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論理は倫理を理解できるけど、倫理は論理を理解できない件
前記事で「倫理」を抽象的に扱ったのであるが具体的に論じたいと思う。
例えば物議を醸した「18歳以下にエロい漫画は売っちゃだめ」という東京都の条例に反対する事象で考えてみよう。
額面を見て何が問題なのかを探すのが困難だと思っている、であるがその背景とかを考えるといろいろと感じるところがある。
細かい事象は分からないけれど、コンビニでエロイ漫画を売るなという条例であり、現実面ではコンビニでは既に禁18はゾーニングしているということであろう。熱い党が現実の運用を無視して現状の規制を法制化したいということなのであろう。その熱さが「自主規制しているのに法制化って何?」という点であると理解している。
日本の行政は護送船団方式で業界を守り、業界団体の意向を吸い上げつつ妥協したという「省令主義」があって他国から分かりづらい制度がある。その業界のお約束を都が破ったと理解した。そもそも業界は政府(省庁)からいちゃもんを付けられないように業界自主規制を勝手に作成する。
それを都議会が倫理をたてに覆した。構造的には英断だと思う。しかしその準拠が倫理であれば性質が悪い。馬鹿丸出しである。
ここで本題。このblogでは倫理や宗教はある決め事を論理的に説明する手続きを省くため野便利なツールだとしている、逆に言えばあらゆる宗教的・倫理的な意義は論理で説明できるという前提がある。
なので本質的な問いは論理に立ち返る必要があると私は考えているし、そうでないと宗教的な価値はないと考える。ということは「全てのメッセージを疑え」という事になる。
そう考えると倫理をベースに日本人論とか里山賛美とか、割と多いことに気付く。本人は多分真正直なんだろうけど、大前提がいんちき臭い。その大将が都知事で、というか政治家は倫理的な何かを持っていなければ立ち行かない職業ということなのでしょうか。であれば日本人はそうじて馬鹿であり、スキャンダルで左右されるとか、論理は関係ないとか、自分だけが良ければそれでいいとか。少なくとも政治家は国民をそう見ていると思って間違いないでしょう。
要は日本人は馬鹿だ。その結果と将来がこうだ。と政治家は思っている。農家には小金を与えればいいとか。
経済1流、政治は2流。よく言われることですが、その理由は国民が馬鹿であり、少なくとも政治家は国民が馬鹿だと思っているということでしょう。国民が馬鹿だから財政規律は立ち行かないし、現金をばら撒かないと支持率が落ちると政治家は分析しているのでしょう。
脱線しました。倫理で政治を制御するのは非常に温かい姿勢です、しかし馬鹿以外の何者でもありません。無論政治家が馬鹿なのではなく、支持者が馬鹿なのです。倫理は論理で説明されるべきです、「誰もにとって当然だ」は全力で疑うべきです、利権の匂いがかならずあります。そうする理由がないからです。
そこを倫理屋は、やはり感情に訴えるでしょう。疑問は明確にしましょう、国政でもありがちですが「党是」に基づくものは全て論理で説明できないから「党是」なのです。
頭がよければというよりは頭がいい人が論理整合性をつけられなかった事象が「政治的配慮」だったりするので、賛成する人の名前と顔を覚えておいて損は無いと思います。悪人です。
当たり前ですけれど論理屋からは、倫理が出発点でも問題ないわけです、論理整合性があれば。ただ役人は有能なのでそこんとこは上手くごまかします(彼らの職務なのでそのこと自体は非難しても仕方が無いと思います)、というより役人自体が論理屋ですよね。それが悪いという意味ではありません。
スレンダーは絶滅した
正統派アイドルというかトップ女優は長らくスレンダー・貧乳であった、最後の大物が蛯原友里・伊東みさき・柴崎コウで、絶滅保存種が佐々木希。
佐々木希はO脚のけがあり、個人的にスレンダー好きとしては石原さとみを押したいところ。しかし勢力の弱さは目を覆いたくなる。
健康的なむっちりが昨今の主流だと思う。加藤夏希が「モデル」として成功し始めた一昨年あたりから、男性向けとしてはAKB48なんかは前にエントリーをあげたけどデブ候補しか居ない。決定的だったのはK-POPで、少女時代もKARAもスレンダーというよりはむっちりだということ。
以前AKB48にスレンダーさんが居ない事に疑問を呈したのだけれど、世の中が変わってしまったのだろう。
確かに今までスレンダーさんに偏っていたと思う。男性の性欲が直結するグラビアやAVでは巨乳が昔から全盛だし、往年のAVスターである吉沢明歩とかはスレンダーだ。スレンダーが「いい女」であるというのが幻想であったのであろう、見てきれいなのはスレンダーさんだが、多くの男性はそれでは物足りない時代を経て、本音を表したのであろう。また当の女性が男性にもてるには「むっちり」であることに気付いたのかもしれない。(ちなみにグラビアアイドルの巨匠は高齢化しているけどスレンダーさん:ゆうこりん・憂木まおみ)
女性誌のモデルのむっちり化は訪れているようだ。看板モデルの例えば竹下玲奈とかショートパンツ+太もも出しまくりは居るけど。驚きだったのはカネボウのコフレドールはおばさん+むっちり平子理沙で、資生堂は永作だったこと。ターゲットが割りと高年齢なのも驚きだけど「憧れの女性」が、、、。まぁ永作はスレンダー(かな?)だけど、資生堂のマーケティングが間違っている可能性は当然ある。ちなみにコーセーは倉木麻衣(スレンダーさん)で、個人的には好きなんだけどどうなんでしょあれは。
もうひとつはむっちりというかナイスバディの代名詞藤原紀香から米倉涼子の熟女が世代交代したことか。
もう一つはアナウンサーの巨星である高嶋アナ(スレンダー)が前線から退いたこと。後任のアナは西尾さんらしいけど結婚したけど、スレンダーとむっちりがわかり難いことが寿命を永らえるでしょう。明確なライバルも居ないし。
スレンダーさんの勢力図を勝手に述べておこう。佐々木希・戸田恵梨香・北川景子が挙げられるのであろうが、佐々木も北川も脚の不細工さが我慢ならない。戸田は長澤まさみや新垣結衣が陥った少女から女性への変換に成功しきれて居ないと思う。成美璃子も越えられない壁だ。志田未来はどうなのかしら興味がある。
僕が「スレンダー」VS「むっちり」の異変に気付いたのはAKBの台頭と高嶋アナの引退であった。AKBの戦略が誰かが誰かを釣り上げることを求めていないことに気付いたから。秋元さんはむっちり派だけを全部掬う戦術に出たことに気付いたから。またアナウンサー界も高嶋アナの後任のスレンダーアナが大江さんとかマニア的にしか居ないということ。
そう考えるとアンチむっちり派の私にとってここ数年は暗黒の時代になりそうだ。佐々木希や北川景子がそれなりに存在感を示すことになるのであろう、両者が化粧品メーカーの顔に成れればいいんだけど。そして両人は脚の形があまり好きではなく、うーんです。吉瀬さんは結婚するし、ほっそりアナウンサー(例えばTVアサヒの市川アナ)はのきなみ露出が話題にならないし。
追記:こんなエントリーでは景気悪いので次世代スレンダーさんを指名しよう。
ありきたりで申し訳ないのだが西山茉希、前期ドラマでの存在感に好印象。今後に期待。
無理を承知で桐谷美鈴・憂木まおみ:コメントなしです。
大穴でフジテレビの松尾翠アナ:番組持ってほしいなぁ。
あとCMで活躍している人で、、、これはきりがないので割愛します。
どうでしょ?
倫理というスケープゴート
本来、倫理と言うやつは論理で説明できるはずである。例えば「家族は助け合わないといけない」という倫理観は生物が子孫に抱く本能的な感情を論理的に解きほぐせば説明できる、面倒なのでここでは省略するが。
同様に「人を殺してはいけない」というのは普遍的な倫理ではないけれど、普遍的なコミュニティでは有効である。「人を殺してはいけない」という倫理観はコミュニティが限定される、それが証拠に過去には大量虐殺や殺人事件は非常に多く発生している。
倫理で現実を捌く姿勢は当人にとって非常に心地良い。その倫理がどこまで到達しているのかという疑問を無視できる上、論理で捌くには非常に面倒な事柄も倫理と言う価値観は非常に単純だからだ。倫理はしばしば軋轢を招く、本人や当人にとって当たり前の倫理観が他人と共有できないからだ。倫理とは非常に抽象的で脆弱なものである。
僕が思うにそもそも倫理は論理で話せば通じることを面倒なので倫理で説明してきたと思っている。上位概念として論理があり、それを子供や論理を理解できない輩に説明する便利ツールが倫理であったり原始宗教であろう。
例えば小学校の道徳の時間で「困っている人を助けましょう」という議題があるとする。どのような背景かは分からなければ「何故助ける必要があるのか」は著しく不明確だ。ところが旧来のコミュニティでは誰かがその行為を見ていることが前提なわけで、困った人を助けないということが他人にばれたらその後誰も助けてくれないという事象を招き兼ねない。濃密なコミュニティでは困った人を助けることで信頼を買うと言うことなのだ。様々な前提が明確であれば論理で説明できる。しかしそれを幼児に論理で説明するのはムダなので倫理というツールを使用することになる。
私が考えるに、倫理と言うのはやはり論理と同じくツールなのだ。しかし倫理を解説不可能な道徳というか信条の概念として扱う傾向が倫理が好きな人も居る。例えば夫婦別姓反対とか中絶反対とか。逆にその倫理観をブラックボックス化するのは「私の言うことが理解できない人は理解しなくて良い」という概念であり、対話が成り立たない。成り立たなくて良いのであればそれはそれでいいけど「自分は正しい」という言説は倫理派が述べるので、、、お前馬鹿だろ。
どのような宗教観も倫理観も論理で説明できるはずである。そこを倫理や宗教を絶対視で逃げるのは馬鹿である。
あっ、そうか。倫理観は論理で説明できない「馬鹿な大人」のために絶対に必要なのか。なるほど。
というのは「倫理が論理で説明できないといけない」という命題は対話の概念の大本だからである。宗教の対立や国家のイデアロギ、ホメオパシーのようなインチキ自然商法や新興宗教、いろいろと散見できる。
倫理を否定しているわけではないですよ、論理に耐えうるというか、倫理は便利なツールであることは否定しません。論理が喧嘩を売ってきたときに論理に対抗できるだけの倫理の正当性を担保すれば良いだけの話です。
石原都知事が「倫理」を全面に押し出した政治姿勢を打ち出しているけど、反発する人々は利権を「倫理」で守ってもわたないと困るという構図が見える。立法は論理的に明快でなくてはならないけれど、倫理でなしくずすと適用範囲が不明確で商売の邪魔になる。良識派が想定した社会システムにも影響がある。
例えば「人を殺してはいけない」は普遍的な倫理ではありません。例外は多数あります。なので倫理で語るには適用範囲を明確にしてくださいということに尽きる。でも倫理はすごく便利なツールである。それをその事例に応じて採用するのも大人対応である。便利だから=得だから採用する。そこが大人の対応。
市販鍋スープは味が濃すぎる件、不味い件
友人が遊びに来た際、外に行かないときの食事は鍋が多い。私は普段調理を一切しないので、一部の調味料は常備しているけれど薬味は無いので凝った料理が出来ない、ごみが出るのが困るという事情がある。
今まで鍋らしきものに対して自前でスープをこしらえてきたわけだが、市販品(レトルトストレート出汁)と対峙することになった。結論からいうと手間の代金は市販スープの圧勝、でも不味い。そしてすごく塩っぱい。あのしょっぱさはメーカーが考える旨い味なのか。
ここで脱線。あのしょっぱさは異常なので、、、水で薄めるとアミノ酸と塩加減とのバランスが崩れる、なので鰹出汁で薄めると良いと思う。2CUP(400cc)以上の鰹出汁で薄めるのが吉。逆に言えばしょっぱ過ぎる上に高い。
しかしとにかく不味い、以前にしょっぱい。そして水で薄めると本当に不味い、メーカーが商品開発したとは思えない不味さだった。出汁で割るという工夫があって初めて「食べられる」ほどのものでしかない。今までいわゆる「メーカー」の研究所とか商品開発を割りと信用してきたのだけれどあの各メーカーの揃った不味さにはびっくりした。本業の提案にも今後は疑いの目で確認する必要があるであろう。受け狙いの不味いけどマニア向けなら理解できるけど本業の味レベルに疑問を持つ。(ちなみに全ての鍋用スープを食したわけではない、目立ったものを幾つか食した。)
同様に居酒屋の鍋も不味い、でも安いので許す、僕はあまり食べないけど。以下、私は市販鍋スープが塩っぱいという前提であるがそうでないと皆が思うのであればこの記事はいいがかりです。
結論:流行りものの鍋は不味い。メーカーの提案する鍋は不味くて食えない。自分で出汁と具材の処理を行おう。(飲食店系列提案の鍋は否定していません、私は食べてないので。)
もし殺菌上の問題で塩分濃度が必要であれば「ストレート」を謳う必要が無い、というか水で薄めると不味い。技術的な問題ではないと思う。なので「あれが美味い」とメーカー開発者は思っているのであろう、だったらそのメーカーの開発者というか、(もしメーカー開発者が塩分大好きでないとしても)お偉方は味音痴だということだと理解する。重ねて述べるけれども私が味音痴なのかもしれない。
そして日本人は「塩分控えめ」を寿命延長の国是のはずで、、、仮に私個人が塩分嫌いであったとしてもと思うんだけど。しょっぱいのは「悪」だよね、それを食品メーカーが知らないということはありえないよね?ということ。
民主党は小沢氏から何を引き出せばいいのか分からない件
小沢氏の政倫審出席の行方が報道されてるんだけど、なんの為にか全く理解できない。
検察が起訴を放棄したことからも小沢氏は(グレーであったとしても)真っ白なわけだ、小沢氏を黒にしたい有力な支援団体があったにも関わらず。
小沢氏サイドとすれば秘書に問題があったとして、資金を現金で移送した不自然さがあるとして、まぁ切り抜けたわけだ。そこを盟友である総裁が「なんかあるはずだ」という視点で「政倫審に出てよ」と言われても、、、困るなぁという反応をしてもおかしくは無い。
過去の政倫審への大物の参加は弁明の場であった。ところが小沢氏は検察審議会で情緒的に黒にされたらしく裁判で争われる。大将何言ってんのということであろう。
左翼お得意の内ゲバですか?
政権が法人税5%ダウンとか、所得税増税とか、主婦控除見直し検討とか割と過激なことを行っているのには評価できるというか左派としては面白いと思っている。
誰か(左派)を出発点とした論理整合性は視点を変えれば変わる訳で、そこを柔軟にというかなし崩し的に認めさせたのかもしれない。
話を戻す。小沢氏が政倫審に行っても、裁判への不利な証言は守られるのであろうから全くの無意味だ。野党があまりこだわらないのもその点にあるのかしら、いやそもそも野党は求めていないので与党内分裂なのでしょう。旧自民党の常識、自民党の勝ちパターンが忌避された事実は反省してもらいたい。利権政治はいまだ地方では、、、。
政治の悪い点を小沢氏に押し付けるのは無理があると思う。というかそれを改めるのが民主党の責任であって、ぐちゃぐちゃ言わずに成果をという事なのでは。
政権与党は「正しいこと」を行いたいらしい、しかしできない。その責任を旧勢力(=小沢氏)にかぶってほしいらしい。それが破綻した、なので戦略が破綻したという理解(責任)でいいのかしら。すごい、現政権のマジックワードの誕生だ。やはり民主党の理念では中国や北朝鮮は動かないわけで。結局誰が何をするのか?民主党はゆるい、安倍さんも麻生さんも、その手の批判で沈んだ、追い込んだ民主党もいつかはですよ。
結局「小沢氏が政権を不安定にした」という禊で取り繕うのか?民主党は票として小沢氏を扱うのか、結構面白い。まぁそれは悪手だと思うけど。
コーポレート戦略とブランド戦略と
とあるサイト(シャンプーマニア)で綾瀬はるかがSKⅡが14日間プログラムを推奨しているのに同じP&Gの商品(パンテーン)(大本のパンテーンのキャンペーンサイトにも出てるし)で乗っからないんだと憤っている。
一方でフジフィルムは総合戦の様相で、アスタリフトのイメージキャラの中島みゆきとデジカメの佐々木希が樹木希林と堀北真希が例年の「お正月を写そう、フジカラーで写そう」に出ている。
この違いは外資というわけではないのであろうが、ブランド戦略を行っている企業と、ブランド戦略に持ち込めない弱小企業の立ち位置を見て取れる。トイレタリーや化粧品、有力ブランドはメーカーや資本を意識しない戦略が続く。パンテーンもラックスもまた欧州有力ブランド(たとえばLVMHなど)は資本を意識させないブランド戦略が覗ける。
一方、フジフィルムグループはフジフィルムであることの信用力を生かそうとしている。
フジフィルムは圧倒的な知名度はあるが、商品力としては、例えば具体的な商品を思い浮かべるのは難しいであろう。一方ブランドにミステリアスな現実的でない印象を維持するには現実的な資本のイメージは現実的過ぎて適当でないのであろう。
ブランド戦略とは難しいものなんですね。
ちなみにLVMHはルイ・ヴィトン+モエ・ヘネシーなんですよね、酒・時計・ファッション・フレグランス・宝石・DFSとすごい展開ですね。そりゃブランドイメージの方が大事だと理解できます。
このあたり(月刊国際商業)も参考にしてます。
自民党の取る戦略
いわゆる「風」を受けて無党派層を取り込んだと思われる民主党であるが思った以上に「総論反対各論反対」状態に陥っている。自民党の気風が嫌いだから抜け出たり在野に居た人たちが反自民で結束できたけど、政権を得た瞬間に総論すら合意できていない。
僕はそれでも政権交代の意義はあったと思っている。民主党幹部の理念や支持団体から来る反対論を見ていると自民党は多くの勉強をしたのだと思いたい、「俺らの方がましだと」。しかし国民は全くといってそう思っていない、民主党が旧自民党路線を基本的に引き継いでいるわけで、それを支持できない人たちが総論反対各論反対なのだから。民主党は支持を得る代わりに自民党のしがらみを引き継いだ上に、各政治家の理念に引っ張られている。
ということは自民党が行うべきは逆張りだと思う。例えばFTAやTTPは認めた上で兼業農家の所得保障を個別に考えればいい、または農地の都市化を認めてもいい。付加価値で勝負している野菜や果実・畜産・花卉がおいてきぶりなのは「票」を意識しているわけで(それはそれでしょうがないけど)日本のグランドデザインを考えているわけではないという証左ということ。この全体の利益から逸脱した、票を意識した政党はしょせん風に負ける。無党派層的には自民党に政権を戻してもどっちもどっちなのだ。どっちも任せるに足らないので今更「自民党」という選択はない気がする。
このような理念や論理で無党派層を取り入れ続けるのは政党・政治家にとってリスク大きすぎる。なので無理なのであろう。民主党のとるべき戦略は「与党」として制裁をちらつかせ票のとりまとめを行うのが「正しい戦術」でしょう。過去に自民党が行ってきた戦術です。なので真面目に政党としての意義を考えると言うのはアリだと思う。票が期待できない「無党派層」を対象とした戦略である。
例えば民主党は子供手当てと主婦控除廃止をセットで行うと言っていましたができてません、その程度の論理的な正しさを主張しても良いんじゃないでしょうか。
生命はかけがえのないものなのか
熊森論争を見ていて根本的な疑問に思いを述べる、「生命はかけがえがないのか」という疑問である。
自分の命はじぶんにとって非常に大事なものなので「代わりが無い」わけで「かけがえが無い」ことは間違いない。それを拡大解釈をすると「生命はかけがえが無い」と飛躍し、過去の多くの宗教家が「殺生を戒める」という教義を述べることになったと思う。動物を殺す時には彼らなりにもだえ死ぬわけで、自分に置き換えると「殺生は悪」というロジックは受け入れやすいロジックであろう。あらゆる死を自分に置き換えるのは自然の感情であろう。ある種の勝手な線引きがあって、僕の児童期の場合は虫や魚はエゴで殺せても両生類・爬虫類・哺乳類の無益な殺生には良い感じを覚えなかった。
これは非常に勝手というか論理的でない感情であって、「じゃぁそもそも殺生とは」という疑問が起きても良いはずであったが起きなかった。それが熊森が論理的な思考を促してくれた。
単純な思考実験であるが、どこから「殺生」なのであろう?どこからというのは進化論的・野蛮な考え方で哺乳類が高位であるという選考からの思考、自分に似ている生物の殺生は嫌うけど似ていなければ構わんとか、病原菌すら生物であるわけで。さらに食料である経済動物はとか現代人は複雑な思考を強いられる。それを「殺生はよくない」という括りは非常に不完全である。鯨は殺してはいけないけど牛は殺してもいいし、生物の多様性は重要だけど病原菌及びその搬送者である昆虫は絶滅しても構わないとか論理矛盾が非常に多い。そこを気付かせてくれた熊森は偉い!
過去の宗教家を貶めたいわけではない。彼らは彼らの社会常識で教義を打ち立てたのであろうし、そもそも病原菌という概念すら無かったであろう。
熊森に戻るのであるが、彼らの主張は非常に素朴だ。素朴なだけで論理整合性はないし、この現代で彼らの活動が害悪であることは明白であっても素朴を重視することに困る常識者という構図がある。その構図の背景が標題の件であるが「生命はかけがえがない」という宗教的概念、もしくは自分の命がかけがえが無いことを背景に(困ったことに)「全ての生命はかけがえが無い」という前提を素朴に受け入れていることにありそうだ。
例えば「自分以外の命に無頓着である」と仮説を置けば割りとすんなり理解できる。生物多様性重視論は例えば人類に有用性に貢献できるのであれば賛成するけど自分の周りのハエや蚊・ゴキブリは居なくなっても構わないという精神と矛盾する。ところが生物多様性を保存した方が抗生物質や生命プログラムの解明には役に立つ。人類にとっては生物多様性は役に立つのであるが個人的には真逆なのだ、邪魔な生物は排除したい。
この本音が「市街地に出没する熊や猪は殺せ」であり、可愛そうという概念が「殺すな」という主張だ。人類という壮大な論理であれば生物多様性や自然保護は重要であり、自分自身であればゴキブリすら許せないのだ。
「殺生」を悪だと規定した論理をもう少し疑ってもいいんじゃないか?自然な感情としての「可愛そう」というのを乗り越えて。理念で菜食主義を行っている人にも疑問がある、「動物の生命はかけがえがない」として「植物の生命は規定外だ」という論理は聞いたことがない。というのは理念として「殺生は悪だ」というのは感情的には理解できるんだけど殺生という概念が動物というか哺乳類にだけ限定されていることが理解できない。重ねて言うけど過去の宗教家や現代人の感覚として「殺生は可愛そう」ということは否定しない。論理的に考えたらどうかということ。エクスキューズを言うけど植物や菌が生物であるという概念はここ最近のトレンドである。
「殺生」に懐疑をもっても害獣を絶滅させて良いという主張ではない。殺生に対して必要以上に罪悪感を持つ必要があるのかという疑問である。単純に自分が得になるように野生生物をコンとロールすれば良い話であり、そのコントロールについて罪悪感を一切もつ必要が無いのではないかという疑問である。標題で言えば熊森がいくら理念を述べても淡々と駆除して何が悪いということである。
まぁこの手の問題は論理でぶった切っても決して良い解決法にはならないのは理解している。だって熊森も反捕鯨も論理性はないということ、論理で論争しても結論は変わらないから。世間をいらだたせるのは論理性がないということを知っていながら認めないことである。それを決めるのは政治でしかない。在野の人間が論理で説得できると思うのは間違いで、まぁ彼らの感情論が世論を引っ張ることを恐れるからこその論争なのであろう。
僕的な論理的な結論。「自分以外の命には価値が無い、しかし種には価値がある」(家族とか友人とか同僚とか、自分に関連性が無い命はという意味ですよ)
以下追記
追記)「海豚や鯨はスマートだから殺してはいけない」という論理もある、この論理は人間に近いとか知性への線引きを行う論理でいまいち納得できない。まぁ彼らは知性に劣る人間を排除しても良いという論理につながるという選民性があると想像する。思考実験を考えると知性に線引きするのであれば「それはどこか」という事実にぶち当たるわけで、それは神に喧嘩を売っている気がするのだけどどうなんでしょう。(人間が言う)下等生物への虐殺は全く問題ない、というのは違和感を感じます。
別の言い方をすると「僕や家族の命がかけがえが無い」ことを保証してもらうには国民の命のかけがえの無さも保証しなくてはいけない、そうでないと無条件な命の保証が無いことになる。「熊の命も大事だ」という主張は「自分の命が熊並だ」という宣言である。熊被害(といわず獣害)に命の危険を感じた故の銃殺に反対するには「先ずその被害者及び被害者候補の人の生命を保証すべき」だ。
例えば僕の命がパンダの命より安いことは知ってはいるけど「お前の命の価値はパンダ以下だ」という宣言は国民の命を値付けする行為で、だからこそ臓器移植はくだらない速度でしか進まない。経済学ではあらゆるものに値段と言うか価値がある、そして死体や臓器にも値段が付くのだ、それを恐れているのだ。
個人的な勝手な印象。不快であればこの段落は削除します。
人里に現れた熊は狙撃すべきであろう。人里の美味い作物やごみ、美味い食料があることを覚えた熊は積極的に降りてくるであろう。例えば山に住んでいて山里に降りて来れば、我々が未来都市に紛れ込んだ錯覚を覚えるであろう。居心地は悪いはずだ、それでも利得を知ってしまえばまた来る可能性は高い。そもそも野生動物が積極的に人類と接触しようとは思っていないはずなのだから。
人里に下りてくる熊を全部殺せば、人里に下りてくるメリットも継承されない。人の臭いを「食い物がある」と感じるか、「危険」と感じるか大きな差がある。彼らに経験を積ませてはならないのだ。だから殺したほうが良い。(あくまで論理的な解釈です)
でもすごくすっきりした。グリーンピースもシーシェパードも熊森もある種の価値観で生物を選択して保護を求めている。そのある種の価値観とは「可愛そう」という素直な感情であり、非論理的な感情である。非論理的な感情が悪いとは思わないが勝手な価値観であることは間違いないであろう。その背景は「生命はかけがえが無い」という道徳的な背景であり、この道徳的な背景を疑えばかなりすっきりする、「お前は間違っている」と。
電子書籍は成功するか
多分成功するであろう。大手出版社がビジネスチャンスをみすみす見逃すはずがないからである。
音楽業界を見ていて、音楽自体が衰退していないことからも分かる。
音楽はバンドや歌手が楽曲を作れば商品になるものでもなければ、プロモートが無ければヒットも生まれない。コンセプト・作詞・作曲・編集(曲)・録音してやっと商品が出来上がる。素人に毛が生えた荒削りな才能は磨く必要があるかもしれない。メーカーに勤めているので商品ができたら商売が成り立つとはとても思えない。的確に市場で地位を得るには宣伝・販促をかけないとならない。
なので電子出版にはこのコーディネーターが必要となる。売れてる完成度が高い作家は編集やプロモートの手助けはあまり必要ではないかもしれないが、装丁は最低限必要だ。また新作の告知も。ましてや文学賞などで新しい才能を発掘して、一定の売り上げを得るには新しいコンテンツを供給し続ける必要がある。これを作家の自由意志だけに頼っても自己満足という名のゴミ箱サイトができるだけだ。
アマゾンのようなプロモートしたり検索&お勧め表示やランキングを備えた書店も必要であろう。電車広告みたいなものも必要であろう。広告代理店も必要なのだ。
ちょっと違った視点を考えるとブックオフなどの古書店からのフリーライドを避けられるので業界全体としては潤う可能性もある。割れ対策が完璧であると仮定してだが。
要は電子化によるとばっちりは製紙メーカー・インキメーカー・印刷会社・書店だけが受けることになる。大手印刷会社といえば大日本印刷と凸版印刷が思い浮かぶけるけれど、この協業部分を全く行っていないというのはちょっと考えられない。要は『モノ』に関係する以外の部分は全部まるっと必要なのだ。
問題があるとすれば書店で気になる本をウォッチして、実際の購買は電子書店で購入されるフリーライドが問題となるかもしれない。書店減少は経済効果や雇用問題としては大きいかもしれない。しかし消費者も電子書店しかなくなるとそれはそれで困るわけで淘汰はされることはあっても『書店』というビジネスモデルは生き残るであろう、付録主体の雑誌など『モノ』としての本を売る書店は。量産効果をどう考えるかという問題は残るが。
しかしそれに同情できない部分がかなりある。書店のビジネスモデルとして新刊→新書・文庫という本をモノとして扱ってきた歴史があるわけで、電車で読むことがほとんどの私にとって新刊はその形態の時点で購入候補から外れる。コンテンツビジネスでありながらモノを売るビジネスになっていたわけだ。
私は個人的には電子書籍端末に興味が無いので電子書籍が書店ビジネスに風穴を開けるのではないかと期待している、書店の筋肉質化だ。電子端末を買うとすると新書サイズ+αの端末で新書・文庫を原寸か少し拡大(老眼?)できるといいのかも、ガラパゴスがそうなのか?少なくともiPadのようなA4・B5には興味が無い。
そもそも何冊も文庫・新書を持ち歩く必要性を全く感じない。一人旅に行くときくらいか、しかし一人旅には行かないし。海外出張でも仕事の書類の確認や映画を見るのに忙しく、文庫は1冊で十分だと感じている。
書店が減るのはさびしいけれど書店が筋肉質化するのであれば歓迎だ。書店はカレンダーや手帳など文具店との融合できるであろうし。逆にモノを売るビジネスとし鍛えられている、あとは出版社が書店(消費者)が望む商品をラインナップできるかということであろう。新刊と文庫が同時に出る時代を望む、そのキラーコンテンツが電子書籍だと思う、なので文庫化が進むであろう。
AUのスマートフォンの電車広告にGAGA乳首が映っている件
blog放り出してんなぁ。まぁこの傾向は続く。
今日電車に乗っていてふと気がついたんだけど。扉のAUの広告、まぁIS03とLady GAGAさんの広告なんだけど乳首が映っているとしか思えない感じだった。
NETで調べればすぐに画像が発見できると思ったんだけど、AU公式Webにも、Google検索でも出てこない。
元ネタは楽曲のジャケ写だと思うんだけど肝心のところに文字があって判別不能(google:GAGA the fame monster)
まぁ、だからどうだってネタなんですけど。そして過去にヌードを披露しているGAGAさんなんでそれほどのインパクトもないし。
詳しい方教えてください。