YとYの日々

Yuyuの日々の出来事と、時より登場するYoyoの交換日記のようなブログです

ベネチア男の野望・その10

2017-03-15 03:22:34 | 美術館・絵画
聖カタリナの神秘な結婚です。

さて、何が神秘なのでしょうか?

この絵の特徴は、「ダビンチコード」のおっぱいです。
主役は、カタリナの乳首です。

画像では、見えません。
しかし、フォーカスを少しだけずらすと、乳首(の模様)が見えてきます。

そのヒントは、この画像です。

同じ模様が、この絵の中に表現されています。
それは勿論、この右側のマリアに分類される女性にも、他のベネチア絵画に見られる描写にも認められない描写です。

本当に書きたかったのは、この描写です。

しかし、この絵は宗教画を基本としているので、そこまでは踏み込めません。
そこで、どこまでこの表現に近ずけるのかに作者は挑戦したと考えるのが、この絵の正当な評価だと考えています。


カタリナと対極的にあるのは、このマリア画像です。


このマリア像の平坦な胸は、性の嬉びを知らないつまらない女を表現しています。

だから、ヨセフは退屈そうな顔をしています。

性の楽しみは、娼婦のマグダラが相手です。

マグダラのヨセフの肩に添える手が、二人の関係を表しています。

この絵がルネッサンス的なのは、マグダラは将来、この赤ん坊であるイエスと関係を持つのに、その父としてのヨセフと関係していたという設定にしたことです。
このような性の昏倒を、肩に添える手だけで表現しちゃうのが凄いところです。

そして、それを悔い改めただけで、神の使徒となれちゃうのがキリスト教の慈悲深いところです。

映画「卒業」は、この逆バージョンで構成されています。
ラストシーンが感動的です。
しかし私としては、花嫁を親族の面前で連れ去られてしまった教会に残された新郎の立場を心配しています。

で、こちらのヨセフをご覧ください。

思慮している風ですが、実はカタリナのおっぱいのことで頭がいっぱいなのです。
ヨセフは、苦悩の表情ではなく、思い浮かべているような表情です。
さて、その頭の中を覗いてみましょう。
漫画であれば、ちょうどヨセフの吹き出しに当たる位置の雲が、ロケット乳と尖った乳首の形で描かれています。
(この画像を、反時計回りに90度傾ければ、見事なおっぱいが現れます)

ヨセフは、このまま立ち上がったら、カタリナの胸元を覗き込む形になります。
年老いても、また年老いたから、若きカタリナへの思いは特別のものがあるのです。

妻であるマリアにはなかった思いが、もしも人生が二度あるならば「おっぱいの綺麗な女と結婚しよう」と過去のつまらなかった性生活を眩んでいるのです。
で、子供に生まれ変わって登場したのです。
その思いが、この子供のカタリナへの視線で表現されています。
この子供は、ヨセフに似せて(鼻筋からおでこにかけて)描いています。
ヨセフの思いを、この子は、指輪で示しています。
ただし、この妄想は現実のできごとではないので、指輪は人差し指にはめています。

この絵の題名は、「聖カタリナの神秘な結婚」ですが、ダビンチコードで、「性カタリナとの淫靡な結婚願望」を描いています。

この絵の色彩としては、右が赤を基調としていますが、中央の肌色のマスをポイントとして、カタリナのビロード調の赤紫のドレスを、全体の構成の中で、それは負けないくらい目立つようにしています。

右側の女性の肌を暗くした対比効果で、カタリナの色白を引き立てています。
この絵で、濃淡の先端が白色へと浄化されて、カタリナへの右胸に向かいます。
目線は自然とカタリナのおっぱいに向かいます。
右胸の上部が、精神力が集中する場所となり、ドレスを鷲掴みにして引き裂きたい欲情を与えています。
うまいぞ! イタリア人。
(医学・解剖学の教科書では、左右は、医師から見た患者の左右になるので、ご注意ください)

ちなみに、ベネチア絵画で多用されている赤は、日本でいう赤ではなく、いわゆるフェラーリのrosso corsaです。
一番右の男の衣装です。

以前、フェラーリのV12を所有していたことがありますが、これは赤ではなく朱色です。
ベネチアの青い空にものすごく映えます。
これに対抗したのが、アルファロメオのブラッドレッドです。
右側の女性のドレスに近いもので、赤に黒を加えた血の色です。
(ランボルギーニは、後発なので、この時代にはまだ登場しません)

話題を元に戻しましょう。
今回のテーマは「おっぱい」です。
この絵が描かれた時代のフローラをご覧ください。


ね!カタリナと同じ表情でしょ。
(流し目は、ヨーロッパ人にとっては、男に媚びを売る仕草と思われています)
そう、このカタリナは美人画として描かれているんです。
作者は、本当はこの様なおっぱいを描きたかったのですが、この絵のテーマから絶対に許されないことです。
そこで、精神の世界で、このおっぱい画像を描いたのです。
この絵は、宗教画における美人画の合体の極限の大作です。

この絵では、結婚が聖なる誓いであることを、聖書を開くことで誇示しています。
したがって、もしも淫らなイメージが少しでもあれば、それが作者の死(宗教裁判における異端者としての極刑)を意味しています。
そのような悩みを、ヨセフが全て表現しています。


結論を申し上げます。
この絵は、宗教とおっぱいのせめぎ合い・葛藤を表現しています。
宗教の象徴である聖書を覗き込む老人は、これ以上エロさが増すと警告するための鐘を下げています。


この絵の右端が厳格な宗教の世界、その側にいる退屈な女に対して、煩悩にふけるヨセフと、その煩悩の根源であるおっぱい、そしてその境界をジャッジメントする鐘を持った老人と考えると、この時代におけるルネッサンスの意義が理解できるように思います。

ルネッサンスが、反キリスト教的でなかったにしろ、それを脱皮しようとした思想は、聖書を持つ男の足元に、死者の首と見える影を書き込んだことで分かります。

当時の体制を強烈に批判するメッセージを、「これはライオンの首です」と言い切れる度量があってこそ、ルネッサンスを発展させることができたのだと思います。

私の解釈では、この時期の絵は、いたるところに作者(の心情)を表現したアイテムを描き込んでいると考えています。
この作者は、自分の首をかけて、おっぱいの描写を行ったのです。
凄いぞ! イタリア人。


この時代(まあ、いつの時代でも)のおっぱい万歳の美人画は、マグダラのマリアを例にあげることにします。

最高峰のおっぱい画像は、これです。
カタリナのおっぱいは、この絵をイメージしているはずです。


苦悩を、リアルに表現した秀作としては、これです。


妥当な線では、これです。



そうすると、今回の展示会での画像が不自然だと思いませんか?

故意に露出された部分を修復しているように感じませんか?
本来は、青い静脈が浮き出るほどのたわわな乳房の上部を、ここに乳首があるような描き方にしてしまいました。
この失敗は、他のマグダラのマリアと比較すれば一目瞭然です。



ここだけ際立って幼稚なペインティングのように感じます。
この白い顔料が腕の部分の上側にまで乗っているのが分かります。
また毛の付近で、不自然な筆使いとなっています。
指先の白い絵の具も、この絵をぶち壊す意味で書き加えられたような印象があります。

「ダビンチコード」のおっぱいこそが、ベネチア男の野望です。
しかし、この絵を購入したベネチア男の亡き後は、つまらない女に負けてしまったのでしょうね。
絵の下手な画家に、気に入らない(自分が羨む)部分を修正させて、さらに腹いせで、作業中の画家から筆を取り上げて、指の部分に筆を走らせたのです。
そのように解釈すれば、不自然な書き込みの理由が分かります。
多分、その未亡人は、おっぱいの魅力に欠けた人生を終えたのだと思います。

ここまで考えて、やっと「マグダラのマリア」の意味が分かってきました。
つまらない女(=聖女・修道女)と理想の女性(淫乱な聖女)を対比させて、初めてマグダラのマリアの「挑発的で官能的な聖女」の称号を理解できたように思います。
<(つまらない女に)挑発的で、(セックスの上手い)官能的な、(理想の)聖女>


  この絵画展を通じて、様々な発見がありました。
  実物の絵でないと、分からない感動が多々あります。
  そこで、yuyuさんと、もう一度絵画展に行くことにしました。


        ベネチア男の野望「完」





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2 コメント

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ベネチアの夢想 (yoyo)
2017-03-16 07:00:04
とりあえず、ベネチア男としての解説はまとめました。

ところで、ベネチア女としては、どうでしょうか?
ね、yuyuさん!
yoyoさん♪ (yuyu)
2017-03-16 11:08:39
ただ今ただよい夢想中…

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