてもびっくりするし、おののきもしてしまうだろう。

 当たり前のことを当たり前と思って看過しないこと、そして、物事の変化を恐れる気持ちを素直に表出すること、この二つは、表裏一体となって、彼女の句の核をなす。「忘れちゃえ」と言うのは、そんなふうに言わなければ当たり前に忘れてしまいそうになる人間の弱さを恐れ、叱咤激励しているとも言える。彼女が戦争詠にこだわるのも、戦争というものが、破壊、というよりは、大きな変化のうねりをいやおうもなく可視化してしまうものだからだろう。

幸彦忌顔を洗った手がきれい
バナナジュースゆっくりストローを来たる

 もちろん、彼女の句は変化を恐れるあまり無気力になったりなどしない。むしろ、そういう恐れを乗り越えても何らかの行為を起こそうとするとき、何か素敵なことが起こるのだ。そう思うと、「幸彦忌」と「バナナジュース」の句は、なんだかとってもきらきらと美しい。

 作者は池田澄子(1936-)
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2 コメント

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有り難し (sumi)
2008-09-05 12:58:57
句集を買ってくださって、読んでくださって、書いてくださって、こんな嬉しいことは、なかなかありません。違う時代に生まれ、そして今、同じ時代に生きていて、巡り会って。有り難いことです。
「先ず・まず」、私、全く気付いていませんでした。そうでしたねえ。一冊の句集に、こんなに同じことがあっては、マズイです。(貴方は特にそう仰っているのではないけれど)
また、続けて読んだ他の日の句評の中に、私の句とほぼ同じフレーズの入った作品を見つけショックを受けました。どれかの句集に入れたような気が。それも、なんたること、私があと。嗚呼。両方の句が、人口に膾炙しなかったらしく、よかったわ。恥しくて、どの句かは言えません。
「先ずは」心より、ありがとうございました。
あ、 (ゆうむ)
2008-09-06 10:30:54
コメントいただいていたのですね。
どうも、こちらこそ、素晴らしい句集を読ませていただきまして、ありがとうございます!

「まず」、個人的には澄子さんの意識のありようがうかがえて面白かったですが、作家としてはそうも言っておれないのですね。なるほど。

同じフレーズの作品、ですか。気付かなかった…。僕もよくやってしまいます。それを防ぐためにも先人の句を読まねば、と思いますが、読んだら読んだで、逆に無意識的に句が頭に入ってしまって同じようなフレーズを作ってしまうことも…。なかなか難儀です。

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