村爺のなんでもいいべ

南相馬市の馬事公苑を中心に活動しているディスクゴルフの話題や南相馬の出来事や思いついたことを書いていきます。

あの日から11回目の3.11

2022年03月11日 19時23分16秒 | 震災・放射能

あの日から11回目の3.11を迎えた。

あの時と同じ場所で2時46分を迎えた。

10年目を迎えた日を最後に全員での黙とうを終わりにしたので一人で海に向かって黙とうを捧げました。

東日本大震災と原発事故により亡くなられた皆様のご冥福をお祈り申し上げます。

あの日も金曜日だったと思う。

仕事が一段落し週末の後片付け中に襲ってきた巨大地震。

あの時の恐ろしい光景が未だに脳裏に浮かんでくる。

海抜20mにある敷地まで飲み込んできた大津波。

自分の車が流されて電柱に引っかかっている光景を呆然と見つめている自分。

海底が露出し巨大に盛り上がった海が迫ってくる光景。

海水に膝までつかりながら必死に高台に逃げる姿。

雪が吹き付ける暗い中山を越えて自宅まで歩いて帰宅した時のこと。

自宅に明るく電気が灯っていて安心したこと。

家族が全員無事で涙が流れたこと。

あの日のあの時から始まった困難で屈辱的だった避難生活。

毎日が不安で不安でどうしようもなかった。

あの日を境に生活が大きく変わってしまった。

いろいろあったけど、

多くの皆さんに支えていただいたおかげで当たり前の生活がおくれている。

これまでご支援いただきました皆さんに感謝申し上げます。

ありがとうございました。

当たり前の生活ができるって本当に幸せなことなんですよ。

年を重ねる度に頑張る気持ちが衰えてきているような気がするけど、

もう少し頑張らないとね。


南相馬市メモリアルパークへ行ってみた

2022年01月23日 18時36分52秒 | 震災・放射能

昨年の4月に完成した南相馬市メモリアルパークに行ってみた。

北泉海浜総合公園に隣接した以前住宅があった場所に盛土して作られた。

津波が発生した場合の緊急避難経路としての機能を持つ高台に設置されています。

階段の他に車いすでも登ることが出来る通路があります。

メモリアルパークの高さは10m。

それ以上の津波が予想される場合は高台の公園へ通じる通路も確保されています。

メモリアルパーク内には記念碑とモニュメントが設置されています。

東日本大震災復興記念モニュメント。

三角錐の間には、東日本大震災時の津波の高さ11.1mが記されています。

海面がこの高さまで盛り上がったなんて恐ろしい。

モニュメントはステンレス製の双三角錐で構成され、

本体は、南相馬市の3区(鹿島区、原町区、小高区)の絆を表現します。

下部は、大震災から今日までの復旧・復興を、

上部は豊かな自然が映り込むことで、

南相馬市の未来を創造する力強さを表しています。

東日本大震災に伴う南相馬市の被災状況が記されています。

震災前の北泉海浜総合公園は松林に囲まれたきれいな公園だったんですよ。

津波に襲われて全て流されてしまった公園。

3月22日は原発事故で避難を余儀なくされた時期。

私が訪れたのは避難先から帰宅した4月1日。

あれからもうすぐ11年。

松林は消えてしまったけど公園は復興しています。

緑が戻るには数十年かかるでしょうね。

記念碑には犠牲になった807名の名前が刻まれています。

碑文は、

平成23年(2011年)3月11日午後2時46分に発生した、

三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震は、大津波を引き起こし、

多くの家屋や財産、636名の尊い命を奪い去りました。

さらに、東京電力福島第一原子力発電所の事故により、

当時の人口7万人のうち6万人を超える市民が、市外への避難を余儀なくされました。

過酷な避難生活により健康を損ない、命を失った方も500名を超えています。

やり場のない悲しみは、今なお癒えることはありません。

犠牲になられた方々を忍び、復興への決意を新たにするとともに、

震災の記憶や教訓を次世代へ継承していくことを誓い、

この碑に犠牲者の御芳名を期します。

記された名前の中には知り合いの名前が多くありました。

あの笑顔が忘れられませんね。

ここの場所は、津波が襲う前に友人の家があった場所。

避難先から帰ってきたときには家の基礎しか残っていませんでした。

先日も津波警報が発令されたけど、

津波警報が出るたびにあの時のことがフラッシュバックしてくる。

震災と原発事故からもうすぐ11年。

あんな思いはもう二度としたくない。


震災遺構浪江町立請戸小学校を見学

2021年12月28日 10時37分08秒 | 震災・放射能

今年の10月に開館した震災遺構「浪江町立請戸小学校」を見学してきました。

原発事故の警戒区域にあった浪江町は立ち入り制限があったので、

請戸地区に行くのは震災以来初で10数年ぶりかな?

美味しい魚を食べに訪れていたんだけど、

あの集落は跡形もなくなくなっていて請戸小学校がぽつんと立っています。

駐車場には県外ナンバーの車が多く満車状態。

まだまだ被災地を訪れる方が多いのに驚かされます。

2011年3月11日の東日本大震災の脅威や教訓とともに地域の記憶や記録を後世に伝え、

防災意識の向上を役立てるため、被災した町立請戸小学校を震災遺構として一般公開したそうです。

管理棟で入館料を支払い入館。

写真撮影は可能ですが、公開されている映像を撮影することは禁止されています。

開館時間は9時30分~16時30分。

毎週火曜日が休館日。

入館料は、一般300円、高校生200円、小中学生100円。

管理棟にはパネルで浪江町や小学校の紹介、震災と津波の状況が展示されています。

地震発生時に撮られた写真には多くの家屋が残っていますが、

大津波で全て流されてしまいました。

請戸小学校は、1873年浜谷善一氏宅に広業小学校が創立されたことから始まり、

建て替えや改称を経ながら長年にわたり地域に愛された来たそうです。

請戸小学校は海岸から約300mの距離。

2021年3月11日、未だかつて経験したことが無い大地震・大津波と

その後の原発事故に見舞われ、甚大な被害を受けました。

当時通っていた児童93名(内1年生11名は帰宅していた)は、

教職員の迅速な判断と児童の協力により、

奇石的に全員が無事に避難することが出来ました。

見学は、管理棟を出たところから校舎1階を巡ります。

津波は2階ベランダまで達したようです。

地震発生から全員が無事に避難できたところまで時系列で紹介されています。

震災直後から被災地を嫌というほど見てきたので状況が想像できます。

校舎内に流れ込んだであろうがれきは取り除かれ建物の被害だけが保存されているようです。

施設の様子と避難状況は写真でご覧になり想像下ください。

 

2週間後には卒業式が予定されていてその練習が行われていたそうです。

大津波から無事に全員避難できたのも束の間、

その後に発生した原発事故でまた別の地域へ全員させられてしまいました。

浸水被害のない2階はきれいな状態。

6年生教室の黒板には、避難先から訪れた卒業生や捜索に携わった自衛隊の皆さんのメッセージが残されています。

千葉県の中学生が団体で見学に訪れていました。

現在の被災地にはあの当時の面影はなくなってしまいましたが、

震災遺構を実際に見ることにより本当の恐ろしさを感じてほしいですね。

東日本大震災と原発事故からもう少しで11年を迎える。

ハード面ではすっかり復興してしまったように思えるが、

心に残っているあの光景を忘れることはできないでしょう。


あれから10年

2021年03月11日 19時08分20秒 | 震災・放射能

3.11

あの日から10回目の3.11を迎えた。

あの日被災したあの場所で今日を迎えた。

地震発生の14時46分。

津波が到達した15時39分。

10年間忘れたことが無いこの時間。

あの時、もし、頑丈な建物の中にいなかったら、

この日を迎えることはできなかったろう。

いつもこの時間に海に向かって黙とうを捧げるとこみあげてくるものがある。

これからも忘れることが出来ない時なのだろう。

そして、

あの時に見た黒い大きな波は頭から消えることは無いだろう。

全国の仲間や友人からのご支援や励ましの言葉があったからこそ、

これまでの10年間を頑張ることが出来たんだと思う。

いろんなつながりから生まれた絆に助けられた10年でした。

先日の地震でも多くの方から心配や励ましの言葉をいただきました。

本当に感謝しかありません。

ありがとうございました。

何よりあの時に奪われずに運よく助かった命。

命があったからこそこの日を迎え10年間を振り返ることが出来た。

残り少なくなった人生、一年、一年を大切に生きないとね。


忘れた頃にやってきた!!

2021年02月15日 09時25分44秒 | 震災・放射能

東日本大震災から間もなく10年を迎えようとしている

2021年02月13日に突然襲ってきた。

翌日のディスクゴルフ大会に備えて早めの22時に就寝。

気持ちよく眠りについたころ、

突然の大きな地鳴りとともに始まった突き上げるような大きな揺れ。

けたたましく鳴り響く緊急地震速報の警報。

寝起きのぼけた頭で何をすべきか?

ただ棚から落ちるものが散乱していくのを見ながら揺れが落ち着くのを待つしかなかった。

23時08分発生の地震は福島県沖。

それも相馬沖あたりで近い。

マグニチュードは7.1、最大震度は6強。

やはり震源地に近い相馬市や新地町で最大震度を記録した。

南相馬市は震度6弱。

揺れが収まってから家中をとりあえず点検。

東日本大震災の時より揺れが短いかったからか被害は少ない。

停電も断水もない。

東日本大震災の時も停電は免れたので恵まれているのかもしれない。

落下し破損して割れたガラス食器類を片付け、崩れ落ちた棚のものを整理。

観葉植物の鉢が倒れて散らばった土を片付け濡れた床の清掃。

深夜2時まででほぼ片付け終了し就寝できた。

震災後は地震に備えて耐震を考えていたが、

10年の間に地震への備えがおろそかになってきていたのかもしれない。

神は「忘れるなよ!!」と忠告してくれたのかもしれない。

東日本大震災の余震だというが、

そういえばあの時も数日前に大きな地震があり、そして3.11に本震が起こったような気がする。

ちょうど10年目にまた巨大地震なんてことにならないでほしい。

余震の余震が続いている。

そして、今日は被災地を大雨が襲う予報。

最大震度6強を記録した地域の被害は大きい。

これ以上被害が大きくならないことを祈りたい。


南相馬の海上でやっていたのはこれだった

2021年02月01日 12時23分44秒 | 震災・放射能

土曜日から南相馬市の沖合に海上保安部の巡視船が停泊していたので、

事故か何か起こったのかと思っていたら、

今日の新聞に掲載されていました。

東日本大震災の大津波による行方不明者の捜索をしていたんですね。

潜水士が水深10mの海底に潜って捜索してくれたようです。

潜水による捜索は今年で3年目。

震災から毎月11日に警察による捜索も続けられています。

南相馬市の行方不明者は現在87名。

空の骨壺で葬儀を済ませた方が多いようです。

身体の一部でも発見されて骨壺に入れてあげれればいいんだけど、

残念ながら最近は何も発見されてないみたいです。

東日本大震災と原発事故から間もなく10年。

もう10年なんですよ。


あの日から9年

2020年03月11日 18時58分33秒 | 震災・放射能

2011年3月11日午後2時46分

そして、

あの大津波が襲来した午後3時36分。

あの日から9年の月日が流れた。

今年も震災に見舞われた同じ場所から海に向かって黙とうをささげた。

9年が流れても鮮明によみがえるあの光景。

決して忘れてはいけない、忘れられない。

その後に起きた原発事故により、

当たり前の生活を奪われた。

身も心も追い込まれる屈辱的な避難生活を味わった。

それでも多くの皆さんに励まされ、助けられてここまでこれたような気がする。

その支えがなければ今の生活はなかったでしょう。

皆さんからいただいた暖かい気持ちを忘れてはいけない。

9年経って当たり前の生活は戻ってきたけど、

この9年間で多くのものが奪われ、失われた。

一緒にいろんな活動をしてきた仲間たちが若くして亡くなった。

震災で助かった命だったが、その後の困難な生活で命を縮めたのかもしれない。

友人を見送るたびに自分の気持ちも沈んでいくような気がした。

この9年で自分を取り巻く環境が大きく変わってしまったけど、

見送った仲間たちの分も、

支えていただいた皆さんに報いるためにも、

頑張らなければ!!


あの日から7年

2018年03月11日 11時14分04秒 | 震災・放射能

2011年3月11日に発生した東日本大震災から早7年

穏やかだが寒い朝は会社で迎えた

そういえばあの日も寒かったような気がする

地震の後に襲ってきた大津波から逃れるために海水が膝まで残る中を濡れながら避難

雪がちらつく中を震えながら高台に避難していたことを朝日を見ながら思い出した

震災により亡くなられた皆様のご冥福をお祈り申し上げます

南の方を見ると完成した嵩上げした防潮堤の先20kmに事故を起こした原発が望める

震災だけだったら早く復帰して震災前の姿を取り戻すことができただろう

この原発事故のおかげでこれまで生活してきた環境のあらゆるものが変えられてしまった

家庭環境、地域、会社、農業

7年の間に復興は進んだが

以前の平穏な生活は戻らない

それでも以前の姿を思い出しながら頑張って行かなければならない

そんな思いの朝でした


6年1ヶ月ぶりに遭遇

2017年04月11日 09時11分37秒 | 震災・放射能

会社へ出勤するのにいつも通るJR常磐線の踏切。

電車が走っている姿を見かけたことはあるが、

踏切で出会ったことは無かった。

出勤時間がちょっと遅れて遮断機が下りているのに遭遇。

東日本大震災が発生して遮断機が下りっぱなし警報が鳴りっぱなしの時以来の遭遇。

そういえば震災前朝の出勤時にいつも止められていらいらしていたのを思い出した。

JR磐城太田駅に電車が到着する前に鳴り始めるこの踏切。

駅で乗客が乗り降りする様子を見ながらいつもイライラしていたっけ。

6年1ヶ月ぶりのイライラ。

電車が来るまで長いんですよね。

でも、

徐々に以前の生活が戻って来るのを感じますね。

電車が走らない踏切を渡り続けてきたあの気持ちを考えると、

電車が走る姿があるだけありがたい事なんですよ!!

浪江町の避難指示解除に伴い4月1日からJR小高駅からJR浪江駅まで8.9km再開が実現した。

JR竜田駅からJR富岡駅間6.9kmは10月頃に再開予定という。

残るJR浪江駅からJR富岡駅間20.8kmは31年度末までに再開予定。

まだまだ電車で南相馬から南へ向かうには不便な状況が続きますね。

早く特急が通る常磐線になって欲しいものです。


あれから6年

2017年03月12日 09時46分05秒 | 震災・放射能

2011年3月11日 14時46分18秒 地震発生

50分後の15時36分頃に大津波到達

翌3月12日に福島第一原子力発電所1号機爆発

あれから6年

6年という月日が経ってしまったけど、

いまだに消えないあの時の記憶。

会社で作業中に遭遇した巨大地震。

復旧作業中に遭遇した大津波。

まさか海抜20mの高さまで到達するとは想像もしていなかった。

偶然にもコンクリート製の建屋に入っていて助かった。

あの時建屋の外にいたらどうなっていたか。

なぎ倒された松の木や流される車に巻き込まれて助かっていなかったかもしれない。

大津波で多くの方が亡くなられた。

その中で助かったんだから頑張って生きないとね。

新車の愛車は無残な姿になってしまったが、

津波の被災を乗り越えていまは元気に俺に付き合ってくれている。

津波に流された車は危ないよと言われたけど、

復帰してからすでに80,000km以上走り続けている。

せっかく生き返ったんだから長く付き合ってやらないとね。

あの時から6年。

震災で傷ついた姿はすっかり消えてしまって、

復興が急速に進んでいる。

原発事故により降り注いだ放射性物質の除染も山林を除きほぼ終了した。

多くの除染作業員であふれかえってていた町の喧騒も薄れつつある。

復旧復興は進んだが、

以前の平安な姿はもう戻って来ることはない。

震災と原発事故により急速に進んだ人口減少。

急速に進んでいる高齢化。

働き手の避難による労働力不足。

ほんとうの大変さはこれからどっと押し寄せてくるような気がする。

原発事故により避難から短期で戻って、

頑張らなければと思った。

あれから6年。

俺に何ができたんだろうか?

今直面したことに全力で立ち向かってきたような気がするが、

満足な成果はなかったような気がする。

年齢と共に落ちてくる体力と気力。

無理してきた結果身体のダメージも深刻。

これから何が出来るかわからないけど、

それでも頑張り続けるしかないですね。